彼女の最後の言葉を聞いてから二日経った日、僕は葬儀場にいた。
通夜が行われていた。彼女の能天気な性格とは相反して、分厚い積乱雲が大気を押し潰していた。彼女の生前の徳のおかげか雨は降っていない。ただ、僕は陰鬱な気持ちで覆われていた。柔らかな春の日差しなど感じれないくらい、僕は起こった事実を受け入れられなかった。
彼女が死んだ日、犯人である斉藤舞は僕を殺そうとしていたらしい。斉藤は彼女に対して性愛的な好意を抱いていた。何を言っているんだと思うかもしれないがこれは事実だ。斉藤はレズだった。斉藤は彼女と同じ小説家だった。といっても、彼女のようにプロではなく趣味で書いている程度らしい。聞いた話によると、彼女と斉藤は小説を書いているという点で仲良くなった。しかし、斉藤は彼女に対して異常な好意を抱いており、日常的なストーカーや彼女の下着の窃盗をしていた。
斉藤は殺された日の深夜に彼女の家の周りを徘徊しており、僕と彼女が一緒にいたのを目撃していた。好きな人を取られたと感じた斉藤は、僕を護身用に持っていた刃物で殺そうとしたらしい。無残にも僕を守るという形で彼女は息を引き取った。神は死に切るという選択肢すら彼女に与えなかった。なんとも理不尽な世の中だ。
事件の翌日、犯人である斉藤はすぐに捕まった。一時は近くにいた僕が殺人犯じゃないかと警察から疑われたが防犯カメラの映像が僕の無実を証明してくれた。
救急車が到着した時点で雪はやんでおり、びっくりするほど視界は良好だった。後に救急隊員から聞いたことだが、この時に彼女はすでに死んでいたらしい。死因は出血死。殺された状況からすぐ死ぬのは素人の僕でもわかった。血で染まった赤い雪は大きな紅色の濁流を作り、少し暗赤がかった地面が僕に現実を突きつけた。
斉藤が逃げてから救急車が到着するまで5分ほどの時間があった。僕は斉藤を追わなかった。それは寒空の下に彼女を放置するという選択が僕にはできなかったからだ。数瞬の間に、きっと警察が斉藤を捕まえてくれるという信頼と、彼女のそばにいたいという本能とが頭の中で交差した結果なのだろう。
彼女が担架に乗せられている時、不思議と斉藤に対する憎しみなどはわかなかった。悲劇のヒロインのような最期を送るなんて小説家の彼女らしいなと不本意ながらにも思った。
通夜の中、僕は涙を流さず、罪悪感に押しつぶされながら彼女の笑顔の遺影をただただ眺めていた。そこに人の心はなかった。近くに添えられていた真っ白な百合の花が、純黒の喪服によって苦しいほど輝いていた。
今の今まで彼女はとても近い存在だと思っていた。常に隣にいてくれて、日常を彩ってくれる存在。彼女は自分の今までの人生においてのどんな人間関係にも当てはまらない特別な関係だと僕は自負していた。きっと彼女も同じ感情を持っていただろう。しかし、葬儀の後列の重い空気の中にいた僕は全く違う感情が芽生え始めた。
彼女という存在が異様に遠い……そう感じていた。今までにない感覚だった。電気で明るく照らされた遺影を見るのがだんだん辛くなっていった。
クラスメイトの参列者は僕と啓、西川以外いなかった。友達の少ない彼女を表面上だけでも心配して、お香を焚こうという意志を持ったクラスメイトなど当然いなかった。クラスメイトたちは真実から大きく乖離した一ノ瀬来夏という虚像しか知らないのだから当然と言えば当然だ。
式は大きな滞りなく進んだ。
僕は結局一滴の涙を流すことなく帰宅した。
フラミンゴ色に染まる西の空を見る資格など僕にはなかった。
通夜の翌日、僕は抜け殻の状態で彼女の火葬を見送った。
僕は彼女の美しいであろう骨を見ることもなく、会場の外で青く澄みきった空を仰いでいた。昨晩の分厚い雲が嘘のように……。
彼女の両親には、骨を見てほしいと哀願されたが、そんな気にはなれなかったので断った。僕の態度に両親は終始笑顔を浮かべていた。その笑顔が僕の心を無秩序に圧迫した。
「ありがとう相模原君。君のおかげで来夏は楽しい余生を過ごせたはずよ。本当に感謝してる……あんな形でお別れになっちゃけど君に非はないわ。本当にありがとう」
彼女の母親は優しい口調で僕に非がないことを主張しているが当の僕は全く納得していなかった。なぜだろうか……むしろ罵声を浴びたかった。
