先に凛を家に帰して、風呂の準備をさせた。
 湯浴みを済ませて、落ち着いた頃には戌の刻(午後七時から午後九時)に入っていた。
 朝美は信長と『新緑の間』の障子を開け、そこから月を見ていた。今日は十三夜月(じゅうさんやづき)、もうあと二日ほどで満月になるだろう。
「その……今日はありがとうございました。おかげで助かりました」
 先ほどから信長はこればかりである。平身低頭で礼をしてくる。
 彼から見て、朝美が命の恩人に見えるのは当然だろう。あの時朝美がいなければ、そのまま呪いに飲み込まれていてもおかしくなかった。ただ、朝美自身は、大したことをした感覚が一切ないのだ。あの浄化の術も、やり方さえ覚えれば、手習い塾に通う前の子供でもできる。
「あれは、封印がおざなりだったから、助けられただけです。それに——」
 ちらり、と彼の肩を見る。
 信長の肩に手をかけて、こちらをのぞき込む禍々(まがまが)しい影。じろりとこちらを見つめるその目は、ひどく血走っていて、その口は、ぱっくりと割れている。笑っているのだ。
「呪いが、完全に解けたわけじゃありませんから」
 信長が息を呑む。湯で紅潮していた顔が、すっと青ざめていく。
 朝美の胸の中で、申し訳なさと悲しさが()()ぜになって、細い糸で胸を締め付けられたような苦しさを感じた。
「あなたにかけられた——いえ、とり憑いた呪いは、とても強力なものでした。それこそ、人間では祓えないほど強力な」
 信長は、視線をそらすことなくこちらを見ている。
「たしかに、わたしは呪いを浄化しました。しかし、浄化しただけ、祓えてはいません。——正直、なぜあの時、あの呪いを浄化できたか、わたし自身、全く分からないのです。とにかく、あの浄化は一時しのぎ、放っておけば、またあの時のようになりましょう」
 そこまで聞いて、信長は俯く。その様子を、呪いは面白そうに見ている。
「俺の呪いは、そんなに惨いものなのですか……?」
「はい」と朝美は頷く。
「旦那様に憑く呪い——呪狼は、陰陽師の中でも、禁忌と呼ばれる部類の呪いです。——もうかれこれ七百年以上前から、この呪いは恐れられています。人の魂をだんだん蝕んで、最後は魂ごと飲み込まれて死ぬ。そして死後も、魂が洗われる川の中で、生まれ変われることもなく、彷徨(さまよ)い続ける……だから、飲み込まれる前に殺すことが多い。そうすれば、川を渡り、また生まれ変われるから……」
 人は、いや生物は、死ぬと皆星になる。空へと導かれた魂は、天ノ川の中で洗われ、まっさらな魂になる。そして、流星となってこの地に落ちて、また新たな生物として生まれ変わる。
「……俺はいなくなった方がいいんでしょうか」
 まるで独り言のように呟く。
——何故だろうか
 目の前にいる夫が一瞬、今にも泣きだしてしまいそうな子供に見えた。
 そんな彼を前に、胸が張り裂けるように苦しい。
「旦那様……」
 卑屈になるな、とは言えなかった。でも、こんなに弱々しい信長も、見たくはない。
 信長は、おもむろに朝美を抱き寄せた。いきなりのことに、朝美は何が起こったのかわからず混乱したが、状況を把握して一気に頬が、かあっと熱くなった。
「だ、旦那様⁉」
 裏返った声で信長を呼ぶが、彼は動かない。
「ごめんなさい……もう少しだけ、このままで」
 朝美は信長の顔を一瞥(いちべつ)して、その胸に顔をうずめた。
「一つ……いいでしょうか」
 そう問うと、「何でしょうか?」と声が返ってくる。
「何故、わたしと離婚しようといったのですか?」
 朝美が、一番気になっていたことだ。
 あの呪狼のせいだとしても、離婚はおかしいのではないか。
 あの呪いにかかれば、遅かれ早かれ死ぬ。ならば、後継者のために、今の妻との間に急ぎ子供を作らせようとするのではなかろうか。実家には、金子なり何なりで話をつければよいだろう。
「あなたを、傷つけたくなかったんです」
 身体を離し、信長は儚い瞳で語る。朝美はその瞳を、朝露のようだと思った。
「俺にかかった呪いが、とても凶悪なものだということは知っていました。……まあ、具体的なことは、あなたから今さっき初めて聞いたんですが」
 やはり、教えていなかったのか。
 信長は遠くの方を見ながら続ける。
「呪いにかかったと分かった時、俺はまず、あなたのことを心配しました。不思議ですよね、会ったこともないのに」どこか照れくさそうに頬を赤らめて、信長は言う。「……あの時の俺は、きっと自分は、このまま家に帰っても、帰らなくても、朝美さんを傷つけてしまう、直感的にそう感じました。だから——」
 信長はやっとこちらを向いた。瞳に映る朝美の姿が、ぼうっと崩れ始める。
「俺は、あなたを傷つけたくないんです。だから離婚しようと思ったんです」 
 信長の瞳に映る朝美の姿が歪んで崩れ、流れ落ちてきた。——泣いているのだ。
「別に、俺が後継を残さなくても、俺の変わりはいますから、大した問題にはならないですし、そうする事で、あなたを傷つけずに済むのなら‥‥‥それでいいんです」
「‥‥‥」
 朝美はおもむろに、彼の左胸に手を添える。心臓が、しっかりと動いている。
——一体、どんな気持ちなのだろうか。
 呪いに蝕まれるというのは。朝美の脳裏に、呪いに蝕まれて泣く信長の姿が思い浮かんで、薄い氷の刃が、胸を刺すような、儚い痛みをおぼえた。
——救いたい。
 悲しげに微笑む彼を、会って間もない自分を想ってくれる彼を‥‥‥

