新学期初日の放課後、僕は雨が降っているにも関わらず彼女が入院している病院に足を運んだ。僕は学校の帰り道の途中に病院があるということを口実に行った。
 どこに入院しているかは彼女からの希望でクラスメイトたちに伝えられることはなかったが、僕は彼女の本当の病気を伝えたくないという意思を知っていたため納得していた。きっと伝えたとしても来るクラスメイトなどいないだろう。病院名は覚えていたため困ることはなかった。
 新学期早々に担任から彼女の入院を知らせた際に動揺しているクラスメイトは一人としていなかった。話を真剣に聞く様子もなくただただ時間が経過を願っているようだった。これが彼女の演じ続けたクラスの空気という役の結果だろう。空気の彼女になんて興味がない。突如として彼女が死んでもクラスメイトは誰も悲しまない。泣かない。僕はそう感じた。
 僕は病院の受け付けで彼女の名前を言って、病室を確認する。
 彼女の名前を言う際、下の名前を忘れてしまったが記憶を辿って思い出す。
 部屋の番号を書いた正方形の紙をもらい、エレベーターと地図を駆使しながら病室へと向かう。
 病室の前のプレートには「一ノ瀬来夏様」と大ぶりの筆で明記されていた。僕はドアに手をかけ、走りによって乱れた息を整える。
 何を話そうか? どんな顔をすればよいのか? 学校の話はしない方がいい? と小さな脳をフル回転させ、最良策を探し出す。
 大きく息を吸って再度呼吸を整える。ドアを右にスライドさせようとしたとき、中から話し声が聞こえてきたので一旦力を抜く。
 僕は声の正体を探ろうとドアに耳をあてて盗聴する。本来なら決してしてはならない行為だが、興味本位という言い方が正しいだろうか……興味本位で耳を傾け、全神経を聴力にそそぐ。
「来夏! 俺と付き合てくれ!」
 病室中に響き渡っている声は水紋のように広がり、ドア越しの僕にも鮮明に伝わる。聞こえてきた力強く活力のある僕とは正反対の声の持ち主は顔を見なくても分かった。
 病室に沈黙の時間が数瞬だけ流れる。
「西川君、ごめんね。私はあなたとは付き合えない」
 何故だろうか、僕はホッとした気持ちで満ちる。いつも通りの明るい彼女の声を聞くことができたからだろうか……いや、違う。僕は自分の心の内を自分で認めなくなかった。
「何で理由は?」
 彼は彼女に問い詰めた。この疑問の答えは僕も知りたかった。
 女子の恋愛観はわからなかったが、イケメン、秀才、運動神経抜群と三拍子そろった彼の何がダメなのか……。
「実は私、好きな人がいるの……」
 彼女は声量を縮めて話した。
「誰? もしかして……君」
 彼の発言は近くを通った子供たちの高らかな声によってかき消された。僕は知りたくない良心よりも知りたいという本心の方が勝っていた。もう認めざるを得ない……僕は彼女のことが……。
「あなたの言った通り、私は彼のことが好き。自己を見つめて私の日常に花を添えてくれる彼が好き。まぁ私に全然興味を持ってくれないけどね」
 彼女の声は弾んでいた。表情が確認できない分を想像力で補う。
「返事を聞けただけで俺は嬉しいよ」
 彼は心なしの言葉を残した。彼の足音がだんだん大きくなり最高潮に達した時に、すでにドアは開いていた。彼は少し困惑した表情を見せるものの、持ち前の冷静さを発揮して動揺することなくドアを優しく閉める。
「相模原、ちょっと来い」
 病室内の彼女に配慮したのか、彼は控えめに話す。
 殺されるのを覚悟に彼に促されるまま自動販売機コーナーに向かう。自動販売機から少しか弱く放たれるLEDが僕たちの影を作る。近くのキッズコーナーには入院着を着た幼い子供が積み木をしていた。僕の心とは反対に朗らかな光景だった。
 僕と彼はどちらともお茶を購入する。彼と会話したくないため敢えてお釣りが出るように千円札をいれ、ゆっくりとお釣りを取る。僕たちは年季の入ったベンチに臀部を付ける。
 ペットボトルのカッチという音を合図に、彼が膝に肘を当てながら話し始める。
「さっきの話どこから聞いてた?」
 さっきの話とは病室での事だろうか? 正直、告白の場面は聞いてなかったと言うつもりだったが、良心がそれを拒み、本当のことを言う。ここでの嘘はご法度だ。
「……告白の所から……」
「忘れろ!」とか「誰にも言うじゃないねえよ」などの命令が彼から下ると覚悟していたが、その選は大きく外れた。
 彼は静かに空気を震わせる。
「実は来夏に告白する前に衝撃のことを俺は知ってしまった。そのことを俺以外に知っている人はいるかって来夏に聞いたんだ……。そしたら家族以外の名前で……相模原……お前の名前が来夏の口から出てきたんだよ」
「そのことって何?」
 大体は予想がついていた。家族以外では僕だけが知っている。衝撃の事実。そのほかの解答を模索するが見つからなかった。見つかるわけなかった。
「来夏が七色病ってことだ」
「大正解」と彼女なら高らかな声で言うだろう。でも、彼女の死期が近づいてきていることを知らせるこの言葉を正解しても、とてもじゃないがいい気分にはなれなかった。
 何故彼は彼女の病気について知っているのだ? そんな疑問が頭の中をよぎった。もちろん彼女が自発的に言うはずない。