「いえ……僕が……犠牲にしてしまったんです。犯人は僕を殺そうとしていたのに……僕なんかは素直に殺された方がよかったんです。そしたら誰も悲しまなくて済むのに……」
僕の発言に両親はすぐに返答した。少しは死んだ娘への愛を示してほしいものだと思った。
「君が死んだら来夏が悲しむ。あいつは君を守るために自分を犠牲にした。あいつが最期にした選択だ。君に非はない」
何故だろう。両親からは慰めの言葉をもらっているのに責められている気がした。
僕は「なんで来夏が犠牲にならなきゃいけないの!!」などの責めの言葉を期待していたのかもしれない。他人から、特に彼女の両親から責めの言葉を浴びることにより自分の犯したしまった過ちを認知し、共感してくれたと思い込むことができ、楽になるからだ。
彼女の両親は全くそのような素振りは見せず、むしろ感謝の意だけを僕に示していた。その高潔すぎる態度に僕は心の底の気持ちを吐くことはできなかった。
自分の中に隠したままだったので苦しくかった。
僕は彼女にLINEをする。
『おはよう』
『今日学校でさ、ロン毛の地理の先生の髪がかつらだと判明したんだよ。君なら部室で思い出して大笑いしていただろうね』
『部室の床が腐っていたから外れて、思わず大きな声出してしまったよ笑笑』
『今日は小説を5ページも書き進めたよ』
『今日も一日お疲れ様!』
『ようやく金曜日だね。一週間お疲れ!』
『明日から学校始まるの憂鬱だな……』
『おやすみ』
つかない既読。返ってこない返信。
それは当然だった。なぜなら彼女はもうこの世にいないのだから。
でも、僕は何かを期待していた。
光を完全に消した部屋で彼女とのトーク履歴を罪悪感に襲われながら見ていた。スマホの画面の光量を最小限にしても目が痛かった。
既読の二文字がつくのを願った。時にうざったい彼女の声を聞くのを願った。彼女の生き返りを願った。
非科学的な物を信じない僕だが、正常な精神を維持できていない今は違った。生き返りの慣習がある宗教を心の底から信教する人の気持ちもこの時なら理解できた。
翌日、僕は学校があったが旅に出た。それは決して鉄道マニア独特の心から沸く旅欲を満たすためではなかった。
僕は彼女と共に訪れた場所を自然と巡った。映画館、出雲、寝台特急サンライズ出雲、東京など……。
僕はふと気付いた。涙を零していた。いつも横にいた彼女の姿がいないことを認識したからだ。そう思うと涙がこみ上げてくる。止めようと思った。しかし全く止まらなかった。自分の意思に反して大粒の涙が僕の顔をくちゃくちゃにする。彼女のことを想うと泣いてしまう。本当に情けない……。
それから二泊した後、家に帰った。父親には少しだけ心配されたが僕は無言の返答をして自室に戻る。
僕は真っ暗な部屋に読書灯を灯した。頼りない光が短い影を作る。下をうつむいた自分が作る影はとても情けなく、生命を宿しているのかと疑うレベルだった。
僕は読書灯によって得た光で机の上の封筒の存在を確認する。
そこには彼女の直筆で「相模原常陸君へ」と記されていた。少し乱雑さを醸し出した字が彼女らしさを引き出していた。この封筒は彼女の父親から渡されたものだ。封筒内には彼女から僕への遺書が入っていると両親が言っていた。
僕はなかば貰うのを断ろうとしたが「来夏の最期の言葉が入っている。見てやってくれ」と頭を下げられたので少しだけ頭を下げて受け取った。封筒がやけに重く感じた。僕は最期という言葉の先にある言語化できない苦しみへの答えと解放を求め、封筒を開けた。
中には手紙とUSBが入っていた。彼女の両親曰く、彼女は遺作を入れた文書データにパスワードをかけたらしい。彼女の家族が開こうと試みるが開かなかったらしい。そのため最後の頼み綱として僕を頼ったらしい。
僕は見たくないと思っていた。本心は見たがっていた。しかし、今の僕に彼女の言葉を心に受け入れる準備や覚悟が出来ていなかった。それは彼女の遺書も含めて泣いてしまうからだ。
こんな不安定な心を打破してくれたのはクラスメイトからの電話だった。
「相模原、大丈夫か?」
真っ暗な暗闇の中、電話の相手の西川の声だけが、静かに自室に溶けた。
「なんで僕の電話番号知ってるの……」
僕はか弱い意識で声帯を振るわす。
「来夏から俺宛への手紙に書いてあった……そんなことよりもお前、もう、来夏からの手紙を読んだか」
