浴槽がある家は、案外少ない。
 理由は単純で、木造建築では火災が発生しやすからだ。あと、綺麗な水は貴重という事情もある。
 陰陽師家や名のある神社、一部の武家の屋敷などには、清めのために浴槽があるが、ほとんどの家のものは湯屋に行く。
 徳嶌の屋敷にも浴槽はあるが、朝美はたまに湯屋の賑やかな風呂に浸かりたいと思う時がある。菜々子はいい顔をしないが、凛がついて行くと言うと、それ以上は踏み込んでこない。不満そうな顔はするけれど。

「主はん、聞いてみてもええ?」
 湯屋への道中、凛は控えめに聞いてきた。「構わない、言って」と言うと、おもむろに話始める
「何で主はんは、そこまでして旦那様を見つけようとするんですか? 旦那様が帰ってこうへんかったら、その間ずっとあの家におれるのに、あの女のいる家に帰らんですむのに……! うちは、主はんを傷つけるようなあの女がいる、あんな屋敷に戻りたくないですわっ……!」
 最後は絞り出すような声だった。少しずつ傾いている陽光が逆光を作り、凛の顔を隠している。なので、どんな顔をしているのかは分からい。
「凛……」
 朝美はそのまま手を伸ばし、凛の頬に触れようとする。

 不意に、飴が焦げたような甘い匂いが鼻を掠めた。

 朝美は、背筋に冷たい汗が伝う。
——何‥‥これ。
 バサバサと、羽ばたく音がした。
「あるじ様、これ……」
 どこからか飛んできた樹希が、朝美の肩に止まる。「呪詛ですか? しかもかなり強力な」
「やろうな、樹希。……ちょっとヤバいかもなあ、これ。どうですか? 主はん……主はん?」
 凛が何度も声をかけるが、今の朝美に凛の言葉など、ほとんど耳に入っていなかった。
——この気配、この……匂い
 知っている。この気配と匂い。
 六年前の出来事が、脳裏に鮮明に映し出される。部屋中の行灯(あんどん)の火が一気に消えていくように、視界が暗転する。

「いやっ! ——!」
「——逃げて! 逃げてえ! あたしのことは気にしないで、は——」
 ——喰われた、喰われてしまった。喰われたとしか言いようがなかった。
「あ、あ……あぁ……!」
 そして、その声は慟哭(どうこく)となり、叫びになった。

「まさか、まさか……!」
 朝美は風呂用具を放り投げて、匂いのする方へと走り出す。後ろでふたりが呼ぶ声が聞こえたが、そんなこと気にならなかった。