「ない、しんのう……」
 内親王とは、姫皇子(ひめみこ)、つまり、王族の女性のことだ。なにより、『悪星の変』の元凶とは。つまり、巫女王の正体は……。
「物語の、孤独な姫君……?」
 いや、それはあり得ない。だって、姫君は、皆の前で処刑されたのだから。その首を落とされて。
「わたくしは、神に選ばれたのだ。『有夜の民』よ。神が与えた永遠の〝祝福〟のおかげで、わたくしは生き延びることができた。そして、いまも生き続けることができるのだ」
 それなのに、それなのに……、と言いながら、巫女王はその場にうずくまる。ツキモノ化の影響なのか否かは、呉羽には判断できない。
「お前のせいで、お前のせいで! わたくしは、この素晴らしい〝祝福〟を失いそうになっている! お前が逃げたせいだ! そして、そこの忌み子が、わたくしからそれを奪ったせいで……!」
 巫女王は叫ぶ。言っている意味が分からなかった。呉羽と、永遠の消失に、一体なんの関係があるというのだろうか。
「『月の女神』もそうだ! なぜ、わたくしに与えた永遠を奪おうとするのだ! 『七星』の魂を使い、永遠を断ち切ろうとするのか!」
 巫女王はその場で地団駄を踏み、癇癪を起こした子どものように叫ぶ。
「……やはり、そうだったのですね。私が二千年間も、『七星』の生まれ変わりに出会わなかった理由……」
 セキの表情が、どんどん険しくなっていく。ツキモノ化が進み、感情が復活し始めているのか。そういえば、巫女王も、先ほどから感情を露わにしている。
「そもそもおかしいんですよ。一度も神力を分け与えなかった私ですら、ツキモノになりかけているというのに、見境なく与え続けていたあなたが、未だに人としての形を保っているのが。本来なら、もっとむかしに、あなたはツキモノになっていたはずなんです。でも、ならなかった。それは——」
 セキの靄が、ついに左目を飲み込んだ。巫女王も、顔のほとんどが、靄に侵食されている。
「『月の女神』の神力を宿す『七星』。その生まれ変わりである『有夜の民』を殺し、そこから得られる神力を吸い取っていたから」
「わ、わたしの神力……?」
 呉羽の中に、神力があるというのか。まったく自覚はないが、巫女王とセキの言葉が正しければ、『七星』の生まれ変わりである呉羽には、神力がある、ということになる。
「『月の女神』は、あまりにも増えた『永夜の民』を救うために、『七星』の魂に加護を与え、何度も生まれ変わらせた。でも、そのたびに、あなたがその生まれ変わりを殺して、神力を吸い取った。だからあなたは、いまのいままで、人としての形を保ってこれた」
 しかし、今回は違った。『七星』の生まれ変わりである呉羽を、セキが都から連れ出したので、神力を補給できず、結果、このような事態に陥ったのだ。
「お前のせいだ! お前のせいだ忌み子! お前が生まれてから、良くないことばかりが起こっている! お前のせいで、『永夜の民』は、皆ツキモノになったのだ! お前が、皆を化け物に変えたのだ! お前のせいだお前のせいだ!」
 セキを罵倒する間にも、巫女王のツキモノ化は進む。ついには右目以外が、靄に侵食された。この状態でもまだ、声が出せるのか。それは、永遠に対する、恐ろしいほどの執着ゆえかもしれない。
「……おい、『有夜の民』。お前はどうしたい」
「え……」
 どうしたい、とは、どういうことだ。
「このままでは、セキはツキモノになる。生きることも、死ぬことも許されぬ、最悪な化け物と化すのだ」
「……」
「いまここで死ねば、その神力で、セキを救うことができる。まあ、それでも三百年程度だろうが、それでもセキを救えるぞ。さあ、どうする? ここで死んで、その神力で愛しい人を救うか?」
 巫女王は、どこか焦ったように、呉羽に問かけてきた。正直、不気味でしかなかった。靄が、人間の言葉をしゃべり、呉羽を誘惑しようとしているようで。
 巫女王の言葉の最中、セキは膝をつき、その場に座り込む。
「せ、セキっ!」
 ツキモノ化が進み、もう立つことすらままならないのか。
「く、れはさん……乗ってはいけません。あれは、罠です」
 セキが、必死になって、口を動かしている。その様子に、呉羽の胸が一気に冷える。
「さあ! どうする『有夜の民』! 愛おしい人か、命か、どちらか選べ!」
 巫女王は、再度問いかける。
 ——呉羽の答えは、決まっている。
「……ツキモノは、化け物じゃないわ」
 その時、外がにわかに騒がしくなった。
