もし、地獄をこの目で見ることができたのならば、きっとこのような景色なのだろうと、呉羽はこの時確信した。
 静まり返った市。軒を連ねた屋台。そのいたるところに、ツキモノがはびこっていた。屋台の影、道の真ん中、屋台の屋根の上。そこらかしこで、虫のようにうごめいている。それらはひとつの大きな靄となり、空を覆いつくす。これではせっかくの満月で明るい夜も、意味をなさない。
 その状態を見て、春は絶句していた。それもそうだ。最後に見た都とはかけ離れた姿、その上同胞たちが、ひとり残らずツキモノになっているこの状況を、受け入れろという方が無理な話だ。
 呉羽もまた、その場に立ち尽くしていた。セキは、険しい顔で、その様子を見ていた。
「……博士さんのところに、行こう」沈黙を破るように、春は言った。「ここにいたって何にもならないよ。とにかくいまは、博士さんがどうなっているのか見に行かないと」
「……うん、そうだね」
 呆気に取られていたが、たしかに博士が心配だ。
 ——もしかしたら、もうツキモノに……。
 そう思うと、不安で胸が押しつぶされそうだ。その時、セキが呉羽の手を握る。はっとして、呉羽は顔を上げ、セキの方を見る。こんな時でも、セキは無表情だ。あの時は、あんなに泣いていたというのに。
「大丈夫です。彼は、きっと無事です。長い時を生きている私が言うんですから、間違いないです」
 そう言って、呉羽を安心させようとする。
「……わかってるよ。セキ、春ちゃん、行こう」
 ふたりに声をかけ、呉羽たち三人は、屋敷の方へと走りだした。


 市と、道中の農村地帯は、ありえないほどツキモノがあふれていたというのに、屋敷がある竹林にその姿は皆無だった。静かなその場所は、いま都で起こっていることを、すべて夢として終わらせてくれる、そんな儚い虚妄を抱かせた。
「もうすぐ着くよ!」
 呉羽の声とともに、屋敷の屋根が見え始めた。その時だった。
「吐け! 『有夜の民』をどこに隠したんだ!」
 耳をつんざくような怒号が響き渡る。それに次いで、何かが割れるような音が響く。
「遅かったですかね……」セキが、苦虫を噛み潰したような顔をしている。「どうやら呉羽さんを探しているようですね」
「そんな、博士は、博士は……!」
 セキが言葉を返すよりも早く、男の怒号が続く。
「お前が『有夜の民』を匿っていることは知っているんだ! 早くそいつを出せ! そうすれば、このツキモノの騒動も終わるんだ!」
 ——ツキモノの騒動が終わる?
 一体どういう事だろうか。呉羽の存在が、ツキモノの騒動と何か関係があるのだろうか。
「呉羽さん」考えていると、セキに声をかけられる。「大丈夫です。彼は聡い人ですから、きっとやり過ごせるはずです。それに、彼は子どもの姿をしています。その分、俊敏に動けるはずです」
 セキの言葉に、呉羽はうなずく。その横で、春も「大丈夫だよ」と言って励ます。
 弱気になっている場合ではない、そう思った直後、
「おい! あそこに誰かいるぞ!」
 庭先に出ていた男が、目敏(めざと)く三人の姿をとらえる。
「ふむ、やはりひとりではありませんでしたか……ここは一旦逃げた方がいいでしょうね」
「……わかった、行こう」
 この状況では、そうせざるを得ないだろう。呉羽は素直に従うことにした。三人は踵を返し、もと来た道を走る。後ろから、追手が来ている。呉羽は、とにかく必死に足を動かし、追手から逃げる。
 しばらく走って、竹林の入り口付近までたどり着いたところで、呉羽たちは足を止めた。
「一旦は、()いたかな」
 呉羽がそうつぶやき、肩を下した——まさにその時。
「……呉羽ちゃん、危ない!」
 春の叫び声に、呉羽は反射的に振り返る。視界が、真っ赤に染まっている。それと同時に、胸元をざっくりと切られた春の姿が目に入る。
 追手のうちのひとりが、呉羽を切ろうとしたのを、春が庇ったのだ。
「い、やだ! 春ちゃんっ!」
 呉羽は叫ぶ。セキは、追手に襲い掛かろうとした。しかし、その身に触れる直前、男の身体が実態を完全になくし、漆黒の靄となる。ツキモノになったのだ。
「セキ、どうしよう……春ちゃんが、春ちゃんが……!」
「落ち着いてください。とにかく、竹林の中に逃げ込みましょう。そこでなら、確実に追っ手を撒き切れます」
 いまの呉羽に、何かを考えられるような余裕はない。そんな呉羽には、セキの指示に従うという選択肢しか残っていない。
 呉羽は春を抱き、竹林の中へと入っていった。


