……どれだけ走ったかは、もう分からない。
 先ほどの気配を感じ、走り出してからもうだいぶたつ。匂いもどんどん濃くなる。なのに、なかなかそこまでたどり着けない。
「主はん!」
「あるじ様!」
 小夜啼鳥の姿の戻った凛と樹希が追いかけてきた。我が眷属ながら、よくついてこれたものだ。
「主はん……だいぶ走りましたな。四半時(しはんとき)(約三十分)以上走っとりましたで」
 凛の言葉を無視して、目の前の石段を見上げる。
「主はん、ほんま何があったの? ……いや、ここから強い気配は感じるけど」
 激しく息を切らしながら、朝美は呟く。
「……いる、いる。あの子を殺した……あいつが、呪狼が……!」
 ふたりが息を呑む気配がする。
「いこう……」それだけ言って、苔の生えた石段を駆け上がる。ふたりもついてくる。

 のぼり終えると、先ほどの気配の理由がよく分かった。
 異形、異形、異形……どろどろとした汚泥のような、決まった形を持たぬ物体が、境内(けいだい)のいたるところにいる。その体にある血走った目は、こちらをずっと見ている。
 異形だ。
 きっと、呪いの影響で、ここに多く集まっているのだろう。
——異形の宝庫だな。
「……樹希」
「はーい、あるじ様」
 樹希の身体が砂城のように崩れ、齢十三ほどの少年が現れる。無造作な短髪は、蝙蝠のように黒く、瞳はくりくりとしていて愛らしい。そばかす混じりの愛嬌のある少年の姿、これが樹希の人型だ。
「展開!」樹希は手を掲げて結界を展開させる。薄絹の(とばり)が下りるように、結界が境内を覆い、そして妖気が満ちる。
「滅!」
 朝美が何かをつかむように手を握り叫ぶと、異形がどんどん霧散していく。
 異形は、幽鬼の怨念の出がらしが具現化したものだ。そんな異形は、陰陽師やあやかしの妖気を吸って力を増すが、貪欲にその力を吸い続けると、霧散する。
 たとえるならば、肥料焼けだ。植物の生長を促すための肥料も、与えすぎれば枯れてしまう。それと同じで、異形も妖気を吸いつつけると消えるのだ。
「うーん、結構強ない? ここにいる奴ら。結界を張った時点で消える異形、全然おらんかったやん」
 樹希が張る結界内の妖気濃度は非常に高く、並の異形なら張った時点で霧散する。
「……あの呪いの影響で、強くなっているのかもしれない」
 息をすることさえ苦しい。すさまじい妖気……いや、瘴気のせいか。
「あの、(やしろ)の中からだな」
 遠くからでも感じる妖気の出どころであろう社は、陽炎のようにぐにゃりと歪んでいるように見えた。焦げた飴のような匂いも、ここまで濃くなるとむせ返りそうだ。
 朝美はせき込みながら扉の前まで歩み寄って、扉に手をかける。
 つばを飲んで、勢いよく、その戸を開ける。

 その刹那、社内から、呪いの匂いが身体にまとわりついてきた。まるで、親にまとわりつく子のように、胴を、両腕を、両足を、頭を、包み込んできた。
 そして、その先の影を見て、朝美はハッとした。
 影の正体——呪いの出どころは、この男だった。
 男のもとへ駆け寄ると、男がおもむろにこちらを見る。
 
 その瞬間、胸を何かが突き抜けるような、切ない苦しさを感じて、朝美は息を呑んだ。

 体中を強く縛る帯状の布。そこには大量の呪文が書かれており、呪い封じの術式が施されている。しかし、それでも呪いは封じ切れておらず、彼の周りは陽炎のようにゆがみ、瘴気をまとっている。
 間違いない、この男が呪いの出どころだ。
 しかし朝美は、男の無惨な姿に胸を痛め、息を吞んだのではない。
 その男の顔に、ただただ目を奪われた。
 どこかで会ったことがあっただろうか、とも思ったが、それはあり得ないと否定する。
——こんなきれいな顔、一度見たら絶対に忘れない。
 年は二十をいくつか過ぎた頃合い。切れ長で、二重の涼しげな目元はどこか愛嬌があり、左目から頬にかけて走る細い傷は、彼の美しさを助長させている。毛量が多く、ぱっと目が覚めるような色素の薄い茶髪は柔らかそうで、蒲公英(たんぽぽ)の綿毛のようだ。
 どこか、可愛げのある、美丈夫といった印象だ。
 その美しい顔と、清らかな水のような瞳に、呼吸も忘れて釘付けになる。
 美しい、ただそう思った。
「……あなたは」
 問いかけると、苦し気にこちらを見つめてくる。その姿に、どうしようもなく切なくなった。
「主はん! 大丈夫か! ……いや、大丈夫やないなあ!」
「大丈夫なわけないでしょ、凛!」
 人型に変化したふたりが駆け込んできた。そこでハッと我に返って、二人の方を向く。
「凛、樹希! 呪いを浄化する、結界を張って」
 無言で樹希は頷き、「展開」と結界を張る。また、帳のように結界が下りる。
 朝美は懐に忍ばせていた札と、玉のついた針を取り出した。
 そして、ためらいもなくその針を左人差し指に刺した。焼けるような痛みの後に、じんわりと血が滲む。その血を札にこすりつけ、その札をくしゃりと握りしめた。
阿波ノ宮(あわのみや)加護——常闇の舞!」
 呪文を唱え、握りつぶした札に息を吹きかけた。その札は藍色の煙となり、男の身体にまとわりついて、そして身体に染み込んだいった。
 男の土気色だった顔色が、徐々に良くなっていく。——よかった、浄化が効いている。

「……?」
 光のなかった男の瞳に光が灯り、ゆっくりと瞬きをする。「……あなたは……一体」
「よかった、浄化がうまくいったようですね」朝美はふっと笑いかける。「凛、樹希。これを解くのを手伝って」
 これ、とは男に巻き付いている布のことである。ふたりは頷き、それをほどきだす。
「え……待ってください。あなた達は、いったい何ですか」
 男は困惑した様子で問うてくる。なんとなく、親とはぐれた子供のようだと思った。
「このふたりはわたしの眷属です。……わたしは陰陽師ですから」
「陰陽……師?」
 どうやら意識がまだはっきりしていないらしい。
「はい、そしてわたしは」
 朝美はすっくと立ちあがり、拘束から解放された男の前に立った。

「わたしは徳嶌家当主が妻……徳嶌朝美と申します」

「徳嶌……」男は目を見張った。いきなり、「徳嶌」という名前が出てきて困惑しているのかもしれない。
「そう、でしたか。助けていただいてありがとうございました」男も立ち上がる。しかし、ふらりと重心が傾き、倒れかける。あっと思って彼に駆け寄り身体を支える。男に触れた部分から、一気に熱が集まる。
「はは……すみません。まだ頭がぼうっとしていて……」
「……あの呪いはかなり強力なものですから、無理はありません」
 高鳴る鼓動を抑えつつ、朝美は答えた。
「ありがとうございます」といって、男は朝美から離れた。
「では、俺も自己紹介をしましょう」
 そして、優雅な立ち振る舞いで、こちらを見る。引きかけていた熱が、頬に逆流してきた。

「俺は徳嶌家当主、徳嶌信長。……あなたの、夫です」

 朝美はまた、息を吞んだ。