翌日、鬱々とした気分のまま、無理やり笑顔を作って、菓子作りに専念する。しかし、やはり思ったような笑顔は作れず、朝一番に会った黒曜にすら心配され、挙句の果てに休むように言われる始末。
 セキと言い争いをした後、悔しさと苦しさで涙があふれ、一晩中泣きじゃくった。そのせいで、ほとんど眠れなかった。最悪の気分だった。こんな気分になったのは、『月下祭』の前日に、博士と言い争いをしてしまった時以来である。
 ——博士は、どうしてるんだろう。
 いきなりいなくなった不良娘に憤りを感じているのか。それとも、どこをほっつき歩いているのかと、呆れて待っているのか……。果たしてどちらだろう。いまとなっては、知る由もない。
 昨晩、『……私は、もう必要ありませんか?』と言った時の、セキのあの表情が忘れられない。きっと、セキは不安になのだ。呉羽が多くの人から愛され、自分のもとから離れていくのが。
 ——そんなこと、絶対にありえない。
 呉羽は、心の底から、本心でそう言える。あの時、助けてもらえた瞬間から、ずっと一緒にいると決めているというのに。信じてもらえていないのか。そう考えると、寂しさが込み上げてくる。
「はあ、こんなんじゃだめだな」
 呉羽は両頬をたたいて喝を入れ、出来上がった菓子を並べていった。
 その時、戸がすっと開き、雲母と黒曜が入ってきた。
「呉羽ちゃん、大丈夫? 昨日はずっと泣いてたみたいだけど……」
「えっと……」なんと言い返せばいいのか、呉羽はたじろぐ。すると、見兼ねた黒曜が「リョクから聞いてんだよ、誤魔化すんじゃないぞ」と釘を刺してきた。そう言われてしまえば、もう何も言い返せない。
「呉羽ちゃんには言えなかったんだけど、もうこの際だから、言った方がいいかなって」
「……帝都での、『永夜の民』のこと?」
 呉羽の問いに、黒曜がうなずき肯定する。
「『永夜の民』は、知っている通り、死ぬことはない。心の臓を引きずり出されても、四肢が切断されても、もちろん、首を刎ねられてもだ。それは、ツキモノだって同じだ」
 呉羽は、脳裏に残る、黒い靄を思い出す。
「帝都にいる『永夜の民』は、ツキモノを祓う。だがそれは、この世から消してるんじゃない、あくまで追い払っているだけなんだ」
 死なないから、それしかないんだ。黒曜の瞳が、どんどん暗くなっていく。
「だから、『永夜の民』の存在も、結局はその場しのぎにしかならないんだよ。追い払っているだけだから」
 その話を聞いて、呉羽は、ツキモノが消されていないと知って、不謹慎と分かりつつも、ひどく安心した。
 呉羽にとってツキモノは、悲しい存在なのだ。人としての形を失った、悲しい生き物。
 ——でも、それは救いではない。
「ツキモノは、人を襲う。なぜかは分からない。そんなやつらから人々を守るために存在している『永夜の民』が、ただ追い返しているだけ。そんな状況だ、『永夜の民』を、役立たずと言うやからも出てくる。その上どんな手を使っても殺すことができない存在……人間どもが、忌み嫌う理由もわからなくはない」
「みんなは、ツキモノが死なないことを知らないんじゃないの? それを知ったらきっと——」
「そんな単純じゃないに決まっているだろう。人々に甚大な被害を出しているツキモノの正体が、『永夜の民』だと知られても見ろ。いままで以上に迫害がひどくなることが目に見えてるだろうが」
 呉羽は、呆然とした。あまりにひどすぎる。『永夜の民』は、毎日のようにツキモノと戦っているというのに、そんなのはあんまりではないか。『永夜の民』も、生きている時が違うだけで、みんなと何も変わらないのに。
「……不思議だね。永夜の都では、『有夜の民』だって、わたしは蔑まれたのに、こっちでは『永夜の民』が蔑まれてる」