 しばらく逃げたところで、呉羽は春を下した。そこで、呉羽は違和感に気づく。
 ——傷が、治ってない。
 かなり深い傷ではあった。だが、あの程度の傷、『永夜の民』なら、もう止血ぐらいは済んでいるはずなのに、傷口からは、未だに血がしたたり落ちている。
「春ちゃん……?」
 呉羽の問いかけに、春はわずかに反応を示す。そして、力を振り絞るように、
「く、れ、は、ちゃん……だあいすき……」
 そうつぶやき、一筋の涙を流した。それを最後に、まるで糸が切れたように、春の身体から力がなくなる。瞳がぴたりと閉じ、涙も止まっている。
「……春ちゃん? 春ちゃん……どうしたの? ねえ、ねえ……」
 呉羽は、春の身体を何度も揺らす。反応はない。呉羽の揺れに合わせて、春の身体もゆらゆらと揺れる。
「……呉羽さん」
「え、なんで、なんで、なんで……?」
 もはや何がなんだかわからず、呉羽は春の名を呼び続ける。しかし、返事はない。当たり前だ、だってもう——
「呉羽さん、春さんはもう……」
 セキは、瞳に愁いを映し、唇を噛む。呉羽の瞳から、大粒の涙が、幾筋も流れる。
「……死んでいます」
 


 竹林の、少し開けた場所。そこに、呉羽とセキは、春を埋葬した。相当苦しんだだろうに、その死に顔はとても穏やかなものだった。
 埋葬が終わった後、呉羽は血まみれに着物を、泥だらけの手で握りしめ、堪え切れずに涙を流す。
「春ちゃん……やだ、やだよ……!」
『永夜の民』は、死なない。永夜の都に住む人間は、呉羽ひとりだけだった。つまり、これは呉羽が経験した、初めての〝死〟だった。書物の中で、何度も見聞きしてきた、死の概念。
 ——それが、こんなに悲しいものだっただなんて。
 いまなら、むかし永遠を選んだ人の気持ちが、わかるような気がする。こんなつらい思いをせずに済むなら、なるほど永遠を望む者もいるであろう。
 だが、それでも呉羽は、自身が永遠になりたいとは、微塵も思わなかった。もちろん、大切な人が死ぬのは辛い。でも、その〝死〟という概念があるからこそ、いま生きているこの時間を、大切にしたいと思えるのだ。
 それだけで、呉羽にとって、永遠というものは、〝祝福〟ではなく〝呪い〟だと思えるのだ。
 呉羽はつと、立ち上がる。「少し、散歩してきていい?」
「迷子になりませんか?」と、セキが心配そうに尋ねてくる。
「ううん、大丈夫。ここからすぐに道に出るから。道に出たら、もうわかるから」
 ひとりになりたい。その意思をくみ取ったのか、セキはうなずき、「わかりました」と言った。
 呉羽は竹林から道へ出て、ゆっくりと歩きだす。今日は、本当に月が綺麗だ。
「春ちゃん……春ちゃん……!」
 呉羽は、友人を(うしな)ったことに、気持ちの整理がついていなかった。つくはずがないことは、呉羽にだってわかる。だが、理解と納得は、別物なのだ。
 しばらく歩いていくと、あの泉に出た。この竹林の道は、すべてこの泉につながっているのかもしれない。
「泉……」
 呉羽は、ゆっくりと泉に近づき、その水に触れる。触れた個所が、ぴりりと痺れる。思わず、手を引っ込める。
「わたし……やっぱり、何かを忘れてるの?」
 セキの発言も、ツキモノを通して見ることができる記憶も、すべて呉羽の中に焼き付いて、忘れられないのだ。
 ——気持ち悪い……。
 腹の底と胸のあたりが、ぐちゃぐちゃになっているような不快感を感じる。この前はこんなに、いやな感じはしなかった。むしろ、いいものだと思ってた。
「……やだ、やだよ。わたし、何を忘れてるの……? セキ、セキ……」
 耐えきれなくなって、その場にしゃがみ込む。水面に映る呉羽は、苦悶の表情を浮かべている。
 そんな状況だ、
「知りたいか?」
 最初、呉羽はそれを幻聴だと思った。だから、無視した。
「おいおい、せっかく声をかけてやってるってのに、無視かよ。ったく、ひでえやつだな」
 そこまで言われて、はっと顔を上げる。頭上に、烏が一羽、旋回しているのが見えた。
「じ、慈鳥……?」
 今度はなんだ。そう思っていると、慈鳥はゆっくりと、呉羽のそばに降り立つ。
「やっとおれの方を見たか。このおれを無視するなんて、いい度胸だな」
「……。……ええ!?」呉羽は、驚きのあまり、その場にしりもちをついた。「じ、慈鳥がしゃべった……?」
「ああ、しゃべるさ。なんせおれは、大事な役目を仰せつかってるんでな」
 そう言って慈鳥は、羽の中から、ひとつの石を取り出した。平べったい、月のような輝きを放つ宝石だ。その石を、どのように羽の中にしまっていたのか、という疑問は残るが、呉羽はなぜか、それに強く惹かれた。
「この中には、お前が知りたいと思ってることが、山ほど入ってる。……知りたいか?」
 慈鳥の問いかけに、呉羽は、うなずく。
「何も、何も覚えてないの。だから、知りたい。教えてよ、慈鳥」
「……ああ、わかった」
 そう言った瞬間、慈鳥の持つ宝石が、玻璃が砕けるような音とともに、粉々になった。
 その瞬間、呉羽はすべてを思い出した。