今となっては昔の話だが、倭ノ国島を創り出した神がいた。
 人々はその神を(あが)(たてまつ)り、心の拠り所としていた。
 しかし、悲しいことに、神は呪詛によって殺されてしまった。
 ただの呪詛ではない。人々の争い、妬み、悲しみ、混乱などの、負の感情によって生み出された呪いだ。呪詛により、その御神体(ごしんたい)は首、胴、腕、足に分かれてしまった。
 人々はまるで、この世の光を失ったような絶望を感じた。
 しかし、ここで奇跡が起きた。
 別れてしまった神の身体から、四人の女神が生まれたのだ。
 両腕からは阿波ノ宮姫神(あわのみやのひめかみ)
 両足からは土佐ノ宮姫神(とさのみやのひめかみ)
 胴からは伊予ノ宮姫神(いよのみやのひめかみ)
 そして首からは讃岐ノ宮姫神(さぬきのみやのひめかみ)
 彼女らは倭ノ国の小さな島に降り立ち、その土地に強い加護を与えたという。
 四人の神がいるその島はのちに、四ノ神島(しのかみじま)と呼ばれるようになり、各女神が降り立った場所は
 阿波ノ宮姫神の地は徳ノ宮(とくのみや)
 土佐ノ宮姫神の地は高ノ宮(こうのみや)
 伊予ノ宮姫神の地は愛ノ宮(えのみや)
 讃岐ノ宮姫神の地は香ノ宮(かのみや)
 と呼ばれるようになったという。
     ——倭ノ国 四ノ神神話伝より、一部抜粋

 四ノ神島、徳ノ宮。
 阿波ノ宮姫神が加護を与えるその地には、安和家という陰陽師の家系がある。長らく才をもった陰陽師を輩出し、香ノ宮に本家をおく、神宮皇家(しんぐうこうけ)からも強い信頼を寄せられている一族だ。


 この世には、怪異(かいい)がいる。

 怪異とは、あやかし、幽鬼、そして異形などの、人々の思想やうわさによって生み出されたものの総称だ。
 昨今(さっこん)、あやかしは恐れられる存在から、大衆娯楽へと変わりつつある。そんな人々は、楽しみのためにあやかしを信じ、話し、広めていく。そんな今の世で、幽鬼や異形を(はら)う仕事を担う……それが安和をはじめとする陰陽師の一族だ。
 そんな安和家にて、耳をつんざくような声が響いた。 
           
「ちょっと! なんであんたがこんなところにいるのよ!」
 縁側でまどろんでいた朝美はいきなり浴びせられた罵声と熱に、悲痛な声を上げる。飲みかけの茶をかけられたのだ。()れたての茶はまだ強い熱を持っており、朝美の頬にやけどを負わせる。
 茶をかけられた頬に手を添えながら、かけられた方を見やる。
——ああ、やはりそうか
 藤色の縮緬地(ちりめんじ)の着物に身を包み、顔にはおしろいと紅で、まるで花魁(おいらん)のように着飾っている。されども年相応のしわは隠せておらず、無理やり若見えさせようとしているだけにも見えた。
 現当主の妹で、朝美の叔母、美智(みち)である。
「……ああ、叔母様。いきなり茶をおかけになってどうなされましたか? 何かお気に障ることをしたでしょうか?」
 口の端を少し上げ、朝美は笑って見せる。本当は笑う余裕などない。ただ、この女の前だと話は別だ。
 この女に弱い部分を見られる事が、朝美はとにかく嫌だった。
 しかし、この言動は毎回、美智の神経を逆撫でる。

「だまりゃ!」美智は朝美の頬を強くはたく。先ほどやけどを負った方の頬である。相当な苦痛を伴うだろうに、それでもなお、朝美は(かたく)なに声を上げなかった。
「無能のくせにのほほんと暮らしやがって! わたくしに口答えして! 身の程をわきまえろ無能! 神の捨て子が!」
 まるで醜い遠吠えのようだ、と思った。
 美智が罵詈雑言を吐く中、廊下の角から一人の少女と少年が走ってくる。ざんばらんに切られた黒髪に、涼しげな二重が美しい少年は、朝美の弟であり、安和家次期当主の真昼(まひる)。背中を隠すように伸びた髪が美しい、二十歳前後の娘は、美智の娘である(ほたる)。真昼の許婚(いいなずけ)だ。
「母上、いい加減にしてください!」美智を突き飛ばし、朝美をかばうように立つ。美智は憎々しげに蛍を見ているが、彼女がひるむことはない。「第一、朝美は無能ではありませぬ。その証拠に、朝美はすでに多くの幽鬼や異形を祓っています。朝美が無能なら私も無能でございます。さあ、私を無能と罵りください」
 まるで武士のようだ、と朝美は思う。
 蛍の父、つまり美智の夫には祖父の葬式の時に合ったきりだ。武家の次男坊ということは知っているが、朝美にとってその存在は、陽炎(かげろう)よりもぼんやりとしている。ただ、不愛想そうな男だったことだけは記憶していた。
「蛍姉様の言う通りです。それに、あなたは姉上を無能と罵りますが、あなたの持つ力は姉上と大差ないでしょう。姉上が無能というならば、叔母さまも無能ではありませぬか!」
 真昼ははっきりと言い切る。こういった彼の性分は、自分によく似ていると思う。
 蛍と真昼の主張に、反論する言葉を失った美智は苦虫を嚙み潰したような顔をした。そして、叫ぶように言う。
「ふん、あの子に比べれば、あんたなんて無能も無能。どうしてあんたが生き残ったのかしら? あんたの代わりに、安和は最高の宝を失ったのよ!」
「母上……!」
 蛍は信じられないものを見たような声を上げた。真昼は悔しそうに袴を握り、そこにしわを作っている。
 その横で、朝美は心が黒く染まっていくのを感じた。