「俺が病室に入る前に医者と来夏が話しているのを聞いてしまったんだよ。『来夏さん、延命治療を頑張ってきましたが、あなたは来年の夏を迎えられないかもしれません』って。俺は真実か冗談か確かめたいという一心から病室に入ってしまったんだよ。それから来夏は話してくれたよ。病気だってこと、学年全体に流れている前向性健忘は嘘だってこと、そして……余命が少ないこと……『家族以外で病気の事を知っているのは常陸君だけ』って。その時、何で相模原なんだよって思ったよ」
 彼は僕に対する怒りからかペットボトルを握りつぶした。ペットボトルは乾いた音を立て、原型をとどめていなかった。僕も自分の心臓を掴まれているようで痛い。
「何で俺じゃなくてお前が知っているんだよって一瞬恨んだよ。でも来夏は自分が病気の事実を勝手に押し付けたことや、自分の独断で彼を巻き込んでしまったって泣きながらお前に謝っていたよ『常陸君、ごめん』って。俺はその悔しさや怒りのあまりに告白してしまったんだけどあっけなくふられちゃたんだよ」
 彼はすべて語り終えた表情を浮かべ、天井を仰ぐ。僕は何もコメントせず、ただただ情けなく下を向いている。
「ふられた俺は思った。俺が逆立ちして努力しても来夏は喜んでくれない。俺が来夏のそばにいるよりも、お前がそばにいた方が彼女は笑って余生を生きることができる」
 彼の声には涙が混じっていた。彼は僕の肩を掴む。肩から感じた痛みは彼なりのエールにかんじた。
 彼は頭と膝を床にこすりつける。世間ではこれを土下座というらしい。
 周りを通る人達が不信がって見ていたが、今はそれどころではない。
 彼は土下座をしながら、僕に頼みごとをする。他人の額をこすりつけた姿を見るのはあまりいい気がしなかった。
「今までのことは本当に悪かった。どうか、来夏のために、一ノ瀬来夏のために……相模原常陸が一ノ瀬来夏のそばにいてあげてください」
 どう答えればいいのか迷った。「はい」や「分かりました」などは違う気がする。
 僕は無言で首を振った。それが果たして縦に振ったのか横に振ったのかは自分でもわからなかった。
 彼に「ありがとう」、そう一言だけ言った。余計な言葉は不要な気がした。
 彼女の病室に向かう途中、さっきまで廊下を照らしていた蛍光灯は息をひそめるかのように消えていた。
 彼の話の影響だろうか。ドアに手をかけた瞬間、心拍数が速まる。
 そっと自分の心臓、そして血管に手を当てる。血液が正常に流れているかは不明だったが、心臓は一定のリズムを刻んでいた。
 僕はドアを開ける。そこにはカーテンによって一応個人の空間が確保されていた。どこに彼女がいるかは目では確認できなかったが、キーボードを勢いよくはじく音が音源となる場所に向かう。
 静かにカーテンを開ける。
「常陸君来てくれたんだ。君がわざわざ自分の時間を割いてまで来るなんて、なんか変な物でも食べた?」
 彼女はいつもの冗談を交わす。僕はルーティンである彼女の話に付き合う。 
「僕は自分の意志できたんだよ。それと僕の今日の昼食はクロワッサンとサンドイッチだよ」
「クロワッサンとサンドイッチなんて常陸君にしてはおしゃれな昼食取ってるじゃん」
 彼女はノートパソコンを閉じる。
「また、小説書いてたの?」
「基本的に病院で出来ることって限られてるじゃん。私はあと何日こうやって元気に小説を書けるかわからないから、やれることはやれるうちに全部やっておこうと思って……もしかしたら小説の登場人物みたいに何の前触れもなく死ぬかもしれないからさ」
 僕は辺りを見回す。彼女の体には点滴や医療機械の管が何本も突き刺さていた。
 時間は有限。人が都合よく時間の価値を表すのに用いる言葉の本質を本当意味で理解する。
「ちょっとお腹が痛くて病院に行ったら入院しなければいけないことになっちゃって……いや~こんな大事になるなんて思わなかったよ」
 彼女はいつも通りの元気を貫いているが、その表情はぎこちなかった。辞書によっている言葉を借りるなら作り笑いだった。
 辺りにそびえたつ医療機器の数々は彼女の病の重さを表していた。
 点滴の雫の音が静かに、透明に響く。
 僕は彼女に嘘をつく。
「よかったよ……元気そうで……君は元気と小説しか取り柄がないからね」
「もうー、褒められているのに褒められた気がしない」
 少し機嫌を損ねたのか、彼女は頬を膨らます。
 僕が空気を繕っているとそこへ看護師が入ってきた。三十代くらいの中肉中背の女性看護師だった。左胸には「橋本」と書かれた年季の入ったプレートが光を反射していた。
「一ノ瀬さん、今日は彼氏が来てくれたのかしら」
 彼女の顔はさっきよりも濃い赤色に染まっていた。僕は彼女と恋人関係でないので言われてもなんとも思わない。しかし、彼女は過剰な反応を見せる。
「彼氏じゃないです。ただの(病気を知っている)クラスメイトです」
 彼女は早口かつ簡潔に僕の紹介をする。「彼氏じゃない」にはかなりの熱がこもっていた。橋本さんはというと納得のいかない表情を浮かべながら、医療機器を操作している。
「彼氏じゃないんだ。蛇足だけど一ノ瀬さんはいつも君の話をしているよ」