 気づいたら朝美は、信長に口吸(くちず)いをしていた。

 羞恥(しゅうち)はなかった。ただ、彼の瞳が、髪が、表情が、全て美しく、愛おしいと思った。
 数瞬ほど経った頃、ゆっくりと信長に引き離される。
 数拍遅れて、信長の顔を見る。彼の頬は、暗がりでもわかるほど、紅潮していた。

 しばし間をおいて、朝美は(しとね)に押し倒される。信長の顔がゆっくりと近づいてきて、そのまま口吸いを交わす。その甘い接吻(せっぷん)に、朝美の身体の力が抜けていくのを感じる。
 その中で、深い深い水の底に沈んでいくような感覚を覚え、そのままその身を委ねた。

 夢現(ゆめうつつ)の中で見た信長の姿は、神々しいほどに美しかった。
 

 それから一時(約二時間)ほどたった後。
「あの、寝る前に、一ついいでしょうか」
「‥‥‥はい、何でしょう」
 ぼんやりとする意識の中、聞き返した。
「さっき俺を助けてくれた、朝美さんの眷属というふたりにお礼が言いたいのですが……構わないでしょうか」
 律儀なものだな、と思った。しかし、断る理由はない。
 朝美はふたりの名を呼ぶ。すると、ふたりが霞をまとって現れた。小夜啼鳥(さよなきどり)と、小柄な蝙蝠だ。
「お礼を言いたいなんて、あんたええ奴やなあ。どうも、うちは凛。主はんの眷属やっとります」
 小夜啼鳥——凛は楽し気に言って、朝美の肩に乗る。
「樹希です。あるじ様の眷属です。よろしくお願いします」
 蝙蝠——樹希は信長の手にすっぽりと収まった。
「凛さん、樹希さん、よろしくお願いします。俺は徳嶌信長といいます」
「信長かあ……なんか武士らしくて、格好いい名前やなあ。よろしくな、信長」
「よろしくお願いします! 信長」
 挨拶を済ませると、ふたりは砂城のように消えていった。
「あっ」と信長が声を漏らす。「消えてしまいました」
「ふたりはいつも顕在(けんざい)しているわけではないからな。第一、小鳥と蝙蝠が流暢(りゅうちょう)に喋ってたらおかしいでしょう」
 そう言うと、信長は「あはは……確かにそうですね」と笑った。
 何が面白かったのか、と思ったが、純粋そうに笑う信長の笑顔は、いいものだと思った。