「…………まだ…………」
暗闇に静寂の沈黙が溶ける。
「さっさと読めよな」
西川は力強く言った。僕は心の中の苦しみを少し漏らした。
「ぼくが、僕が……彼女を殺してしまったんだ……」
「…………………………」
「君も知っているだろう彼女の死因はクラスメイトの犯行による刺殺。そして、大量出血死。僕が殺されるはずが、彼女がかばったせいで……」
「お前は自分が悪いと思ってるのか?」
「………………」
「当たり前だが、どんなにあがいたって来夏は生き返らないし、過去は変えられない。でもな、未来は行動次第でどんだけでも変えれるんだよ。来夏は俺宛の手紙の最後にこう記していた。『常陸君に手紙を読むように促して』って。あいつはほんとお人好しだよな。手紙を書き、人の未来を心配してあげるなんて。まぁ俺はあいつのこういう姿に惚れたんだけどな……」
「…………」
「とりあえず手紙を読め。あいつが地球上で一番大切なお前に伝えたかった愛のメッセージだ。しっかり心を創って受け取れよ」
「ありがとう。わざわざかけてくれて」
僕の心がすっと軽くなる心地がした。
「勘違いするなよ。俺は生前の来夏に頼まれてかけたんだから」
「それでもありがとう。よかったらまた連絡していい」
「ああ、いいぜ」
彼は電話越しで言葉を残し、切った。不通音だけが部屋の空気を満たした。
僕は心を創る。
ノートパソコンの電源を入れ、彼女の父親から受け取ったUSBを差し込む。立ち上がるまでの時間、呼吸音がやけに深かった。
「遺作」という題名のファイルを見つけたので僕はそれをダブルクリックする。
最後に保存された日は彼女が死ぬ前の日の夜を指していた。僕の脳にはもうこの世にはいない彼女がパソコンを打っている姿が鮮明に思い浮かんだ。
画面が開くまでの数瞬、僕は一人緊張していた。心音が高鳴る感覚に陥る。顔が赤くなり体温の上昇を感じる。
暗い部屋の中に走る静寂な空気が身の回りを包む。
「パスワードを入力してください」と書かれた画面が映る。パスワードは予想がついていた。僕は一文字一文字ゆっくりとパソコンに打ち込む。
『kimihabokuwosomekagayakasu』
あっけなく解除できた。他人には解らず彼女と僕しか解けない秘密の暗号だからだ。
題名には『君は僕を染め輝かす』と行書体で書かれていた。最初の行には彼女からのメッセージが記されていた。
『常陸君へ
この文を読んでいるということはもう私は死んだんだね。(ありきたりかな笑笑)
題名にも書いてある通りこれは私の……一ノ瀬来夏の遺作です。
本当は死ぬ前に出版するつもりだったけど、この作品だけはどうしても常陸君に最初に読んでほしかったの。病弱な私の余生に楽しさを与えてくれた君に。
私は君に遺作を送るために生きてきました。だから、そんな君にこの作品を送ります。
ぴーえす、この作品は君の好きなようにしてください。出版して私の名を轟かせるもよし、君の心に秘めるのもよし。
でもこれだけは約束して。私の墓にこの作品の感想を添えて。そうしてくれれば私は天国でも君と繋がっていられる。』
彼女の言葉を心に留め、僕はページをめくった。
そこには僕と彼女の実名で記されていた恋愛小説が僕目線で繰り広がっていた。
僕と彼女の出会ったきっかけ、軌跡までもがノンフィクションで鮮明に記されていた。
遺作内での彼女は病死だった。そして、そのあとの僕はたくさんのクラスメイトと友達になり幸せな生活を送る物語になっていた。
まるで最後は彼女から僕への生きるヒントを与えてくれるように感じた。
でもこの遺作の終盤には一つだけ不可解な点があった。読者を号泣にいざなう遺書が空欄だったことだ。
僕はその答えを考えながらページをめくった。すべてのページを読み終えた瞬間、僕は涙ではなく悲しさがあふれてきた。
彼女はもういない。死んだ。
その事実だけが遺作から読み取れた。遺作の本質、彼女が伝えたかったことは別にあったのかもしれない。しかし、今の僕にはそんな感動的なラストや余韻に浸る気も資格もなかった。僕が彼女の死の引き金を引いたといっても過言ではないからだ。
彼女の支えなしで生きていけない気がした。彼女がいない世界で生きている自分を恨んだ。
遺作の最後の文の後、彼女からのメッセージが添えられていた。
『常陸君面白かった?