「ちょっと、橋本さん。その話は絶対にしないでって約束したじゃん」
 彼女の方に目を向けると、反発し合う磁石ように彼女は目を背けた。僕の態度が気に食わなかったのか、彼女は枕を投げる。僕はぎりぎりで受け止め、身を守る。
 それから橋本さんは思い出したかのように彼女に言った。
「大事な検査があるから遅れたらダメだよ。また迎えに来るからそれまでなら彼氏といちゃいちゃしててもいいよ」
「だから彼氏じゃないって」
 橋本さんは病室を後にする。
 僕は外の明るさと時計を確認する。腰を浮かし帰る準備をしていると、彼女が阻むかのように僕の左手を掴む。
 手から感じる彼女の脈はとても速く、呼吸も早い気がした。彼女は呼吸の合間を縫って
「待って」
 とささやく。
 表情、荒い息使いから何か重要なことが起こると確信する。
「どうしたの?」
 僕の方から口を開く。彼女は左手を掴んだままだった
「実はね。私……」
 僕は立たずをのむ。
「常陸君のことが……」
 この後の文を風が邪魔した。目の前は風によって大きく揺れたカーテンが横切る。時折、カーテンの隙間から覗える彼女の表情はいつもと違う気がした。
「それと私、常陸君に隠していたことがあるの……」
 鼓動が高まる。彼女の脈もまた上昇しているのが伝わってきた。
「私ね、病状が……」
「一ノ瀬さん検査に行くよ」
 橋本さんの彼女を呼ぶ声が脳に伝わり、とっさに振り返ってしまう。僕は彼女に聞こうと試みるが、彼女を検査に促す橋本さんの声に負けてしまった。
 僕は「彼女はこれから検査がある」という口実のもと、病室を後にする。
 廊下を歩きながら左手をふと見つめる。右手とは異なる量の汗が走っていた。
 帰り際、僕は彼女が入院している階のナースステーションに立ち寄る。彼女がさっき言いかけていた「病状が……」の続き。その真相が確かめられるかもしれないという謎の期待感を胸に聞く。
「一ノ瀬来夏さんの病状について教えてくれませんか?」
「申し訳ございませんが、一ノ瀬さんとはどういったご関係ですか?」
「関係ですか……」
 関係。 
 その一言が頭をよぎる。もし、彼女と僕の立場が逆転していたら迷うことなく「彼女」ですと即答するだろう。しかし、僕は正反対に答える
「ただの(病気をしっている)クラスメイトです」
「申し訳ございませんが、ご家族の方以外はお伝えできない義務となっているので」
「分かりました」
 看護師は一度頭を下げた。何も非がないのに下げた頭を見るのはあまり気持ちが良いものではなかった。
 個人情報管理のために言わないのは当然の選択だと思う。もし、恋人関係を装ったら教えてもらえるかもしれないと卑劣な考えを持つ自分がいた。
 病院の外に出ると来た時とは比べ物にならないくらい外はオレンジ色に染まっていた。
 僕は夕日に向かってゆっくりと自転車をこいだ。



 翌日、窓から差し込む光が僕を起床へと誘う。
 初秋ということもあり、エアコンをつけてない部屋は朝日によって蒸しあがっていた。
 いつも通りに歯を磨き、いつも通りに朝食をとり、いつも通りに母の仏壇に線香をあげて家を出る。「いってきます」は言わない。
 通学の途中で昨日のことを考えてしまう。
 彼女の病状はどうなんだろうか? 僕と彼女はどんな関係なんだ?
 今までの僕だったら他人の心配なんて百歩譲ってもしなかっただろう。他人のことを考えてしまう自分が不思議だった。
 昨日の彼女や西川の残像が鮮明によみがえる。
 今日も病室に行こう。そして昨日の事を聞こう。
 一日の目標を掲げ、僕は自転車のペダルに力を入れて学校を目指した。
 希望を持って学校に行ったのはいつぶりだろうか……。

 教室に入ると同時にクラスメイトである男子が僕と彼女の関係について聞いてきた。
「同じ文学部みたいだけど、相模原って一ノ瀬の彼氏なの?」
 空気を演じている僕たち二人の関係でさえ興味があるとは、やはり一般高校生というのは恋愛に飢えているらしい。
 僕は心底面倒くさかったので否定し続けたが、学習をしない動物のようにしつこく聞いてきた。
 そんな僕の困った状況を助けてくれたのは彼だった。
「相模原が困ってるだろ! 少しは相模原の気持ちも考えろよな」
「優、お前は知りたく……」
「もう一回言う、これ以上この話に干渉するな」
 彼の顔に恐怖を感じたのかクラスメイトは立ち去って行った。
 僕は彼にお礼の言葉を素直に言う。
「助けてくれてありがと……」
「勘違いするなよ。俺はお前のためじゃなくて、来夏の名誉を守るために行動したんだからな」
 空気の彼女でも僕と付き合っているというレッテルを貼られるのを彼は避けたいらしい。
 僕は素直にお礼を告げる。
「それでも、ありがとう……その……」
 僕は心に秘めたお願いを彼に伝える。
「……困ったら相談してもいいかな……」
「もちろんだ。困ったことがあったらいつでも俺に相談してくれ」
 彼はクールに去っていった。



 放課後、僕は一直線に彼女の元へと向かった。
 まだ日は長く、昼と変わらないぐらいの明るさが影を作った。
 僕は風を感じながら考える。今日は何を話そうか? 差し入れは何がいい?
