彼は、捨てられたんだ。
 琉莉というらしい主人――いや、元主人に。

 もう彼には、帰る場所がない。
 行くべきところも、行くところもない。

 「……ついてきてくれる?」

 私はそれだけ告げて、立ち上がった。
 彼も立ち上がって、言われた通りついてきてくれる。

 向かう先は――山の上。
 頂上まではいかないが、かなり上の方。

 「傘、使う?」

 「いえ。必要ありません。」

 彼に断られたので、傘を畳む。
 足場の悪くなった山を登るのに、開いた傘は邪魔だ。

 「名前は? あるでしょ、何ていうのかな。」

 「琉夏(るか)と申します。」

 琉夏、というのか。
 元主人の名前は琉莉だったが、自分の名前から1字取ったのだろうか。

 「琉夏、どうして笑ったの? 捨てられたんだよ、悲しいんじゃない?」

 振り返らないまま、問いかけてみる。

 アンドロイドは泣かない。涙が出ないからだ。
 けれど悲しそうな顔はする。泣いているような顔はする。

 なのに彼は――琉夏は、笑った。
 アンドロイドが捨てられて嬉しいと感じるはずがないのに。

 「悲しいですよ。」

 琉夏は簡潔に答えた。
 人間味のない答え。生産されてすぐ、人との交流が浅い個体は、こういう答えを返す。
 あまり、愛情を注がれていなかったのだろうか。

 「悲しいから、笑うんです。琉莉が泣いていれば、僕は笑って励まさないといけません。」

 そう思っていると、長い答えが返ってきた。

 「僕が悲しい時も、表に出しては駄目なんです。悲しさは伝播すると、琉莉は言っていました、琉莉に悲しみを、伝染すわけにはいきません。」

 思っていた何倍も長く、詳しい答えが返ってきた。
 何度も何度も、深く深く交流しなければ、こんな答えはできない。こんな思想は生まれない。

 「……仲が、よかったんだね。」

 「よかったですよ。僕は、琉莉が大好きなので。」

 そんなに仲がよかったのなら、どうして琉夏は捨てられたんだ。
 元主人だって、琉夏のことが好きだっただろうに。

 「琉莉さんは、どんな人だった?」

 「可愛らしい人です。好きなことを仕事にして、毎日頑張ってる立派な人。しかし脆くて、子供っぽい人なんです。」

 メモリに記憶された出来事を思い起こしているのか、琉夏の話が少しゆっくりになる。

 「琉莉が留守の間、家を守ること。家事。それから、帰ってきた琉莉を慰めることが、僕の役目だったんです。琉莉は弱くて、すぐに凹んでしまうので……。」

 ――もう、全部できないんですが。

 自虐めいた発言に、思わず振り返ってしまった。
 琉夏はまた、にこにこと笑っている。

 機械的な笑みが、痛々しい。
 笑っているのに、悲しさが伝わってくる。

 「捨てられた原因に、心当たりはあるのかな?」

 「ありますよ。」

 再び前を向いて、問いかけた。
 あまり聞くと傷つけてしまう。わかっていたのに、聞いてしまった。

 「――僕は、いらなくなった。それだけです。」

 そんなによく働いて、綺麗な見た目で、優しいアンドロイド。
 こんなに思考が豊かになるほど、思い出を共有し、可愛がったアンドロイド。
 それがいらなくなるなんて、そんなことがあるものか。

 そう思った。そう言いたくなったのに。
 きっぱりと告げる琉夏は、確信しているかのようだった。
 まるで明確な根拠があってそう言っているような――

 「……そうなんだ。」

 もう、これ以上は聞かないでおこう。
 琉夏はおそらく、従順なアンドロイドだ。
 主人ほどの権限はないが、私が――人が質問すると、元主の嫌がること以外は何でも答えてくれるだろう。

 人の過去を探るのは、あまりいいことではない。
 例え相手が、アンドロイドであっても。

 「……心優さんの家には、アンドロイドがいますか?」

 私が何も言わなくなったからか、今度は琉夏が問いかけてきた。
 本当に気になったのか、場を繋ぐための社交辞令的会話なのかは、私にはわからない。

 「いないね。私は誰のマスターでもないし、お母さんもお父さんも、誰とも契約していないよ。」

 「珍しいですね?」

 琉夏が珍しいとわかるのは、ニュースか何かで、アンドロイドの普及率を見たのだろうか。
 それとも、元主人にアンドロイドがいるのは当然のことと教えられたか。

 私の家には、アンドロイドがいない。
 特に理由はない。多分、必要性がないからだ。
 父と母と1人娘の私。それで十分だったのだろう。

 「心優さんが大人になって、独り暮らしをすることになったら、アンドロイドを買いますか?」

 「……買わない、と思う。」

 難しい質問だ。
 何を思って聞いてくるのか、それとも何も思っていないのか。
 アンドロイドの思考は、私にはよくわからない。

 「理由を聞いてもいいですか?」

 「……いいや。駄目。今は、教えてあげられないかな。」

 正直に話そうか、少し迷って――やっぱりやめた。
 この話は、今すべきではない。

 ただの自分語りなら、ただの、琉夏にはなんの関係のない意見なら、言えた。
 けれど私の意見は、今から琉夏にとって重要なものになる。

 少なくとも私は、そうさせるつもりだ。

 暫く山を登って、目的の場所につく。

 「ここは、どこですか……?」

 この大きな山の、真ん中より少し上辺り。
 平らに整地され、綺麗に木の切り取られた広い土地。
 建っているのは――まるで童話に出てきそうな、古い、大きな洋館。

 「私のおばあちゃんの別荘だったとこ。」

 おばあちゃんは、もう死んでしまったけど。
 生前、おばあちゃんは大抵ここにいて、私は、よくここで遊んでもらっていた。
 おばあちゃんが亡くなった後は、私が管理をしている。
 最近は、怖くて来ていなかったけど。

 鞄の中から鍵を取り出して、差し込む。
 カチャッと音がしたのを確認して、ドアを開けた。

 「入って。大事な話をしたい。」

 ドアノブを持ったまま振り返って、琉夏に入るように促す。
 琉夏は少し迷うような素振りを見せてから――「お邪魔します。」と言った。