客人はすでに応接間に通したというので、朝美は重たい足取りで応接間へ向かった。
——ああ、嫌だ。
 そうは思いつつも、結局は目的地についてしまう。深呼吸をして、襖を開ける。
 中にいた人物を見て、朝美は「ああ、やはり」と思った。
 花魁のように着飾った女性——美智だった。
「あら、遅かったじゃない。無能」
 鼻で笑う叔母に、朝美の気はまた重くなる。
「……申し訳ありませんでした。叔母様。何せ、この屋敷は広いので、移動には時間がかかるのです」
 殊勝そうに答え、彼女の向かい側に座る。
 美智は、朝美が徳嶌家へ嫁いできてから、何度も何度も屋敷を訪れ、朝美に蔑むような言葉を投げかけるのだ。
 ここ半月ほど来ていなかったのに、なんで今日に限ってくるのだろうか
——朝美を、日々の疲れや不満のはけ口にしているのだろう。本人は、無能である朝美が調子に乗らないように、身の程をわきまえろと言っているつもりなのだ。
——本当に、"朝美"に何の恨みがあるの……?
「ふん、まあいいわ。そういえば、徳嶌様はまだお帰りにならないの?」
 信長が帰ってきたことなどは、まだ公になっていない。彼の母である礼子が来ないのが何よりの証拠だ。
「ええ、まだ。香ノ宮での公務が忙しいようで、まだ帰ってきておりません。お義母様も、まだ帰ってこられないとおっしゃっておりました」
 笑って答えた。
 すると、美智はクスクスと笑い始め、そして高笑いを始めた。縁談のことを父に告げられた日、あの時の笑い声に似ている。
 何だと思っていると、叔母が話し出す。
「あらあら、もしかしてわたくしが何も知らないとお思いで? もう知ってますのよ、あなたと徳嶌様が離婚することになったってこと」
 頭から冷水をかけられたような衝撃をおぼえた。
 いや、離婚問題の事を、美智が知っていることは、なんとなく予想できていた。しかし、こうやって言葉にされると、まるで絶望の海に沈められたような気分になる。
「せっかく帰ってくるのを待っていたというのに、あなたってば、なかなか帰ってこないんだもの。待ちくたびれて迎えに来てしまったわ。帰りましょう、ねえ、朝美?」
 そう語る美智は、微笑む天女のような鬼だ。朝美は思わずつばを飲む。
「……旦那様から直接話を聞くまで、わたしは離婚しませんし、家にも帰りません」
 美智はムスッとした表情の後、鬼のような形相で朝美の腕を掴む。その形相通り、まるで鬼のような力で腕の骨が砕けそうだと思った。
「口答えするな! 離婚しろと言われているのならさっさと帰ってこい! 無能! 役立たず! 『神の捨て子』! あんたみたいな愚図、ここにいたって何の価値もないのよ!」
「価値があるかどうかは、あなたが決めることでは……ありません!」
 これが精一杯だった。
「黙れ黙れ黙れ! わたくしに逆らうな! 姉殺し!」
 姉殺し、という言葉に、心臓がどくりと、嫌な音を立てた。
「違う、違う、違う……! わたしは、わたしは……朝美は……!」
「これ以上喋るな! 『神の捨て子』!」
 美智は着物の襟を思いっきりつかみ、朝美を引きずる。朝美は苦しそうにうめき声を上げるが、逃げることができない。
「何と言おうと、わたくしの考えは変わりませんわ! いつもいつもわたくしの神経を逆なでて! 神に捨てられた無能が、いちいち生意気なのよ! お前なんて、あの時美月の代わりに殺されてしまえばよかったのに!」
 いつだって、叔母の罵詈雑言に正当性なんてかけらもない。ただ、いつでも朝美の心を、嫌というほどえぐっている。
 そう、あの日のように。
——なんかもう、どうでもいいな。
 そうだ、あの子が死んだ日から、自分はもう、何者でもなかった。
 姉妹が喰われ、一人で家に帰ったあの日から。
——あの日、あの子だけではなく、わたしも死んだのだ。
 そんなことを考えて、目を瞑る。
 もうどうでもいい、そう思った時だった。

「いい加減にしろ!」
 襖を力一杯開け、声を荒らげたのは信長だった。
「え……とく、しま……様?」
 美智は、ここにいるはずがない信長の登場に、愕然(がくぜん)としている。
「さっきから黙って聞いていれば何なんだ貴様は! 朝美さんの自尊心を汚すようなことばかり言って、いったい何のつもりだ!」
 先ほどまでの明るく、お調子者そうな彼からは想像できないような声であった。
 不意に、美智が前言っていた、信長は冷酷無慈悲な剣士であるという話を思い出した。
——間違いではなかったのか……?
「……ふん、あなた様は知らないからそんなことが言えるのです。朝美は『神の捨て子』ですわ。『神の愛し子』だった美月と同じ腹から生まれたというのに、この子の力は姉よりもずっと劣っていましてよ。徳嶌様も可哀想ですわ、こんな無能を(めと)られて、本当に同情いたしますわ」
 一息でよく言い切ったものだな、と思った。しかし、美智は本気でそう思っているのだ。
 朝美は無能で、『神の捨て子』であると。
「……それが一体、何だっていうんだ」
 信長は、震えた声で言った。その震えは無論、怒りからくるものだ。
 美智はその迫力に気圧され、固まっている
「そもそも俺は、朝美さんの力が欲しくて結婚したわけではない! 陰陽師としても力も、家からの結納金も、はっきり言ってどうでもいい! そんなくだらないことで、朝美さんを傷つけるな……!」
 そこまで言って、美智は恐怖のあまり、膝から崩れ落ちた。
 信長は美智の元へ大股で歩み寄り、そのまま彼女の胸ぐらをつかみ、顔を近づける。

「大事な朝美さんを傷つける輩は、俺が許しません」 

 美智を放り投げ、「お引き取りください」と冷たく言い放った。
 恐怖のせいか、美智は動くことができなかったようで、信長の従者らしき人が運んで行った。
「旦那様……?」
 朝美が彼の名を呼ぶと、信長は照れ臭そうにこちらを向く。先ほど朝美に向けていたのと、同じ表情だ。
「すみません。あの……とても憂鬱そうに見えたので、何か嫌のことがあるのかなって……ああでも、だからって盗み聞きはだめですよね……すみません」
 謙遜しているような物言いに、朝美は目をしばたたく。
——先ほどと印象が違うせいで、妙に気が狂うのだ。きっとあれが、美智の言っていた、信長の冷酷無慈悲な一面なのだろう。
「いえ……とても助かりましたよ、旦那様」
 そう言って、少しだけ微笑んでみる。「おかげで、心がすっきりしましたよ」
 信長は顔をぱっと輝かせる。朝美は頬が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます、朝美さん! そう言ってもらえると、俺めっちゃうれしいです!」
 ——まるで子供のようだな。
 騒ぎを聞きつけた菜々子をはじめとする使用人が応接間に集まってきた。
 事情を説明すると、客として美智を家に入れた菜々子は平身低頭で謝ってきたが、朝美は何も言わずに許しを出した。
 その朝美の優しさに、使用人達は心を打たれていた。