恋愛感情が乏しい君にとってこの物語の感動は分からないかもね。
最後に常陸君にお願いがあります……。
私の遺書を読んでください。
君は私がいなかったらまともに人と関わろうとしない人間です。(友達がいない私が言う資格ないけどね笑笑)
君は自分を低く評価しすぎています。あくまで私の予想ですけど君は自分に劣等感を抱いているんだと思います。君の心には他の高校生みたいに友達と人生を謳歌したいという本心が隠れていると私は思うな。でもそんな気持ちを君は何かと理由をつけて押し殺しているんじゃないかな。きっと本心と素の君を出せば自然と友達ができるよ。だから君はもっと積極性をもって人と関わり自分を認められる人間に飛翔しなさい。
(友達がいない)一ノ瀬来夏より』
彼女からの言葉を脳裏に焼き付けたまま。僕は机に向かった。
彼女からの遺書。それが入った封筒が目の前にある。
僕は覚悟を決める。どんな言葉やメッセージでも受け入れようと……。
読書灯で光を得ながら僕はカッターナイフを使い封筒を丁寧に開ける。彼女だったら雑に開けるだろうなと想像する自分もいた。
最後の一切りに弱いながらも力を込めて切り切った。
中にはA4サイズの紙が二枚丁寧に折った状態で入っていた。彼女らしくないなとも思えた。
僕の覚悟は固まっていたが、いざ目の前にすると拒否してしまった。きっと彼女からの最期のメッセージを見る覚悟だけが完全に定まっていないからだ。
萎縮する心におびえながら僕は静止する。
深呼吸をする。
僕は新たな世界を歩むために彼女の遺書のページをめくった。
通夜が行われていた。彼女の能天気な性格とは相反して、分厚い積乱雲が大気を押し潰していた。彼女の生前の徳のおかげか雨は降っていない。ただ、僕は陰鬱な気持ちで覆われていた。柔らかな春の日差しなど感じれないくらい、僕は起こった事実を受け入れられなかった。
彼女が死んだ日、犯人である斉藤舞は僕を殺そうとしていたらしい。斉藤は彼女に対して性愛的な好意を抱いていた。何を言っているんだと思うかもしれないがこれは事実だ。斉藤はレズだった。斉藤は彼女と同じ小説家だった。といっても、彼女のようにプロではなく趣味で書いている程度らしい。聞いた話によると、彼女と斉藤は小説を書いているという点で仲良くなった。しかし、斉藤は彼女に対して異常な好意を抱いており、日常的なストーカーや彼女の下着の窃盗をしていた。
斉藤は殺された日の深夜に彼女の家の周りを徘徊しており、僕と彼女が一緒にいたのを目撃していた。好きな人を取られたと感じた斉藤は、僕を護身用に持っていた刃物で殺そうとしたらしい。無残にも僕を守るという形で彼女は息を引き取った。神は死に切るという選択肢すら彼女に与えなかった。なんとも理不尽な世の中だ。
事件の翌日、犯人である斉藤はすぐに捕まった。一時は近くにいた僕が殺人犯じゃないかと警察から疑われたが防犯カメラの映像が僕の無実を証明してくれた。
救急車が到着した時点で雪はやんでおり、びっくりするほど視界は良好だった。後に救急隊員から聞いたことだが、この時に彼女はすでに死んでいたらしい。死因は出血死。殺された状況からすぐ死ぬのは素人の僕でもわかった。血で染まった赤い雪は大きな紅色の濁流を作り、少し暗赤がかった地面が僕に現実を突きつけた。
斉藤が逃げてから救急車が到着するまで5分ほどの時間があった。僕は斉藤を追わなかった。それは寒空の下に彼女を放置するという選択が僕にはできなかったからだ。数瞬の間に、きっと警察が斉藤を捕まえてくれるという信頼と、彼女のそばにいたいという本能とが頭の中で交差した結果なのだろう。
彼女が担架に乗せられている時、不思議と斉藤に対する憎しみなどはわかなかった。悲劇のヒロインのような最期を送るなんて小説家の彼女らしいなと不本意ながらにも思った。
通夜の中、僕は涙を流さず、罪悪感に押しつぶされながら彼女の笑顔の遺影をただただ眺めていた。そこに人の心はなかった。近くに添えられていた真っ白な百合の花が、純黒の喪服によって苦しいほど輝いていた。
