呉羽はまず、屋敷へと赴いた。追手は、先ほど呉羽を追いかけて、竹林を出ていたので、いまならいないかもしれないと踏んだのだ。
屋敷は、先ほどまでいた男たち荒らされたのか、足の踏み場もないほど物が散乱していた。変わり果てた姿に、呉羽は戦慄した。
「は、博士……い、いたら返事をして……!」
震える声で、博士を呼ぶ。しかし、返事はない。最悪の予感が脳裏をよぎって、呉羽は目頭が熱くなる。
「呉羽……? いるのか」
少年の声がした。呉羽ははっとして、声がした部屋を探す。
「博士……! どこ? 声を出してよ!」
呉羽の問いかけに、「ここだ、ここにいる」と声が帰ってくる。
——書斎から、かな。
博士の仕事場である書斎。たしかにあそこなら、隠れる場所ぐらい、いくらでもありそうだ。呉羽は駆け足で書斎へ向かう。
書斎もまた、変わり果てた姿であった。書架は倒れ、並べられていた書物は、すべて床に散乱している。使いかけだったのであろう墨も、机にこぼれ、た、ぴたんという音を立て、床にしたたり落ちている。
「は、博士……どこにいるの?」と、呉羽は声をかけながら、書斎に足を踏み入れる。足の踏み場もないが、なんとか隙もを見つけて歩を進める。
「こ、ここだ」声がした方にあるのは、大きな行李だった。行李は、衣類などの入れ物のことだ。幼い子どもなら、すっぽりと入れてしまえそうな大きさの行李。——まさか、この中に?
呉羽は、行李の蓋を外す。呉羽の予想通り、中には膝を丸めてうずくまった状態の博士が入っていた。
「は、博士……!」
「ああ……呉羽。お前ってやつは、なんて親不孝者なんだ。お前の中に、『孝女』って言葉はないのか」
こんな状態でも悪態をついてくる博士に、呉羽は安心した。張り詰めていたものが切れ、堪えていた涙が、堰を切ったようにあふれた。
「おい、泣くんじゃない。まったく、お前はいつまでたっても子どもだな」
そう言いつつも、博士は呉羽の頭を優しく撫でる。その小さな手が、いまの呉羽には、とても大きく感じた。
呉羽は、血まみれになっていた着物を着替え、これまで都で着ていた桔梗麻の葉紋様の小袖に袖を通した。行燈袴もいいが、やはりこれが一番しっくりとくる。
そして、博士にこれまでのことをすべて話した。帝都でのこと、セキとのこと、前世の記憶を思い出したこと、そして、春の死についても。
『永夜の民』である春の死を知って、博士も驚いていたが、すぐに、どこか納得したような顔をした。そして、眉を下げ、どこか困ったような、優しい笑みを浮かべる。
「……そうか。春は、ツキモノにならずに済んだんだな。それだけは、よかった」
「うん、そうだね」呉羽は答える。「……ねえ、博士は? なんで博士はツキモノになってないの?」
「さあな。だが、いまの私は、妙に気分がいいんだ。いまなら、都の外に出たいとすら思える」
呉羽は驚いた。『永夜の民』である彼が、都を出たいと言うだなんて、思いもしなかったからだ。
「そうなの? ふふっ、もしそうなったら、帝都にも行ってほしいな。きっと博士が気にいるものが、たくさんあるもの」
「それはいいな。いつか行ってみたい」
ふたりは、屋敷の外に出て、月を眺める。博士にとっては、故郷である月。彼の目に、それがどう映っているのかは、呉羽には分からない。
「……お前は、『七星』としての記憶を取り戻したのか」
博士は、そう言った。
「実は、私も、セキから、何度もお前の話を聞いたことがあった。直接会ったことはなかったが、その容姿は知っていたんだ」
博士は、呉羽を見る。愁いを帯びた、優しい瞳だった。
「だから、お前を一目見たとき、お前が『七星』の生まれ変わりであることは、すぐにわかった。左右不揃いな瞳の持ち主なんて、そうそういないからな」
「……」
「だが、お前を育てたのは……きっと、呉羽の存在が、私の中で眠っていた、人間としての何かを蘇らせたからかもしれん」
——わたしが……?
いまいちわからない。博士は、こういう物言いが好きなのを忘れていた。
「……博士。わたし、セキのところに行きたい」
呉羽は言った。
「わたしが、博士の、人としての何かを蘇らせたんでしょう? なら、今度は、セキの番だよ」
「……」
「わたし、セキを助けたい」
それを聞いた博士は、しばらく黙り込んだ後、「そうか」と答えた。
「なら、行ってこい」
博士は、まるで子どもを送り出すように、優しく微笑む。
「うん、行ってくる。戻ってこれるか分からないけど」
「それでいいんだ、とにかく気をつけろ」
博士はもう一度、呉羽の頭を撫でた。その温かさが、手が離れた後も、余韻として残り続けた。
セキと合流するために、呉羽は、また竹林へと足を踏み入れる。残っていたわずかな勘だけを頼りに、なんとかセキを探す。
しばらく走って、ようやくセキを見つけた。しかし、声をかける前に立ち止まった。それに気づいたセキは、「やっと戻りましたか」と、なんでもないように言う。
「セキ、顔が……」
セキを蝕む靄が、とうとう顎まで到達していた。手袋からわずかに見える手も、靄に侵されている。
「……ええ、本格的にまずくなってきました」
「痛くないの?」
「痛い、というよりは、苦しいです。胸がつぶれるような感じです」
一体どうすればいいのか。呉羽は混乱して、何も考えられなくなる。
「……落ち着いてください。いまからすること、わかっていますか?」
「いまから……すること?」思い当たる節がない。呉羽はきょとんとする。それを見たセキは、小さくため息をついた。
「……巫女王に会いに行きます。彼女には、言いたいことが山ほどありますので」
屋敷は、先ほどまでいた男たち荒らされたのか、足の踏み場もないほど物が散乱していた。変わり果てた姿に、呉羽は戦慄した。
「は、博士……い、いたら返事をして……!」
震える声で、博士を呼ぶ。しかし、返事はない。最悪の予感が脳裏をよぎって、呉羽は目頭が熱くなる。
「呉羽……? いるのか」
少年の声がした。呉羽ははっとして、声がした部屋を探す。
「博士……! どこ? 声を出してよ!」
呉羽の問いかけに、「ここだ、ここにいる」と声が帰ってくる。
——書斎から、かな。
博士の仕事場である書斎。たしかにあそこなら、隠れる場所ぐらい、いくらでもありそうだ。呉羽は駆け足で書斎へ向かう。
書斎もまた、変わり果てた姿であった。書架は倒れ、並べられていた書物は、すべて床に散乱している。使いかけだったのであろう墨も、机にこぼれ、た、ぴたんという音を立て、床にしたたり落ちている。
「は、博士……どこにいるの?」と、呉羽は声をかけながら、書斎に足を踏み入れる。足の踏み場もないが、なんとか隙もを見つけて歩を進める。
「こ、ここだ」声がした方にあるのは、大きな行李だった。行李は、衣類などの入れ物のことだ。幼い子どもなら、すっぽりと入れてしまえそうな大きさの行李。——まさか、この中に?