「生き物ってのは、古今東西変わらないもんなんだよ。たとえそれが、永遠を生きる人ならざるものであってもな」
 呉羽は、返す言葉が見つからず、黙り込む。黒曜も、言いたいことを言いきったのか、そのまま黙り込んだ。
「……セキは、あたしたちの恩人だよ」
 長い沈黙を破ったのは、雲母だった。その声は、どこか震えていた。
「月の都で、つかえていた主人に毎日のように打擲(ちょうちゃく)されて、地上に捨てられたあたしたちを、拾ってくれたのはセキだった。あの人は、あたしたちにとっては、いくら感謝しても感謝しきれないぐらい、素敵な人なの……!」
「雲母ちゃん……」
「だからお願いします。セキを救ってほしいんです。彼はずっと、ずっと苦しみ続けてるんです。それを救えるのは、呉羽ちゃんしかいないんだよ」
 藁にもすがるような声音の雲母の横で、黒曜も頭を下げ、「俺からも頼む」と頼み込んだ。
 いつだったか、リョクにも同じことを言われた。セキを救ってほしいと。
 呉羽の答えは、あの時と同じだ。
「大丈夫、約束するよ、絶対に。でもね、わたしは、セキだけじゃなくて、みんなも救いたい」
 ふたりは、驚いたような、いや困惑したような表情をする。
「みんなを幸せにしたいの。みんなを愛したいの、だから、セキだけなんて、言わないで」
 その言葉に、ふたりは顔を見合わせ、顔を紙のように崩して泣き始めた。
 そんなふたりの頭を、呉羽は絶えずに撫で続けた。このふたりが、少しでも早く、笑顔になれるように。
 


 重い体を引きずるように歩きながら、セキは見回りをする。
 気分が悪い。それが、この身を蝕む靄のせいだということは明確だ。こんな状態でツキモノなんかに出られたら、たまったもんじゃない。だが、だからといって、対処に応じなければ、人間たちに文句を言われることも、また明確なのだ。
 あれから、呉羽とは顔を合わせていない。否、合わせないよう、彼女のことを避けていた。ただでさえ昨日のことでぎくしゃくしているというのに、こんな状態で顔を合わせたら、また要らぬ心配をかけてしまう。
 ——私は、呉羽さんに嫌われたのでしょうか。
 嫌われたって、文句を言えないようなことをしてしまった自覚はある。怖かったのだ。帝都に来て、誰からも愛されるようになった呉羽が、いつか自分のもとから離れていくのではないかと。周りの人々のように、彼女もまた、自分を拒絶するのではないかと。そう考えただけで、生きるのをやめたくなるほど苦しいのだ。だから、あんなことを言ってしまった。
「私は、何も変わってませんね」
 喧噪の中に消えるひとりごとに、セキはまた、重たい息を吐く。
 その時、遠くから悲鳴が轟いた。


 今日も、呉羽の菓子は、飛ぶように売れていく。新顔の客に挨拶と、店の宣伝をする。その奥では、華世がひっきりなしに動いている。
「今日もありがとう。明日もまた来るよ」
「呉羽さん、これからも頑張ってくださいね」
 そんな言葉が、呉羽を励まし、活力へと変えてゆく。多くの人から愛されるのは、こんなにも幸せなのか。
 ——やっぱり、都を出てよかった。
 だが、呉羽の心の隅には、セキへの心配が陣取っている。今日は日が昇らぬうちから仕事へ出てしまって、顔を合わせられなかった。会っても、気まずくなるだけ、そう考えればいいのかもしれないが、あいにく呉羽には、そんな楽観的な考え方はできなかった。
 ——帰ったら仲直りしよう、もちろんお菓子も持って行って……。
 そんなことを考えていた時だった。
 近くで、女性の悲鳴が轟く。あたりにいた人々は騒然としている。
 ——何かあったの……?