 この時の僕の脳内には通学時に考えた「昨日の事を聞く」という発想は消えていた。
 独特の消毒液が香る病院の廊下を早足で歩く。
 僕は病室の前で止まる。今までは何とも思わなかったのに、いざ病室に入ろうとすると鼓動が高まる。
 白状する。彼女のことをただの(病気を知っている)クラスメイトではなく、……。
 緊張していたからか、僕はノックもせずにドアを勢いよくスライドさせる。
 廊下とは異なる良い臭いが鼻を刺激した。
 僕はこれまた許可をとらずに彼女のプライベート空間の仕切りとなっているカーテンを開ける。僕は彼女の方を見ずに悠々と喋り始める。この時の僕は今、目の前でどんな光景が繰り広げられているかを知る由もなかった。
「きゃ!」
 彼女の声が室内、いや廊下までも響き渡った。何かあったのかと思いながらも視点を壁から彼女に移す。
 そこには、赤くなった彼女の顔と上半身裸の色白い背中が広がっていた。さらにその背中をタオルでふいている橋本さんの姿も確認できた。
 僕はこういう経験が乏しいため状況をすぐに理解できなかった。
「変態!!!!!!!!!!」
 先ほどとは正反対の彼女の怒号が室内を満たす。目元には彼女が投げたであろう枕が視界を暗くした。僕は自分の過ちをようやく知る。
 (上半身裸で背中を見せている女子高校生)×(背中をふいている女性看護師+男が許可なしに覗く)=『僕はすぐさま退室』という見事な式が頭の中で完成した。僕は式の解を確認し、自分の取るべき行動を実施する。その行動とは退室だ。
 僕は廊下のベンチで自分が犯してしまった「のぞき」という罪について猛省する。
 五分後、タオルと洗面器を持った橋本さんが笑って出てきた。
 僕は思わず頭を下げる。
「彼氏君、さっきは災難だったね。男からするとラッキースケベな状況かな」
「僕は決してラブコメの主人公的な展開は求めてませんって」
 橋本さんの冷やかしに僕は冗談と言う武器で戦う。
「君が来てくれて本当によかったよ」
「え!」
 思わず動揺してしまう。
 橋本さんの声からもさっきの冷やかしの延長線ではなく、真面目なのもだというのがひしひしと伝わってきた。
 僕たちの視線はドアの正面の壁に飾られている絵に向けられた。絵の少女は泣いていた。
「実は一ノ瀬さん、最近元気がなかったんだよね。彼女が入院した時から私が担当してきたんだけど、昔の彼女は元気がなかったの。でも、君の話をしている最近は本当に楽しそう。まるで病気が治ったみたいな顔をしているから私は嬉しい。でも、彼女には時間がないの。悔しいけど、私や彼女の親じゃダメなんだ。そんな彼女を幸せに出来るのは地球上で君だけ。彼女は君を求めてる。病気になっても普段と何も変わりなく日常を与えてくれる君を。君は自分に何ができるか真剣に考えて。きっと彼女はどんな君でも受け入れてくれるから」
 僕は返す言葉を模索したが見つからなかった。形だけでもいいので否定したり、焦ったりしろと心が叫んでいたが、体が拒否していた。
 彼女との思い出が頭をかけ巡る。文学部で偶然出会ったこと、映画を見たこと、朝早く集まったこと、新幹線に乗ったこと、観光地を巡ったこと、夜景をサンライズ出雲から眺めたこと。
 そして、彼女が……『生きたい、生きて楽しいことをしたい』と言ったこと……。
 僕は我に返り、現実に戻る。
 気が付けば橋本さんは僕に対して呆れた顔をしていた。しかし、その顔は僕が彼女への過ちに気が付いたことに納得した顔だった。
「君は本当に鈍感だね」
 橋本さんは微笑みを交わした。
 僕はノックをして病室に入る。先ほどの猛省を生かし、カーテンの前でもう一度入室の許可をもらう。
 彼女は片耳だけイヤホンをして、パソコンを使っていた。会話をさっきの不祥事からそらそうと試みるが、彼女が先に話す。
「もー、さっきのは本当に恥ずかしかったんだから……もうお嫁にいけない」
 彼女はウソ泣きを演じる。それから、彼女は身を布団で隠す。
「ごめん」
 彼女に言うと「冗談だって~」といい、彼女は笑った。
 彼女の笑顔を見て安心すると同時に、橋本さんの言葉がよぎる。「君しかいないんだと」と。
「話戻すけどさっき死ぬかと思ったよ」
