阿波ノ宮本堂、数ある阿波ノ宮姫神(あわのみやのひめかみ)が祀られた社の中で、一番格が高い社。
 その神域には、女神が許したものしか立ち入れない。否、辿り着けない。

 そんな本堂の前に、一人の女性が立っている。
 藍色(あいいろ)を帯びた長い黒髪と藍染(あいぞめ)の衣は、風もないのに美しくなびいており、雅で神々しい美しさを放っている。少し吊り上がった目尻に、青い瞳を長いまつげが優しく抱き込んでいる。年頃は十八、九ほどの、美しい娘であった。
——そう、彼女こそ、四ノ神島に加護を与え、守護する四姉妹の女神、その長女である阿波ノ宮姫神である。
 不意に、小鳥の澄んだ鳴き声が聞こえてきて、彼女はそちらの方へ手を伸ばす。
「ああ、お疲れ様。また来たのね」
 差し出された手の人差し指に、飛んできた小鳥が止まる。
「あら、妙にやつれているけれど……何かあったの?」
「——。——……」
 小鳥がそう言うと、彼女は哀れそうな顔をする。
「ああ、呪狼の呪いを浄化したのね。それは疲れるわよねえ」
「——……」
「ふふ、そうは言いつつも、力を貸すんだから、お人よしねえ」
「……」
 阿波ノ宮姫神は、眼下に広がる景色を見る。今日は満月なので、いつもよりも里が鮮明に映る。
「……二人は、やっぱり惹かれ合っているのね。まあ、二人はどちみち、惹かれ合う運命なのだけれど」
 小鳥は小さく鳴く。
「ええ、そうね。あの娘はきっと、それを許さないでしょうね」

 呪狼
 今から七百年以上前。
 双子の妹を生き返らせようとして、逆に自身が呪いに取り込まれてしまった。愚かで、哀れな現人神(あらひとがみ)の呪詛。

「でも、妹も妹よ。人と神‥‥‥許されざる恋という禁忌を犯し、それに溺れていった」
 そう言うと、小鳥が阿波ノ宮姫神の手をくちばしでつつく。まるで今の言葉に(いきどお)っているように。
「ああ、悪かったわ。他意はないのよ」
 そう言い聞かせて、やっとつつくのをやめた。——本当に、この小鳥は。
「‥‥‥それに、わたしも同罪よ。禁忌と知っていて、あの二人のことを黙認していたから」
 阿波ノ宮姫神は、空を見上げ、その目を細める。
 今宵の月は、本当に手が届きそうなほど大きく、美しく見える。
「……でも、何がいけないのかしら。わたし達も、意思を——魂を持っているのに、自由になれない」
 小鳥が少し心配するような声色で鳴く。阿波ノ宮姫神はその頬を細い指で撫でた。
「何を心配しているの? 大丈夫よ。あの二人は、合わせて『長月』になる名前の持ち主なんだから。二人にはきっと、わたし達女神の加護があるはずよ」
 そう言い聞かせると、小鳥は阿波ノ宮姫神の手から離れ、飛び立っていった。
 その様子を、彼女はその姿が見えなくなるまで、ずっと見続けていた。


 戌の刻(午後七時から午後九時)頃、朝美と信長は『新緑の間』の廊下で、満月を見ていた。いや、朝美が信長を呼んだのだ。

「旦那様……わたしと離婚しましょう」
 信長が息を呑む。
 一拍おいて、信長は「わかりました」と言った。まるで、絞り出したような声だった。
「……一つ、言わせてください」
「……はい」
 信長は深呼吸をして、まっすぐにこちらを見て言った。

「俺は……朝美さんのことが好きです」

 朝美は、目を見張った。
「すみません。離婚しようって言い始めたのは俺なのに、こんなこと」
 (はな)をすすりながら言った。
「でも、どうしても言いたかったんです。あなたにこの気持ちを知ってほしかった。……なんて、これは俺のわがままですけど」
「……」
「本当に、ありがとうございました、朝美さん。あなたの御恩は、一生忘れませんからっ! まあ、あとどれくらい生きられるかわかりませんけど……絶対に忘れません!」
 朝美は、信長の空元気(からげんき)に、呆れてため息をついた。