 そう思っていると、ひとりの男性がこちらに走ってきた。
「ツキモノだあ! ツキモノが来たぞお! 早く逃げろ!」
 男性の咆哮に、人々は一斉に逃げ出した。呉羽は、とっさのことで動くことができず、固まったまま。
「呉羽ちゃん、店の奥に避難しよう! ——呉羽ちゃん?」
「い、行かなきゃ……」華世の声は、いまの呉羽には届かない。自身の中にある使命感に身を委ね、呉羽はそのまま走り出した。後ろから華世の声が聞こえたが、振り返る暇はない。人の波に逆らって、呉羽はツキモノのもとへと走る。正確な場所なんてわからない。だが、この方角であることは分かるのだ。
 何とか波を抜けると、呉羽はようやく、その姿を拝むことができた。
 そのツキモノは、いままで見たことないほど、黒く、濃い。それが空を覆っているので、まるでこの世界全てが、真っ黒に染まったような錯覚に陥った。
「……ツキモノさん」呉羽は、ツキモノに語りかける。「どうして、人を傷つけるの? だめだよ」
 ツキモノは、陽炎のようにぐにゃりと歪み、渦を巻くように動く。それを見ていた人々は、悲鳴にも似た声を上げた。
「だめだ! 逃げろ!」
「呉羽さん、逃げてください!」
 呉羽を止める声。しかし、いまの呉羽に、そんなものは関係ないのだ。
 いまこのツキモノを救えるのは、他でもない、呉羽だけなのだ。
 ゆっくりと、呉羽はその腕を、ツキモノに伸ばす。原型がないそれは、呉羽の腕を優しく受け止める。
 また、意識は遠のいていく。



『どうせ、僕なんて、あなたの引き立て役でしょう?』
 青年が、そんなことを言った。そんなことを言われて、驚きを隠せなかった。
『……どういうこと?』
 しぼりだすように、それだけ訊いた。
『あなたは、僕なんかといなくても、誰かに愛してもらえるでしょう? なのに、こんな僕にまで優しくしてくれるだなんて……そんなの、僕を引き立て役だと思っているからに違いないって……』
『……違うよ』
 その言葉を無視して、青年は、いまにも泣きだしそうな顔をして、
『でも、それでもいいんです。引き立て役でも、何でもいい。僕はずっと、あなたと一緒に居たいんです』
 と、卑屈な言葉を吐く。
 そしてまた、繰り返すのだ、『……生きていて、ごめんなさい』と。
 そんな彼を、優しく腕の中に抱く。青年は、驚いたように固まる。
『わたし、あなたのことが大切だよ』
『あなたは、この世界で、誰よりも素敵な人だよ』
 その言葉に、青年は堰を切ったように泣き始めた。
 いままで流せなかった涙を、ここで流しきるように。
 これまでの辛かった想いを、吐き出すように。



 我に返った呉羽は、ゆっくりと腕をツキモノから引き抜いた。
「ツキモノさん……あなたも、愛されたかったの?」
 ツキモノが、何かを訴えるように、ぐにゃりと歪む。悲しんでいるように見えた。
 呉羽は、先ほどまでツキモノに包まれていた手を、今度は伸ばす。あるかもわからない、ツキモノの顔に向かって。
「わたし、あなたのことも愛したいの。あなたも、私と同じ、孤独な人だから」
 その瞬間、ツキモノが、濁った声を発する。いや、声ではなく、ただの音だ。だが、呉羽にとっては間違いなく声だった。
「……呉羽さん?」
 その声に、呉羽の鼓動が早鐘を打ち始める。ねっとりとしていて、いやに耳に残る声。そして、呉羽の心の隅を陣取っていた人。
「セキ……」
 あたりの人々が、再びざわつき始める。
 ふたりは、しばらく見つめ合ったまま、ひと言も発さなかった。このひと時ですら、呉羽にとっては幸せだった。
 しかし、そんなふたりの時間を打ち消すように、ツキモノが大きくうねる。
「く、呉羽さん、逃げてください……!」
 セキの言葉もむなしく、呉羽の身体は、そのうねりによって跳ね飛ばされ、人混みのすぐ近くにたたきつけられる。
「呉羽さん!」
 セキの、悲鳴にも似た声が響く。いますぐセキに駆け寄って、大丈夫だと伝えたいが、打ちつけたところが痛くて、起き上がることができない。着物も、砂ぼこりで汚れている。
「お、おい。何だあれは……!」
 ふと、群衆のひとりが、ツキモノの方を指さした。指さす先では、ツキモノの身体が、砂のように消えかけていた。その動きも、どんどん鈍くなってゆき、最後にはほとんど動かなくなった。
 完全に消えるその瞬間、呉羽の耳に、わずかに、
「……ありがとう」
 という声が届いた。あれは、ツキモノの声、なのだろうか。あのツキモノは、救われたのか。
 ——どういたしまして。
 そう、心の中でつぶやいた。
 しかし、次の瞬間には、立錐(りっすい)の余地もないほどの人が、セキを取り囲んだ。呉羽の身を案じ駆け寄る人々の数よりも、そちらの方が圧倒的多い。
「お前! 『永夜の民』のくせに、なんで何もしなかったんだよ!」
「そうよ! おかげで呉羽さんが傷ついたのよ! もし大怪我をしてたらどうするつもりだったの!」
「そうだそうだ! この化け物! こんな役立たず、帝都からいなくなっちまえ!」
 群衆のセキへの迫害は、徐々に苛烈さを増し、次第に石を投げるものまで現れた。セキは、黙ってそれを受け入れている。
「ああ……セキ、セキ……!」
 その時、遅れて華世が、呉羽のもとへ駆け寄ってきた。呉羽を取り巻いていた人々は、華世がやってきたのを知ると、彼女が呉羽に近づけるよう、さっと距離をとる。
「呉羽ちゃん! 大丈夫? 大きな怪我とかしてない?」
「うん。あ、着物、汚しちゃった」
「そんなの、なんとでもなるからいいの。とにかく、呉羽ちゃんが無事でよかった……!」
 安堵のため息をこぼす華世の横で、呉羽はセキの方を見つめる。
 ——助け、ないと。でも……。
 呉羽の脳裏に、都での迫害の記憶がよぎる。あの時も、呉羽は石を投げられ、罵詈雑言を吐かれた。あの時の恐怖は、相当なものだった。もしいま、あの中に入ったら……。
 そんなことを考えて、なかなか動けなかった。
 その間も、セキへの迫害は苛烈を極め、しまいには背後から殴られ、その場に倒れた。
「……あ、ああ」かすれた声が、口からもれた。
 ——動いて、動いてよ……!