 彼女は布団から顔を出し、僕と目を合わせる。
「え! 何で?」
「君が私の裸を覗いたことだよ。血液じゃなくて心臓が止まって死ぬかと思ったよ」
「僕はわざというか、狙って入っていないということを理解してほしいな」
 彼女は外を見つめる。木は淡い紅色だった。少し弱めの夕日が彼女を照らす。僕はそんな彼女をみる
 彼女は大きく息を吸って吐く
「常陸君は私のことをどう思っている?」
「それってどういう意味で?」
 単純な疑問だった。人としてなのか、クラスメイトとしてなのか、それとも……。
「そうだね……」
 彼女は近くのテーブルに指でリズムを刻む。
「じゃあ、女の子として私のことをどう思う?」
 目が自然と合う。そんな彼女の瞳はいつも以上に透き通っていた。
 僕は迷っていた。正直に自分の信念を貫くべきか、余生少ない彼女のために嘘をつくべきかどうかを……。
 嘘をつきたくない自分も、彼女を喜ばせたい自分もいた。ここでの僕の発言がこれからの関係を大きく左右してしまう、そんなこと頭で考えなくてもわかっていた。わかっていたからこそ迷った。
 ……決めた……。
 僕は腹を括る。
 彼女は決して僕の内に秘めた思いを知らない。
「君のことはいいと思っているよ……人としても……」
 ゆっくりと呼吸を挟む
「……女の子としても……」
 彼女は手で顔を覆って、髪を左右に勢いよくふる。
「自分から聞いといてあれだけど顔から火が出るほど恥ずかしいよ」
 彼女の顔は言葉通り赤かった。僕はこの時、彼女に熱があるとは全く知らなかった。
「さっき常陸君さぁ~私のことを女の子としていいって言ってくれたけどさ……」
 彼女は一拍おく。次の発言を彼女がした瞬間、僕の心臓は大きく跳ね上がった。
「それって私のことが好きって意味?」
 前の僕なら、彼女の意見を聞いて「前言撤回」と風発していたであろう。
 しかし、不思議とそんな感情は湧かなかった。信念を貫いた意見だったからだろうか、嘘をついていないからだったのか、それは自分にも分からないし、このさい分からなくてもいい。
 僕は真剣に考えた。異性から「好きなの?」と聞かれたことはあまり重要視していなかった。
 なぜらな、僕の心の中では次に言う意見を試行錯誤することで頭が一杯だからだ。僕は確信する。この時間が僕たちの関係、未来を決定する分岐点になると……。
「僕は多分、君のことが女の子として……その……好意を抱いているんだと思う……」
 僕は本心のまま口を開く。決して後悔をしないようにありのままに伝えた。恥ずかしさは全くなかった。彼女は笑わずに朗らかな笑みを交わす。
「好きになった理由は単純だと思う。君は自分の長所や短所を認め、他人が楽しんでいるときは一緒に楽しみ、悲しんでいるときは一緒に悲しめる。どんな相手だろうと信念を曲げることなく、優しく手を差し伸べることができる。そんな君の言動が憧れから好きに変わった。ちょっと、非常識で恥ずかしい言動をしている時もあるけど、その裏には他人を喜ばせたい気持ちや元気を分け与えたい心があったんじゃないかな。百八十度反対な君を好きになるなんてありえないはずだった。でも、君はどんな人でも……僕のような根暗で協調性の欠片もなく、イケメンでもない人にでも嫌な顔一つせずに接してくれる。そんな君に僕は真率に惚れたんだ……君の良さや弱さは世界で僕が一番知っているつもりだ!……だからと言っては何だが僕と……相模原常陸と付き合ってくれませんか!」
 彼女の表情を確認する。
 僕はびっくりした表情を予想していたのだが違った。彼女は大きな瞳から大粒の涙を流していた。
「ありがとう。私も常陸君が好き……実はずっと君を探していたんだよ」
「ずっと? それっていつから?」
「それは秘密。私が常陸君を好きなのは墓場まで持っていくつもりだった。好きな気持ちを隠して君と接しようと思ったんだけど、そんなことしたら私の心は張り裂けちゃうよ」
「それっていい意味で?」
 僕は笑って問いかけた。彼女は笑顔でこたえる。
「もちろん。すごくいい意味で」
 僕たちは笑った。人目を気にせずに笑った。心の底から彼女と笑ったのは何日ぶりだろうか?
