人々は、涙を流すセキを見て、ひどく困惑している。
「お、おい、『永夜の民』が泣いてるぞ……!」
「『永夜の民』に、感情なんてないんじゃ……」
「だ、騙されるな! きっと俺たちを(あざむ)こうとしてるに違いない!」
 様々な憶測が飛び交う中、呉羽はセキの顔を見つめ続ける。絶望に染まり切った顔に、ぽっと灯がともったような、そんな表情だと思った。
「呉羽さん、なんで、私は、あなたにひどいことを……」
「……されたっけ? 覚えてないんだけど」
 とぼけて見せると、セキは一瞬きょとんとして、すぐに微笑んだ。
「ああ、私の勘違いだったみたいです。ごめんなさい、呉羽さん」
「ううん、別にいいよ」
 あまり意味のない会話をして、呉羽は、
「ねえ、とりあえず逃げた方がいいと思うんだけど、どう思う?」
 と、セキに問うた。それに、セキは考えるようなしぐさをして、「はい、そうしましょう」と答え、呉羽の手を取った。
 その瞬間、呉羽は、群衆めがけて走り出す。その勢いを利用して、セキは立ち上がり、ともに走り出す。
「お、おい! ちょっと待てよ!」
 後ろから呼び止められるような声が聞こえたが、聞こえていないふりをした。いまはただ、セキの手のぬくもりを、感じていたかった。
「ねえ、これからどこに行きますか?」
「ん-、やっぱり、わたしたちの屋敷じゃない? 聞かなきゃいけないことが山ほどあるもの」
「おやおや、これは、帰ってからが怖いですねえ……」
 くすくすと笑うセキは、なにやら楽し気だ。まったく怖そうではない。
「もうっ! 帰ったら覚悟しておいてよね! すぐにお説教してやるんだから!」
 呉羽の澄んだ声と、セキのねっとりとした声が交互に響く。その声を辺りに溶かしながら、ふたりは屋敷まで走り続けた。


 屋敷に帰ってすぐ、何があったのかと、雲母と黒曜に絶叫された。
 それはそうだ。なにせ、いまの呉羽は土ぼこりにまみれ、セキも打擲されたせいで、ぼろ布のようになっているのだから。早急に風呂を沸かしてもらい、身体を洗い流した後、ようやく落ち着いたふたりは、呉羽の部屋で、障子戸の先に見える、手色の景色を眺めていた。
「……やっぱり、たまには都の自然が恋しくなるな。山がね、線を引いたみたいに綺麗に見えるんだよ」
「へえ、それはいいですねえ」
 そんな世間話を交えた後、呉羽は、「わたしね、思ったの」と、セキに話を切り出した。
「はい、なんでしょう」
「わたしね、最低だったなって」
 セキが、息を呑む気配がした。気にせず話を続ける。
「セキがみんなにひどいことをされてる時、すぐに助けられなかった。怖かったの。あの時——都にいたときのことを思い出して」
 あの時の迫害は、それに匹敵する、いや、それ以上にひどいものだった。セキはずっと、あのような迫害を受け続けていたのだ。それも、呉羽よりもずっと、長い時間、悠久とも思えるような時の中で。
 ——それなのに、わたしはすぐに救えなかった。
「セキは……あんな辛い思いをずっとしていても、わたしを助けてくれたのに、わたしは、わたしは……」
「呉羽さん……」セキの手が、呉羽の手を優しく包み込む。「そんなに自分を責めちゃだめですよ。あなたは何も悪くないんですから。それに、私だって、同じでしたから」
「え……?」
「私だって、あの時、あなたを助けるのが、怖かった。これまでこの帝都で、幾度も傷つけられてきましたから。体には何も残らずとも、心にはいつまででも残るんです」
 それは、呉羽だって同じだ。蔑まれてきた時の記憶は消えない。呉羽はこくりとうなずく。
「でも、助けずにはいられなかったんです。言ったでしょう? 私は、呉羽さんに呪われていると」
「わたしに……」
 呪われている。初めていわれたときは、ぴんとこなかったこの言葉。だが——
「……そうだ。わたし、セキにもお菓子を食べてほしくて、とっておいた分があるの。食べてくれる?」
「はい、もちろんですよ」
 呉羽は台所まで走り、セキのためにとっておいたシベリアを持って、部屋へと戻る。
「くふふ、知っていましたが、やはり呉羽さんの作った菓子は美しいですね」
 菓子を受け取ったセキは、まじまじと見つめながら言う。それが気恥しくて、「た、食べないなら片づけちゃうよ!」と語尾を強くして言った。
「おっと、それは困りますね。では、盗られる前にいただきましょうかね」
 匙でそっと切り分けると、それをゆっくりと口に運んだ。味わうように咀嚼した後、文字通り、満面の笑みを受けべて、
「……とっても、おいしいです」
 そう言った。
 ——ああ、やっぱり。
 誰に言われるよりも、セキに言われるのが、一番うれしい。
 初めて呉羽の菓子を食べたのは、博士だった。しかし、味が分からないと、突っぱねられてしまった。それから数年がたって、春と出会って、彼女にも食べさせた。
 まるで、この世の幸福をすべて感じたと思わせるほど喜んで、「おいしい」「ありがとう」と言ってくれた。あの時は、本当に嬉しくて、その後も菓子を作り続ける原動力になった。
 だが、今回は、そのどれとも違う。
 おいしい。そう言われた瞬間、その言葉で、呉羽の心は溢れたのだ。これまで感じたことがないほど胸が高鳴り、苦しいほどだった。でも、もっとそれを感じていたい。そんな感情。
 いまなら、セキの放った、〝呪われている〟の意味も、なんとなく分かるような気がする。
 ——わたしも、セキに呪われている。
 いまはもう、呉羽もセキと、同じ気持ちだから。
 その時、下から、戸を激しくたたく音が響く。
「セキ! おるんやろ、一大事や! はよ開けえや!」
 リョクの声だ。だだっという足音が聞こえ、次いで扉が開く音がする。おそらく、雲母だろう。
「な、なんですか! そんなに慌てて……」
「話はええけん、はようセキと呉羽ちゃんに会わせてくれや!」
 ただ事ではない。ふたりは顔を見合わせ、急いで廊下に出て、階段を駆け下りる。
 玄関には、困惑した様子の雲母と、あとから駆けつけてきたのであろう黒曜。顔を青くして、息を切らすリョク。そして、その後ろにもうひとつ、小さな影が。
「ふたりとも……」
 息を切らしながら、リョクはふたりを交互に見る。そして、リョクは呉羽の双眸を見つめて、
「呉羽ちゃん、あんたに、会わせたい子がおんねんけど」
 そう言うと、後ろにいた小さな影が、ゆっくりと姿を現した。
「……え」
 それは、紛れもなく、永夜の都にいるはずの、春だった。普段から汚れていた頬や髪はいつのも増して汚れ、傷こそないが、着ていた藍染めの小袖は穴だらけになっている。
 春は、呉羽の姿を見た瞬間、その瞳から、大粒の涙を流し始めた。そして、
「……助けて。とともかかも、他のみんなも、ツキモノになっちゃった……!」