 そう思っても、呉羽の身体は、その場に根を張ったように固まり、動かすことができない。
「……なんだよ、これ……!」
 群衆のひとりが、震えた声で言う。よく見ると、セキの服が捲れ、脇腹が見えている。
 その体は、靄となり、原形を留めていなかった。
 その光景を見た群衆は、皆そろって、恐れ戦く。
 その靄は、間違いなく、先ほどまで暴れていた、ツキモノのそれだった。
「おいおい、嘘だろ……」ひとりの男が、狼狽した様子で言う。「つまり、あのツキモノと『永夜の民』は、仲間、なのか?」
 それは、ツキモノの正体が『永夜の民』だと、皆の前でさらされた瞬間だった。
「おい! どういうことなんだよ! じゃあ、いままでのは全部、茶番だったっていうのか!? お前らのせいで、いったいどれだけの人が不幸になったと思ってるんだ!」
「そうよ! わたしの夫を返してよ!」
「おらの仕事仲間もだ! 全員お前が殺したようなもんじゃないか!」
 人々のつもりに積もった怒りが、尋常ではなかった迫害を、さらに加速させてゆく。セキは、先ほどまでの、すべてを受け入れるような顔ではなく、もう、この世のすべてに絶望したような顔をしていた。
 呉羽もまた、絶望に近い何かを感じていた。
 ——セキが、ツキモノに……?
 いつからだ。わからない。呉羽と出会う前から? 腹の底から気分が悪くて、何も考えられない。不安と、苦しみが()()ぜになって、胸中を渦巻いている。
 不意に、セキの口元が動いているのに気づいた。そして、わずかに、いやかすかに、セキの声が聞こえてきた。
「……『生きていて、ごめんなさい』」
「……」呉羽は、周りの静止を振り切り、ゆっくりと立ち上がり、群衆の方へと近づく。人と人の合間をうまくすり抜けて、着実にセキの方へと近づく。
 ——いまのセキは、むかしのわたしと同じ。
 人々からの迫害に耐え切れず、生きるのをやめたくなるほど絶望している。そんなセキに、いまの呉羽ができること。
 それはもう、ひとつしかない。
 呉羽がセキの前に立つと、いつかと同じように、怒号も罵詈雑言もぴたりと止む。
 その場にしゃがみ込み、呉羽は、セキの青い瞳を見つめる。その瞳には、優しくて、でも、いまにも泣き出しそうな顔をした少女が映っている。
「あ、ああ……く、れは……さん」
 セキは、信じられないといったような顔をして、こちらを見ている。
「セキ、昨日はごめんね。心にもないこと言っちゃって」
 いま一番言いたかったことだった。セキは、わずかに首を横に振る。
「……ねえ、生きていてごめんなさいなんて、言わないでよ。考えないでよ」
 そして、呉羽は、手を差し出した。あの時、セキがそうしてくれたように。セキが、涙を必死にこらえているのが分かる。いまはもう、それすら愛おしい。
 ——わたしはもう、セキが愛おしくてたまらない。
 かける言葉は、もう決まっている。堪えきれなかった感情が、幾筋もの涙となって、呉羽の頬を伝う。
「だって、わたしたちは、〝ともだち〟なんだから」
 その瞬間、セキの努力もむなしく、堪えていた涙が堰を切ったようにあふれ、彼の輪郭を描いて崩れ落ちた。