「セキだって、忌み子じゃない。それもわからないようなあなたの言うことなんて聞かない。それに——」
 呉羽は、一旦言葉を切り、そして、
「『月の女神』は、こんなことをするために、あなたを永遠にしたんじゃない」
 そう言った。その瞬間、本殿の扉から、(おびただ)しいの数の靄が、ひとつの塊となり、室内へと入り込んできた。
「ひいっ! つ、ツキモノ!」巫女王は、恐怖で顔を歪ませ、後ずさる。ツキモノたちは、呉羽やセキには目もくれず、一直線に巫女王のもとへと向かう。
「く、来るなあ! 醜い化け物! 化け物があ!」
 その言葉を最後に、巫女王の声は、靄の中へ消え去った。
 ——助けてくれた……。
 そう解釈してもいいだろう。
「ああっ! セキ!」
 呉羽は、セキを抱え、本殿から脱出する。月明かりに目がつぶれそうになりながらも、呉羽はセキを下した。セキはもう、座ることすらできず、仰向けに寝転がることしかできなくなっていた。靄は全身を覆い、唯一口許と、右頬だけは人の形を保っていた。呉羽はその頬に触れ、セキに問いかける。
「セキ、わたしだよ、呉羽だよ。わかる?」
「……わかり、ます。呉羽さんの手、あったかいです」
 声が震えている。セキの身体も、もう限界に近い。
「い、いやだ、わたし……待ってて、いま、死ぬから、セキを助けるから……!」
「……いいんです。やめてください」いまにも泣きだしそうな声で、セキは言う。「もう、いやなんです。あなたのいない世界で、虐げられながら生きるなんて。あなたを探し続けて、苦しむだなんて。あなたに、置いて行かれるなんて——」
「セキ……やだ、やだよ」
「呉羽さん」
 セキは、最後の力を振り絞るように、呉羽の名を呼ぶ。苦しい、胸が苦しくて苦しくて仕方がない。二千年前、『七星』だった呉羽が死んだときも、セキはこんな感情だったのだろうか。
 呉羽は涙を堪えて、「なあに、セキ」と訊いた。そうでもしないと、何も話せなくなってしまうと思ったからだ。泣きださないように、慎重に言葉を紡いだ。
「私は……最初、あなたが『七星』さんの生まれ変わりだったから、都を、一緒に出ようと言ったんです。でも、私は言い直しましたよね? あなたと死ぬまで一緒にいたいから、都を出ようと」
 セキの頬ももはや実体はなく、口許だけが、かろうじて人型を保っていた。
「……」
「そして、その後、こうも言いました。『私はあなたに呪われている』と。まわりくどくてごめんなさい。なので、ちゃんと言わせてください。私は——」
 ——呉羽さんのことを、愛しています。
 その瞬間、呉羽はその我慢もむなしく、その瞳から、大粒の涙が、堰を切ったようにあふれた。
 嗚咽、慟哭、号泣、滂沱(ぼうだ)。そのすべての言葉が、いまの呉羽のためにあるような気がした。
 セキはその言葉を最後に、しゃべるのをやめた。その身体はもう、靄に染まりきっていた。
「や、やだ、やだ。セキ、セキ……! いやだよ、いやだ。わたしを置いていかないで……!」
 セキはひどい。自分は置いていかないでと言いながら、呉羽を置いていこうとしている。呉羽にも、伝えたいことがあった。こんな呪われた世界なんて、もうどうなってもいい。だから、せめて最後ぐらい、伝えさせてほしかった。
「……セキ」
 呉羽は、セキの顔だったところに、ゆっくりと顔を近づける。頬を伝う涙が、セキの頬に触れ、弾けた。そして、わずかな勘だけを頼りに、ゆっくりと、唇同士を触れ合わせる——それは、呉羽にとって、生まれて初めての口づけだった。
 これまで、育ての親の博士からですら、口づけをされたことがなかった呉羽の口づけは、とてもぎこちないものだった。ふたりの柔らかな組織同士が触れ合った時、呉羽は、心にあふれた言葉を思わず口にした。
「……わたしも、セキがすき。あなたのことを——愛してる」
 呉羽にとって、初めての愛の告白。多くの人から愛された呉羽が、初めて心の底から愛したのが、セキだったのだ。
 ——わたし、セキのいない世界でなんて、生きられないよ。
 その瞬間、セキの身体をまばゆい光が包み込む。セキの魂までをも侵食していた靄が、その光とともに、一気に晴れていく。まるで、厚く黒い雲に隠れていた満月が、雲から顔出すように、輝きだす。
「……え?」
 その様子を、呉羽は茫然と見つめる。その神秘的な光景に、目を奪われている、という方が正しいのかもしれない。
 ——永遠が、解けてる……?