呉羽は、行李の蓋を外す。呉羽の予想通り、中には膝を丸めてうずくまった状態の博士が入っていた。
「は、博士……!」
「ああ……呉羽。お前ってやつは、なんて親不孝者なんだ。お前の中に、『孝女』って言葉はないのか」
こんな状態でも悪態をついてくる博士に、呉羽は安心した。張り詰めていたものが切れ、堪えていた涙が、堰を切ったようにあふれた。
「おい、泣くんじゃない。まったく、お前はいつまでたっても子どもだな」
そう言いつつも、博士は呉羽の頭を優しく撫でる。その小さな手が、いまの呉羽には、とても大きく感じた。
呉羽は、血まみれになっていた着物を着替え、これまで都で着ていた桔梗麻の葉紋様の小袖に袖を通した。行燈袴もいいが、やはりこれが一番しっくりとくる。
そして、博士にこれまでのことをすべて話した。帝都でのこと、セキとのこと、前世の記憶を思い出したこと、そして、春の死についても。
『永夜の民』である春の死を知って、博士も驚いていたが、すぐに、どこか納得したような顔をした。そして、眉を下げ、どこか困ったような、優しい笑みを浮かべる。
「……そうか。春は、ツキモノにならずに済んだんだな。それだけは、よかった」
「うん、そうだね」呉羽は答える。「……ねえ、博士は? なんで博士はツキモノになってないの?」
「さあな。だが、いまの私は、妙に気分がいいんだ。いまなら、都の外に出たいとすら思える」
呉羽は驚いた。『永夜の民』である彼が、都を出たいと言うだなんて、思いもしなかったからだ。
「そうなの? ふふっ、もしそうなったら、帝都にも行ってほしいな。きっと博士が気にいるものが、たくさんあるもの」
「それはいいな。いつか行ってみたい」
ふたりは、屋敷の外に出て、月を眺める。博士にとっては、故郷である月。彼の目に、それがどう映っているのかは、呉羽には分からない。
「……お前は、『七星』としての記憶を取り戻したのか」
博士は、そう言った。
「実は、私も、セキから、何度もお前の話を聞いたことがあった。直接会ったことはなかったが、その容姿は知っていたんだ」
博士は、呉羽を見る。愁いを帯びた、優しい瞳だった。
「だから、お前を一目見たとき、お前が『七星』の生まれ変わりであることは、すぐにわかった。左右不揃いな瞳の持ち主なんて、そうそういないからな」
「……」
「だが、お前を育てたのは……きっと、呉羽の存在が、私の中で眠っていた、人間としての何かを蘇らせたからかもしれん」
——わたしが……?
いまいちわからない。博士は、こういう物言いが好きなのを忘れていた。
「……博士。わたし、セキのところに行きたい」
呉羽は言った。
「わたしが、博士の、人としての何かを蘇らせたんでしょう? なら、今度は、セキの番だよ」
「……」
「わたし、セキを助けたい」
それを聞いた博士は、しばらく黙り込んだ後、「そうか」と答えた。
「なら、行ってこい」
博士は、まるで子どもを送り出すように、優しく微笑む。
「うん、行ってくる。戻ってこれるか分からないけど」
「それでいいんだ、とにかく気をつけろ」
博士はもう一度、呉羽の頭を撫でた。その温かさが、手が離れた後も、余韻として残り続けた。
セキと合流するために、呉羽は、また竹林へと足を踏み入れる。残っていたわずかな勘だけを頼りに、なんとかセキを探す。
しばらく走って、ようやくセキを見つけた。しかし、声をかける前に立ち止まった。それに気づいたセキは、「やっと戻りましたか」と、なんでもないように言う。
「セキ、顔が……」
セキを蝕む靄が、とうとう顎まで到達していた。手袋からわずかに見える手も、靄に侵されている。
「……ええ、本格的にまずくなってきました」
「痛くないの?」
「痛い、というよりは、苦しいです。胸がつぶれるような感じです」
一体どうすればいいのか。呉羽は混乱して、何も考えられなくなる。
「……落ち着いてください。いまからすること、わかっていますか?」
「いまから……すること?」思い当たる節がない。呉羽はきょとんとする。それを見たセキは、小さくため息をついた。
「……巫女王に会いに行きます。彼女には、言いたいことが山ほどありますので」