「常陸君、新しい薬が欲しいの。お願いしてもいい?」
 僕は彼女の発言の意味を探らずに行動に移す。
「じゃあ、看護師さんに頼んでくるよ……」
 僕がナースステーションに行こうと足を動かし始めた時、彼女は僕の腕を掴んできた。
「待って」
 彼女の顔はさっきよりも赤く、少しばかりの息切れもあった。
「その……欲しい薬は君なの……」
「え!」
 すると、彼女は手招きをした。僕は彼女に近寄った状態になった。この時の僕は千変万化する情報の整理に脳を使っており、彼女の意見の意図を探るどころではなかった。
彼女は大きく腕を広げる。
 そして、次の瞬間、彼女は僕に抱きついた。彼女の体が障害となり光を失う。僕は困惑したが、熱い体温を顔から感じ、その行為を理解する。
「これはハグだよ。今の私にとって何よりも効く薬。これも死ぬまでにやりたい事の一つ、『好きな人とハグをする』だよ」
 僕は何も抵抗をしなかった。
 一分ぐらいたっただろうか。僕は彼女の腕から解放された。僕たちは恥ずかしながらも目を合わせる。人生で初めて経験した『ハグ』という行為がこんなにも気持ちよく、終わると恥ずかしいなんて思わなかった。
「常陸君からも……って……きゃー!!」
 僕は彼女から求められる前に自分からハグをした。見よう見まねの行為はどこか不格好でぎこちなかったが、そんなのはどうでもよかった。
 僕は数分経ってから腕を放す。五感のすべてが彼女に持っていかれた気がした。
 彼女の顔はとても赤かった。
「まさか常陸君からしてくれるなんて」
 彼女は顔に両手を当てながら左右に揺れる。それから枕を抱えたりしながら恥ずかしさを体現していた。僕はそんな彼女を無言で見つめた。
 それから、彼女は我に返ったかのように姿勢を正す。彼女の顔が赤いままなのが気になった。
「実はね。常陸君に言わなければいけないことがあるの」
 僕はごくりと一回のみ、下を向いていた視線の狙いを透き通った彼女の瞳にあわせようとする。
 しかし、彼女の姿はベッド上になかった。目を見開く。
 僕の脳には「死」の文字が浮かび、母が死んだことが脳裏に浮かぶ。僕は必死に彼女を探した。
 彼女は床に倒れていた。とても苦しそうに心臓を抑えながら助けを求めていた。僕は壁にあるナースコールを勢いよく押す。焦りと不安から何回も強く押し続ける。
 僕は助けが来るまでの間に自分に出来ることはないかと冷静に考える。保健体育の授業で習った人工呼吸、心肺蘇生、AEDなどが使えないかと戸惑っていたら、大きな声で橋本さんが駆けつけてきた。
「どうしたの、大丈夫!」
 橋本さんは彼女に問いかける。しかし、反応はない。その光景が僕の脳に彼女の死んだ姿を映し出してしまう。大雨の中、葬式上で彼女の遺影と共に添えられている花。冷たくなった彼女の遺体が入った棺桶。線香の匂い、お経と共に響く一定の音程を刻む木魚の音、葬式独特の空気感までもが僕の脳を占めてしまう。挙動不審な僕に橋本さんは「邪魔だから病室の外に出てなさい!」ときつい口調で言った。反抗しようとしたが、自分の無力さに従いざるをえなかった。
 僕は重い足を引きずりながら、外の椅子に腰かけた。
 彼女の病室にはたくさんの看護師や医師、見た事も無い医療機器が次々と運ばれていく。
中からは彼女の容態や伝える看護師の声や、機械の操作を促す男性医師の大きな声が聞こえてきた。
 その言葉が僕の不安をより一層煽り、彼女の死へと結びつけてしまう。
 ただ僕は両手で顔を覆って待っていた。多分、僕は彼女の笑顔を待っていたのであろう。
 僕は面会時間ぎりぎりまで待ち続けたが、その日に彼女に会うことはできなかった。
 日は暮れていて、灰色の空からポツポツと雨が降っていた。
 コンビニで傘を買うかどうか迷ったが、結局買わなかった。
 雨を防ぐ道具は何も使わず、放心した心で外灯も照らない道をずぶ濡れの状態で歩く。
 雨雲の隙間から漏れてくる月光はぎこちなかった。

 翌日、僕は再び病院に向かう道を歩く。
 大雨が紅葉を地面に散らせていて、僕はそれを時々踏んでしまう。風が雨を共に連れてきて、体温を奪っていく。
 傘を差しながら歩く道は悪の道と化していた。
 昨日まであった病室の入り口の『一ノ瀬来夏様』という札は姿を消していた。他にも辺りを模索したが彼女の存在を証拠付けるものは確認できなかった。
 僕は挙動不審の態度を隠すことができないままナースステーションで彼女の存在を確かめる。
「一ノ瀬来夏の病室はどこですか?」
「一ノ瀬さんなら個室に移動しました。一番西の部屋です」
 個室。
 その単語が引っかかる。
 彼女の病状は悪化したのか?
「一ノ瀬さんの病状ってそんなに悪いんですか?」
 僕は廊下に響き渡る大きな声を思わず出してしまう。
 僕の声量に周りの人たちは一瞬目を丸くする。
 静かな廊下にベランダに当たった雨音が規則的に鼓膜を震わせる。
「大変申し訳ございませんがそのような事は個人情報に関わることなのでご家族様以外にお伝えすることができない決まりになっているんです。失礼ですが一ノ瀬来夏さんとはどのようなご関系ですか?」
「彼……クラスメイトです」
 そもそも僕たちは恋人関係なのか? 好きという気持ちを伝え、彼女も好きと言ってくれたが、付き合いを承諾してもらった訳ではない。この状況において嘘をついてでも恋人関係を装った方がよいのかもしれない。しかし、『友達』と言ったことに対する後悔は不思議と湧いてこなかった。