今の今まで彼女はとても近い存在だと思っていた。常に隣にいてくれて、日常を彩ってくれる存在。彼女は自分の今までの人生においてのどんな人間関係にも当てはまらない特別な関係だと僕は自負していた。きっと彼女も同じ感情を持っていただろう。しかし、葬儀の後列の重い空気の中にいた僕は全く違う感情が芽生え始めた。
彼女という存在が異様に遠い……そう感じていた。今までにない感覚だった。電気で明るく照らされた遺影を見るのがだんだん辛くなっていった。
クラスメイトの参列者は僕と啓、西川以外いなかった。友達の少ない彼女を表面上だけでも心配して、お香を焚こうという意志を持ったクラスメイトなど当然いなかった。クラスメイトたちは真実から大きく乖離した一ノ瀬来夏という虚像しか知らないのだから当然と言えば当然だ。
式は大きな滞りなく進んだ。
僕は結局一滴の涙を流すことなく帰宅した。
フラミンゴ色に染まる西の空を見る資格など僕にはなかった。
通夜の翌日、僕は抜け殻の状態で彼女の火葬を見送った。
僕は彼女の美しいであろう骨を見ることもなく、会場の外で青く澄みきった空を仰いでいた。昨晩の分厚い雲が嘘のように……。
彼女の両親には、骨を見てほしいと哀願されたが、そんな気にはなれなかったので断った。僕の態度に両親は終始笑顔を浮かべていた。その笑顔が僕の心を無秩序に圧迫した。
「ありがとう相模原君。君のおかげで来夏は楽しい余生を過ごせたはずよ。本当に感謝してる……あんな形でお別れになっちゃけど君に非はないわ。本当にありがとう」
彼女の母親は優しい口調で僕に非がないことを主張しているが当の僕は全く納得していなかった。なぜだろうか……むしろ罵声を浴びたかった。
「いえ……僕が……犠牲にしてしまったんです。犯人は僕を殺そうとしていたのに……僕なんかは素直に殺された方がよかったんです。そしたら誰も悲しまなくて済むのに……」
僕の発言に両親はすぐに返答した。少しは死んだ娘への愛を示してほしいものだと思った。
「君が死んだら来夏が悲しむ。あいつは君を守るために自分を犠牲にした。あいつが最期にした選択だ。君に非はない」
何故だろう。両親からは慰めの言葉をもらっているのに責められている気がした。
僕は「なんで来夏が犠牲にならなきゃいけないの!!」などの責めの言葉を期待していたのかもしれない。他人から、特に彼女の両親から責めの言葉を浴びることにより自分の犯したしまった過ちを認知し、共感してくれたと思い込むことができ、楽になるからだ。
彼女の両親は全くそのような素振りは見せず、むしろ感謝の意だけを僕に示していた。その高潔すぎる態度に僕は心の底の気持ちを吐くことはできなかった。
自分の中に隠したままだったので苦しくかった。
僕は彼女にLINEをする。
『おはよう』
『今日学校でさ、ロン毛の地理の先生の髪がかつらだと判明したんだよ。君なら部室で思い出して大笑いしていただろうね』
『部室の床が腐っていたから外れて、思わず大きな声出してしまったよ笑笑』
『今日は小説を5ページも書き進めたよ』
『今日も一日お疲れ様!』
『ようやく金曜日だね。一週間お疲れ!』
『明日から学校始まるの憂鬱だな……』
『おやすみ』
つかない既読。返ってこない返信。
それは当然だった。なぜなら彼女はもうこの世にいないのだから。
でも、僕は何かを期待していた。
光を完全に消した部屋で彼女とのトーク履歴を罪悪感に襲われながら見ていた。スマホの画面の光量を最小限にしても目が痛かった。
既読の二文字がつくのを願った。時にうざったい彼女の声を聞くのを願った。彼女の生き返りを願った。
非科学的な物を信じない僕だが、正常な精神を維持できていない今は違った。生き返りの慣習がある宗教を心の底から信教する人の気持ちもこの時なら理解できた。
翌日、僕は学校があったが旅に出た。それは決して鉄道マニア独特の心から沸く旅欲を満たすためではなかった。