「……そんなに泣いてたら、説得力がありませんよ。信長様」朝美は信長に近づき、こぼれる涙を手巾で拭う。「初めて会った時から思っていましたが、あなた、だいぶ子供っぽい性分ですね」
 呆れたように言うと、信長は自身の頬に手をやる。
——今気づいたのか。
 自身が泣いていることに。
「え、あ……すみません」
 洟をすすって謝罪する信長が、何故か無性に可愛く見えて、彼を犬のように撫でまわしたくなった。
「あはは……ほんと、こういうところは格好悪いですね、俺」
「……泣くことは、何も格好悪いことではありません。むしろ、我慢する方が格好悪いですよ」
 信長は目をしばたたく。「そう、ですか? ありがとうございます」
「どういたしまして」と言って、朝美は息を吐いた。
 しばしの沈黙ののち、朝美は口を開く。

「わたしは、確かにあなたと離婚はします。でも今日は、それを伝えるために、ここにいるわけではないのです」
「……え?」
 信長はきょとんとする。「じゃあ、何で……」
「わたしは、あなたに言いたいことがあるんです」
 信長の左胸に手を添える。信長は不思議そうにこちらを見ている。

「一年……一年だけください。その一年の間に、信長様の呪いを祓います。もし、本当に呪いを祓うことができたら……その時はまた、わたしと結婚してください」

 信長は目を見張る。何か言いたそうにしているが、驚きのあまり、声が出ないようだ。
「つまり、これをもってわたしたちは、雇い主と雇われ陰陽師になるってことです」
 朝美の提案に、信長は力なく笑った。
「人間には、祓えない呪いって言っていたのに……」
「それは、わたし以外の誰かがやったことであり、わたし自身がやったことではありません」
 信長は押し黙る。正論だからだ。
「それに、わたしがいなくなったら誰があなたの呪いを浄化するんですか? あれを浄化できるような陰陽師、なかなかいませんよ」
 意地悪気に笑う朝美に、信長は困惑しながら問うてきた。「何で、俺のためにそこまで……」
「‥‥‥そんなの、あなたと添い遂げる道がそれしかないからです。わたしは、誰が何と言おうが、この道を選びます。どんなに道が険しい道だったとしても」
「え、添い遂げるって……」先ほどより増して困惑する信長を横目に、朝美は告げた。

「わたしも、同じなのです。あなたと離婚したくない」

「……!」
「なので、あなたの呪いを祓いたいのです。そうすればあなたも、安心してわたしと添い遂げられるでしょう」
 朝美は背伸びをして、信長に接吻した。身長に差があるので、触れるだけではあったが、信長はそれでも嬉しそうな顔をした。
「……本当に、あなたはすごい人ですね。……わかりました。一年ですね」
「ええ、一年以内に」
 朝美はきっぱりと言い切った。
——一年、たった一年しかない。
 しかも、これまで誰も祓えた事のない呪いを、彼から祓うのだ。朝美はこれから、途方もない努力をしなければならない。
 不安は募るばかりだ。
 それでも、彼の顔を見ていると、そんな不安は全て消え失せる。
「本当に、本当に……ありがとうございます」
 信長は朝美を抱き寄せた。「一年後に、あなたの花嫁姿を見るのが楽しみです」
「もう祓えると決まったような言い方ですねえ……まあ」
 朝美はもまた、信長を抱きしめる。
「あなたにその姿を見せられるように、善処いたします」
 腕の中でそう言って、朝美は回した腕の力を強めた。
——大丈夫、きっと彼を救って見せる。

 空に浮かぶ満月が、二人の始まりを祝福するように輝いていた。