 僕は『現実を知るのが怖かった』のだと思う。もし、彼女の病状の悪化が著しく、前みたいに心から笑うのを病気という悪魔が邪魔するのを垣間見たくなかったからだ。
 僕はナースステーションの看護師に一礼を交わし、個室に向かう。
 僕は貼ってあった紙を見て言葉を失った。それが事実ではないことを祈るかのように二度見をしてしまう。
「面会謝絶」
 その四字熟語だけでどこか彼女と疎遠されたようだった。
 独房のような個室のドアに触れることなく僕は帰った。



 今日も学校帰りに病室を訪れた。昨日とは違って青い空に太陽が輝いていた。
「面会謝絶」
 この言葉が天気のように変わればいいと考えていたがそんなことはなかった。
 ドアを破って強行突破しようと卑劣なことを考えていたが潔く帰路についた。
 その日の夜、僕は月光で視力をえて、スマホを操作していた。
『個室に移ったけど大丈夫?』
『大丈夫だよね』
『何か返信して』
『まだ死なないよね』
『絶対死ぬなよ』
『死んじゃダメ』
『また行くから』
『いつまでも僕は君を待っているから』
……………………………………………………………………………………………………………。
 独り言のようなLINEを僕は日付が変わるまで送り続けた。
 彼女からの返信を、本を読みながら待つ自分もいた。
 月はいつの間にか雲に隠されていた。それを自分の心と照らし合わせてしまう。
 その日はひたすら空を眺め、スマートフォンを握っていた。
 しかし、彼女からの返信がその日に届くとこはなかった。既読は遠かった。
 


 翌日も「面会謝絶」の言葉は変わらなかった。窓から差し込んだ優しい日光がドアの紙に当たり彼女の様態の悪さを強調しているように感じた。
 自分がどの行動をとればいいか分からなかった。この時の僕は心が割れそうだった。
 ドアを蹴破って入ろうか? ノックをして堂々と入室するか? ドア越しに話しかけようか? 心の中は東方西走状態だった。
 僕はこの瞬間に初めて自覚した。心の中から本心が雄叫びを上げていた。それは以前の僕なら絶対に抱くことのない感情だ。
 『彼女に会えないのがこんなにも寂しく……そして……辛いんだ』と。
 心が萎縮するように痛かった。この気持ちにどう名前を付ければいいのか僕にはわからない。
「一ノ瀬さんの彼氏君。ちょっといい」
 諦めをつけて、帰ろうと服装を整えていた時、聞きなれた声が鼓膜をくすぶった。『彼氏』というワードには驚いたが僕は瞬速で振り返る。
 そこには困った顔をした橋本さんがカルテを抱えて立っていた。
 僕は橋本さんに促されるまま近くのベンチに座る。
 自動販売機から音を立てて飲み物が落ちてきた。橋本さんはカフェオレを僕に奢ってくれた。
 チカチカと頼りのない光が自動販売機から放出される。
 僕たちは無言だった。
 橋本さんが開けた缶の音が会話の開始音となった。
「君、一ノ瀬さんの彼氏なんだって」
「えっ……えっと……」
「そんなに困った顔をしなくてもいいよ」
 橋本さんは天井を仰ぐ。僕は飲み物を片手に抱え、床に焦点を絞る。
「病状、結構悪いんだ」
 独り言のように橋本さんが呟いた言葉を僕は聞き逃さなかった。誰の病状が悪いのかは言わなかったが、彼女だというのは言うまでのない。
 声には悲しさや苦しさが混じっていた。
「君が思っているよりも彼女の容態は悪い。前よりかなり悪化しているんだ」
 「悪」言葉を反復した。まるでそれを僕に認知させるかのようにゆっくりと言葉を選んでいた。
 僕は橋本さんの言葉を取り込むことが怖く、心の中で否定を繰り返した。
「そんな……何かの間違いじゃないんですか。だって、彼女はあんなにも元気なんですよ。いつも口角を上げて美しく笑い、男みたいにたくさん食べ、体格の違う男性にも臆することなく、持ち前の正義感を発揮して弱い人を守るんです……」
 僕は彼女を褒めた。何故褒めたかは正確には分からないが多分、自分を取り繕うためだ。
 正解か不正解か自問自答をしていると橋本さんがきつめの口調で口を開いた。
「あのね!いくら医学が発達しても、治せない病気は存在するの!」
「そんな、何かまで方法が……」
 僕の突発的な発言をかき消すかのように橋本さんは机を叩いた。その音は水紋が広がるかのように規則正しく空気に振動を与える。近くを通っていた患者や医師がこちらを注目するが注意はしなかった。きっと今の状況を理解したのだと推測する。
「私だって、私だって治せるなら治したいよ!でも、もう治らない。これが現実なの!どんなにあがいても変わらないの。よく『患者は見切りをつけろ』とかいうけど、私は断固として否定する。患者に見切りをつけるなんて間違いだ!これだけ言い切れる。私たち医療従事者からすると患者は数多くいる内の一つだけど、患者からすれば医者は最後の頼み綱なんだ。私はそんな患者の気持ちを尊重してあげたい。自らその綱を切るほど残酷な事はないと思うんだ」
「しかし、一ノ瀬さんは違った。自分の病気はすべて受け入れ、死を待っている。たいした人だよ。十代でこんなに冷静でいられる人は見たことない」
 違うと否定したかった。彼女は冷静じゃなくて、きっと心の中ではもがき苦しんでるんだって……。
「一ノ瀬さんにとって最後の頼み綱は医者でも私でも友達でも彼女の親でもない……君なんだ。君しかいないんだ。世界で唯一彼女を救えるのは君しかいないんだ」
「僕なんかですか?」
「君なんかじゃない。君しかいないだ」