僕は彼女と共に訪れた場所を自然と巡った。映画館、出雲、寝台特急サンライズ出雲、東京など……。
僕はふと気付いた。涙を零していた。いつも横にいた彼女の姿がいないことを認識したからだ。そう思うと涙がこみ上げてくる。止めようと思った。しかし全く止まらなかった。自分の意思に反して大粒の涙が僕の顔をくちゃくちゃにする。彼女のことを想うと泣いてしまう。本当に情けない……。
それから二泊した後、家に帰った。父親には少しだけ心配されたが僕は無言の返答をして自室に戻る。
僕は真っ暗な部屋に読書灯を灯した。頼りない光が短い影を作る。下をうつむいた自分が作る影はとても情けなく、生命を宿しているのかと疑うレベルだった。
僕は読書灯によって得た光で机の上の封筒の存在を確認する。
そこには彼女の直筆で「相模原常陸君へ」と記されていた。少し乱雑さを醸し出した字が彼女らしさを引き出していた。この封筒は彼女の父親から渡されたものだ。封筒内には彼女から僕への遺書が入っていると両親が言っていた。
僕はなかば貰うのを断ろうとしたが「来夏の最期の言葉が入っている。見てやってくれ」と頭を下げられたので少しだけ頭を下げて受け取った。封筒がやけに重く感じた。僕は最期という言葉の先にある言語化できない苦しみへの答えと解放を求め、封筒を開けた。
中には手紙とUSBが入っていた。彼女の両親曰く、彼女は遺作を入れた文書データにパスワードをかけたらしい。彼女の家族が開こうと試みるが開かなかったらしい。そのため最後の頼み綱として僕を頼ったらしい。
僕は見たくないと思っていた。本心は見たがっていた。しかし、今の僕に彼女の言葉を心に受け入れる準備や覚悟が出来ていなかった。それは彼女の遺書も含めて泣いてしまうからだ。
こんな不安定な心を打破してくれたのはクラスメイトからの電話だった。
「相模原、大丈夫か?」
真っ暗な暗闇の中、電話の相手の西川の声だけが、静かに自室に溶けた。
「なんで僕の電話番号知ってるの……」
僕はか弱い意識で声帯を振るわす。
「来夏から俺宛への手紙に書いてあった……そんなことよりもお前、もう、来夏からの手紙を読んだか」
「…………まだ…………」
暗闇に静寂の沈黙が溶ける。
「さっさと読めよな」
西川は力強く言った。僕は心の中の苦しみを少し漏らした。
「ぼくが、僕が……彼女を殺してしまったんだ……」
「…………………………」
「君も知っているだろう彼女の死因はクラスメイトの犯行による刺殺。そして、大量出血死。僕が殺されるはずが、彼女がかばったせいで……」
「お前は自分が悪いと思ってるのか?」
「………………」
「当たり前だが、どんなにあがいたって来夏は生き返らないし、過去は変えられない。でもな、未来は行動次第でどんだけでも変えれるんだよ。来夏は俺宛の手紙の最後にこう記していた。『常陸君に手紙を読むように促して』って。あいつはほんとお人好しだよな。手紙を書き、人の未来を心配してあげるなんて。まぁ俺はあいつのこういう姿に惚れたんだけどな……」
「…………」
「とりあえず手紙を読め。あいつが地球上で一番大切なお前に伝えたかった愛のメッセージだ。しっかり心を創って受け取れよ」
「ありがとう。わざわざかけてくれて」
僕の心がすっと軽くなる心地がした。
「勘違いするなよ。俺は生前の来夏に頼まれてかけたんだから」
「それでもありがとう。よかったらまた連絡していい」
「ああ、いいぜ」
彼は電話越しで言葉を残し、切った。不通音だけが部屋の空気を満たした。
僕は心を創る。
ノートパソコンの電源を入れ、彼女の父親から受け取ったUSBを差し込む。立ち上がるまでの時間、呼吸音がやけに深かった。
「遺作」という題名のファイルを見つけたので僕はそれをダブルクリックする。
最後に保存された日は彼女が死ぬ前の日の夜を指していた。僕の脳にはもうこの世にはいない彼女がパソコンを打っている姿が鮮明に思い浮かんだ。
画面が開くまでの数瞬、僕は一人緊張していた。心音が高鳴る感覚に陥る。顔が赤くなり体温の上昇を感じる。