 光が収まり、セキがゆっくりと目を開く。その瞳は、純粋そうで、鮮やかな色であふれているように見えた。
「……おはよう、呉羽さん」
「おはようじゃないよ……セキの馬鹿」
「否定できませんね。すみません」
 悪びれることなく笑うセキを見て、呉羽は、また目頭が熱くなる。それを堪えて、セキに、「走れそう?」と訊ねる。
「ふむ」セキはゆっくりと立ち上がり、足元を確認する。「大丈夫だと思いますよ」
「じゃあ……行こう、セキ」
「はい」
 ふたりは手をつなぎ、そのまま走り出す。
 風を切り、地面を強く蹴り、雲と月を、置き去りにする。静まり返り、月の光だけが見守る道を、この上なく幸福そうな笑顔で、呉羽とセキは駆け抜けた。いま、このふたりを止められる者は誰もいない。
 ふたりは、恋に落ちているのだ。この世界で、最も強く、そして複雑な感情である〝愛〟。それを知ったふたりは、どこまでも走り続ける。
 ——わたしは、セキを愛してる。
 呉羽は、改めてそう確信した。セキの大きな背中を、呉羽は追いかけ続ける。
 その頭上には、烏の一匹でさえ、飛んでいなかった。



 泉のほとりで、博士はひとり、月を眺めていた。この泉は、二千年前から、まったく変わらない。まあ、都で変わったものだなんて、ここ二千年間、ひとつもなかったが。
 しかし今日、たしかに変わったのだ。巫女王がツキモノがになったことにより、すべての『永夜の民』が、ツキモノになったのだ。
 この都にはもう、人という人は、博士しかいない。
 ——といっても、俺ももうすぐここを去るがな。
「なあ、慈鳥」肩に止まる慈鳥に声をかけ、博士はにやりと笑う。「いや、もう北斗(ほくと)と呼んだ方がいいか?」
「……はあ、どっちだっていいさ。『七星』と一緒だ。『慈鳥』も『北斗』も、どっちもおれだ」
 こましゃくれたことを言うやつだ。そう思い、博士は自嘲気味に笑う。人のことを言えないと思ったからだ。
「……二千年間、妹が生まれ変わるたびに、お前はそばにいたらしいからな。まあ、呉羽以外の『七星』の転生体なんて知らないが」
「妹馬鹿だと笑ってくれ」
 もう諦めたとでもいうように、慈鳥——北斗は言う。
「……なあ、お前は、これからどうするんだ」と訊いたのは博士だった。
「どうするも何も、目的は果たしたからな。あのふたりは、きっと幸せなれるさ」
 北斗の声は、どこか憑き物が取れたようなすがすがしさがあった。
「俺は、この国を旅してみようと思うんだが……よかったら、ついてきてくれないか? 孤客(こかく)になるのもいいが、やはり旅は賑やかな方が楽しそうだ」
「旅、か……」北斗は、しばらく考え込むようなしぐさをした後、おもむろに、「わかった、おれもついていく」と答えた。
「おれが知らない世界を見るってのも、楽しそうだ」
「それはいいな。余裕があれば、西洋にも出てみたい」
「思い切りがいいな、お前」
「俺の時間は、もう〝有限〟だからな。いまを大事にしないといけない」
 博士は、不意にこんなことをつぶやく。「永遠を解く方法は、愛、だったのだな」
「なんだよ、いまさら」
「いや、考えたんだ。なぜ、『月の女神』が、愛によって、永遠を解けるようにしたのか。そして、なぜ、『七星』の魂に加護を与え、何度も転生させたのか。いま、やっとわかったんだ」
「ほう、なんだそれは」
 北斗が訊くと、博士はにやりと笑って、
「愛を知らない孤独な星羅内親王——巫女王に、愛を教えたかったから、なんじゃないか」
 と言った。
「……」
「まあ、結果として、巫女王の傲慢な性格のせいで、彼女は破滅したようだが……まあ、因果応報だな」
「それはそうだ」
 実の妹を、『永夜の民』に殺された北斗としては、巫女王への怒りは相当なものだろう。それに、生前の自分たちが虐げられた理由だって、巫女王である星羅内親王の傍若無人な行いが元凶なのだ。実際に会わせたら、半殺しにしそうである。
「さて、じゃあ行くか。荷造りを手伝ってくれ」
「この烏の身体では、できることは少ないだろうが……できる範囲で手伝ってやろう」
 ふたりは笑い合って、来た道を戻っていく。ふたつの少年の声は、静かな竹林に響き、やがて聞こえなくなった。



 むかし、むかしのお話です。
 とあるところに、とても仲良しな青年と少女がいました。しかし、このふたりは、〝死〟によって、離れ離れになってしまいました。
 青年は、少女が生まれ変わるのを待ち続けました。何年、何十年、何百年、そして、二千年が過ぎたころ、ふたりは、ようやく、感動の再会を果たしました。
 本来なら、出会うはずもなかったふたりは、運命によって、狂おしいほどの恋に落ち、そして、どこまでも純粋な愛によって結ばれた。
 ふたりは、いつか、笑うように眠りにつく。
 ふたりを一度引き離した〝死〟という〝呪い〟は、いまとなっては、幸せになれる〝祝福〟だ。
 この後、どんな困難が待ち受けようとも、たとえこの恋が、神の意志に反しても、ふたりは愛し合うことをやめないのだろう。
 だってこのふたりは、この世界で唯一、〝死〟を〝祝福〟だと思っているのだから。
 この世界の〝呪い〟から、放たれているのだから。