 どこか熱意のこもった発言に僕は自分の役割を自覚する。
 いつも自分に対するポジティブな意見は受け入れずに、戯れ言だと思い聞き流していた。
 でも、今は受け入れなければいけないと自覚していた。いくら自分が根暗で内気な人間だとしても、花のように心を咲かせなければならない。
 今日、僕は自分の価値を認めてもらえた気がした。





 季節は巡り、十一月を迎えた。冬を予告するための十一月、僕はそう呼んでいる。
 だけど、今年は彼女のおかげ……いや彼女のせいで違った。
 今日の朝一でメールが届いていた。朝一と言うのはここでは午前四時を指す。
『今日は面会OKだって。学校終わったら来てね。絶対に来てね。ぴーえす、お土産もよろしくね、私の彼氏さん』
 自分勝手で自己中心的な内容のメールだったけど、彼女らしさが浮き彫りになっていたので安心した。
 まだ朝日も出ていないような闇の中、僕の肌はスマートフォンの光によって照らされている。
『君は何のお土産がほしいの?』
 返事はすぐに返ってきた。
『プリン』
『分かった。必ず持っていく』
 僕は電源を切った。スマートフォンを右手に持ちながら、闇夜の中にも関わらずプリンを買うためにコンビニに足を運んだ。

 少しうきうきしている自分がいた。きっと彼女に会えるからだ。
 放課後の晴天の空の下、僕は自転車をとばして高校から直接病院に向かった。
 急いだせいで玉のような汗が額を輝かせる。
 手にコンビニ袋とその中にプリンを抱えながら、個室に移った病室に向かう。
 毎日のように病院を訪れ、「面会謝絶」という言葉にも慣れてしまったが、今日はその言葉は貼っていなかった。僕は安堵の息を吞む。
 病室の前で一度立ち止まり、胸に手を当てる。脈が速いのが明らかに分かった。
 緊張しているからだろうか? 自分でも分からない症状に取りつかれた。決して僕は病気ではない。
 僕は自分を創り、ノックをしてドアを勢いよく開ける。
「ようこそ、常陸君」
 広い部屋に小さなベッド、物が少ない殺風景な様子はどこか彼女らしくなかった。
 雲一つない青空は病室の窓からも確認できた。
「そこの椅子に座って」
 僕は彼女に促されるまま、ベッド近くの椅子に移動する。彼女は重そうに体を起こし、回れ右をした。そのとき久しぶりに彼女の顔を面と向かって見たが、彼女には似つかわしくない表情をしていた。
「冷蔵庫にあった粗品だよ」
 冗談を言ってプリンの入ったレジ袋を彼女に差し出す。
「それ、地球上で最も嬉しくない物の渡し方」
 彼女はそう言いながらも僕の手に提げられているレジ袋を雑に受け取る。
 コンビニ袋独特のレジ袋音が二人の空間を予告なく満たす。
「わぁ~プリンだ。何で私がプリン好きなの知ってるの」
「よく言うよ。君が僕にお土産を朝の四時に要求したくせに」
「朝四時にメールを送ってもすぐに返してくれるなんて、私ってやっぱり常陸君に愛されているんだね」
「別に。たまたま起きていただけだよ……君のことだからすぐに返さないとネチネチ言ってくると思って」
「流石の私でも朝四時に返さないくらいでネチネチ言わないよ。私の器は常陸君とは違って東京ドーム並みに大きいから」
「君の器はプランクトンぐらいの極小サイズだよ」
 僕たちの他愛のない話は長く続いた。周りから見れば本当にどうでもいい話を交わしているように見えるかもしれないが、僕はこんなどうでもいい話がよかった。
 時を忘れて話し込んでいることを僕は時計の針を見て実感した。
 酉の刻をさす五時のチャイムが近く学校から流れたのを確認し、僕は帰ろうと立ち上がる。彼女は僕の腕を強く掴む。
「明日も来てよ」
 彼女は期待と不安を声に宿らせる。僕は無言で縦に顔をふった。
 それだけでいいと思った。
「今までありがとう」
 毎回の決まり文句のように言うこの言葉に対して僕は何の不信も抱かなかった。
 「さようなら」より何千倍もましな気がする。
 「さようなら」は帰るときに何気なく言う別れの挨拶だが、僕はもう会えない気がするので絶対にいわない。大嫌いだ。
 母に最期に交わした言葉。それは「ありがとう」などの感謝の言葉ではなく、最悪の「さようなら」だった。その言葉は本当の意味での別れの言葉と化した。
 それから僕は毎日病室に足を運んだ。雨の日も風の日も強風の日も、彼女の笑顔を脳裏に浮かべながら自転車を走らせた。あの日以降、「面会謝絶」の文字を見ることはなかったが、僕はもしかしたら会えないかもしれないという恐怖に駆られていた。
 しかし、時間が過ぎていくと共に確実に彼女の体を病気が蝕んでいた。
 毎日行った僕だからこそ分かることがあるのかしれない。彼女のイメージであった笑顔も、絵のグラデーションのように段階的に悪くなっていった。これはまだ僕の思い込みかもしれない。そう心に言い聞かせた挙句、見てしまったのは何十粒もの薬を辛そうな顔をして飲んでいる彼女や、苦しそうにリハビリをこなす姿であった。さらに追い打ちをかけるかのように彼女の体には見知らぬ管日に日に増えていった。周りの機械は赤い文字を放ち、リズムよく音を刻む心電図音が僕の心をしめつけた。
 でも彼女は毎日精一杯の笑みを浮かべていた。いや、浮かべてくれた。僕でも見抜けた作り笑いは彼女の病気の重症化を知らせる材料となってしまった。
 僕たちの時間は時を重ねるにつれ、砂時計のように静かに少なくなっていく。
 季節は巡りに巡り、春風がまだ少し肌寒い三月の下旬になっていた。