暗い部屋の中に走る静寂な空気が身の回りを包む。
「パスワードを入力してください」と書かれた画面が映る。パスワードは予想がついていた。僕は一文字一文字ゆっくりとパソコンに打ち込む。
『kimihabokuwosomekagayakasu』
あっけなく解除できた。他人には解らず彼女と僕しか解けない秘密の暗号だからだ。
題名には『君は僕を染め輝かす』と行書体で書かれていた。最初の行には彼女からのメッセージが記されていた。
『常陸君へ
この文を読んでいるということはもう私は死んだんだね。(ありきたりかな笑笑)
題名にも書いてある通りこれは私の……一ノ瀬来夏の遺作です。
本当は死ぬ前に出版するつもりだったけど、この作品だけはどうしても常陸君に最初に読んでほしかったの。病弱な私の余生に楽しさを与えてくれた君に。
私は君に遺作を送るために生きてきました。だから、そんな君にこの作品を送ります。
ぴーえす、この作品は君の好きなようにしてください。出版して私の名を轟かせるもよし、君の心に秘めるのもよし。
でもこれだけは約束して。私の墓にこの作品の感想を添えて。そうしてくれれば私は天国でも君と繋がっていられる。』
彼女の言葉を心に留め、僕はページをめくった。
そこには僕と彼女の実名で記されていた恋愛小説が僕目線で繰り広がっていた。
僕と彼女の出会ったきっかけ、軌跡までもがノンフィクションで鮮明に記されていた。
遺作内での彼女は病死だった。そして、そのあとの僕はたくさんのクラスメイトと友達になり幸せな生活を送る物語になっていた。
まるで最後は彼女から僕への生きるヒントを与えてくれるように感じた。
でもこの遺作の終盤には一つだけ不可解な点があった。読者を号泣にいざなう遺書が空欄だったことだ。
僕はその答えを考えながらページをめくった。すべてのページを読み終えた瞬間、僕は涙ではなく悲しさがあふれてきた。
彼女はもういない。死んだ。
その事実だけが遺作から読み取れた。遺作の本質、彼女が伝えたかったことは別にあったのかもしれない。しかし、今の僕にはそんな感動的なラストや余韻に浸る気も資格もなかった。僕が彼女の死の引き金を引いたといっても過言ではないからだ。
彼女の支えなしで生きていけない気がした。彼女がいない世界で生きている自分を恨んだ。
遺作の最後の文の後、彼女からのメッセージが添えられていた。
『常陸君面白かった?
恋愛感情が乏しい君にとってこの物語の感動は分からないかもね。
最後に常陸君にお願いがあります……。
私の遺書を読んでください。
君は私がいなかったらまともに人と関わろうとしない人間です。(友達がいない私が言う資格ないけどね笑笑)
君は自分を低く評価しすぎています。あくまで私の予想ですけど君は自分に劣等感を抱いているんだと思います。君の心には他の高校生みたいに友達と人生を謳歌したいという本心が隠れていると私は思うな。でもそんな気持ちを君は何かと理由をつけて押し殺しているんじゃないかな。きっと本心と素の君を出せば自然と友達ができるよ。だから君はもっと積極性をもって人と関わり自分を認められる人間に飛翔しなさい。
(友達がいない)一ノ瀬来夏より』
彼女からの言葉を脳裏に焼き付けたまま。僕は机に向かった。
彼女からの遺書。それが入った封筒が目の前にある。
僕は覚悟を決める。どんな言葉やメッセージでも受け入れようと……。
読書灯で光を得ながら僕はカッターナイフを使い封筒を丁寧に開ける。彼女だったら雑に開けるだろうなと想像する自分もいた。
最後の一切りに弱いながらも力を込めて切り切った。
中にはA4サイズの紙が二枚丁寧に折った状態で入っていた。彼女らしくないなとも思えた。
僕の覚悟は固まっていたが、いざ目の前にすると拒否してしまった。きっと彼女からの最期のメッセージを見る覚悟だけが完全に定まっていないからだ。
萎縮する心におびえながら僕は静止する。
深呼吸をする。
僕は新たな世界を歩むために彼女の遺書のページをめくった。