夏休みとはとても素晴らしく気分が良いものだ。学校という面倒くさい場所にわざわざ暑い中通わなくてもいいし、勉強を新たにしなくていいので足枷が減り、読書に勤しむことができる。
 夏休み中は活動がない文学部なので、夏休み中にグラウンドで仲間と汗や声を出しながら勝利に向かってひたむきに努力するなんていう青春ドラマ的な展開を経験することなく、自らの手で青春を切り捨てているのが僕だ。
 そんな僕だからこそ夏休みの存在意義は人一倍分かっているつもりだ。そもそも何故夏休みが存在するかご存じだろうか?僕は興味本位を持って調べた。インターネットには「教師が生徒の学力向上を図るため、会議などを重ねる期間」とだいぶ盛って記されていた。インターネットの情報を鵜吞みにしてはいけない。新学期、授業体制や教え方は何も変わっておらず本当に生徒の学力向上を図るための会議をしているか怪しくなった。先生たちもきっと長期休暇を活用してバカンスでも楽しんでいるに違いない。そして僕もこの超長期休暇を余すことなく毎年旅行をしている。少なくとも十日間以上の長旅は行うし、去年に至っては丸ごと使い鉄道で最長往復切符をしたものだ。
 今年は父からの命令で二泊三日に制限された。僕の言動に不満があるのか財力的な問題があるのかは知らないが僕は従った。
 例年よりも廃れた気持ちで時刻表や観光マップを眺めているとスマートフォンが勢いよく震えた。画面には意外な文字が書かれていた。黒の背景は画面に映る漢字四文字+カタカナ一文字を強調していた。一ノ瀬来夏の文字が映っている。
「おっはよー! 常陸君元気してた?」
 第一声で鼓膜が破れたかと思った。相変わらずうるさいなと自分に引け目を感じる。彼女は声を電話で弾ませる。
「君の声が聞きたくて、この私から電話をかけてあげちゃいました」
「僕の声が聞きたいといって言っているけど、正確には僕の声ではないよ。電話は何億という選択肢の中から一番近い声を相手に伝えているんだよ」
 僕の豆知識に対して彼女はむくれた声を弾ませる。
「もう、常陸君は相変わらず、面倒くさいんだから」
「声を弾ませながら面倒くさいって言うと矛盾しているようにしか聞こえないよ」
「確かにね」
 彼女は電話越しで笑い声を弾ませた。
「じゃあ本題に入ります」
 彼女はそう言うと一拍置いた。
「常陸君って暇?っていうかどうせ暇でしょ」
「暇だけど、人に対してどうせ暇でしょって聞くのは失礼だよ。人として」
「まあ細かい事は気にせずに。明日一緒に出かけよう」
「は?」
「いいから来てね」
「ごめん、明日はかわいい彼女とのデートが入っていから行けないんだ。君なんかよりおしとやかで可愛い子だよ」
 僕は棒読みで言う。
「嘘だね。私とおなじで友達のいない君に彼女ができるなんて百万年早いよ」
「失礼だけど僕には君と違って友達がいるから」
「えー! 常陸君に友達がいるの? てっきりボッチを極めた人かと……」
「君は意図せずとも人の核心を突くね。そんなんだから友達ができないんだよ」
「ハッハハハそうかもね」
 彼女は電話越しで笑った。
「というわけで明日の朝五時に大垣駅前に集合ね」
「えっ? 朝五時って早くない? というか僕は行くなんて……」
 戸惑い、断りの文章を言いかけたときには不通音が鳴り響いていた。
 ため息をつきながらでベッドに身を預けると再度スマートフォンが鳴った。
 いやな予感がした。予感は見事的中した。
 彼女からのLINEだった。嫌な予感は再度起こった。
『明日は午前五時集合。午前と午後は間違えないでね。持ち物は下着と服があれば十分かな。お金は私が出すから安心して』
 不安を僕は隠せなかった。朝五時、下着、服。そんなキーワードを上手く関連づけて一つの
 仮説を生み出した。
 彼女と一泊するのか?
『持ち物が下着ってどういうこと?』
『一泊しないよね?』
『どこに行くつもりなの?』
 疑問をひたすらLINEに張り付ける。しかし、学校では見せない威勢の良い返事はなかった。どういうつもりなのだろうか。彼女の思考回路を分析してみたが考えは全く定まらなかった。部屋内の空気が淀んでいるのでベランダに出て脳をひねる。ふと空を見上げた。今日は半月。彼女と出会ってから三ヶ月が経った。
 日を重ねるごとに形が削られていく月。まるで人間の命を間近で見ているようだ
 不安を抱えながらも僕はベッドに入った。カーテンから微かに差し込む月光で視力を得て、目覚ましを朝四時にセットした。

 日はまだ完全に出ておらず、町や家は眠っていた。僕は目覚まし時計を反射のようなスピードで止めて朝支度を始めた。妙に響く息ずかい、呼吸が怖かった。
「いってきます」
 誰も起きていない家、家族に対して囁いた。僕は出かけてくると伝言を残して家を発った。具体的な目的地は知る由もないので記入しなかった。
 駅までの道のりを自転車でとばしていると東の空がオレンジ色に染まってきた。今は走っていない寝台特急あけぼの号のマークやサンライズ号の車体カラーを思い出す。
 夏と言っても朝は少し肌寒い。朝焼けの透明な空気を切り裂きながら緊張感のない道をひたむきに突き進む。駅の駐輪場はなんとか開いていたが高校生が朝の五時近くに停めるので補導されるかと心配したが僕の過度な心配に過ぎなかった。
 僕は集合の十分前に着いた。当然僕以外誰もおらず、大垣名物の噴水の涼やかな水勢だけが響いた。
「おはよう」
 僕が安堵の息を吞もうしたら彼女の声が後ろからした。昨日の自由奔放、自己中心的なLINEのお詫びか控えめな元気だった。僕は昨日の核心についてはあえて触れない。
「じゃあ、行こうか」
「行くってどこに?」
「改札に行くよ」
「僕は五分後の目的地を尋ねているんじゃなくて最終的な目的地を聞いてるの」
「それは改札に入る前のお楽しみ」
 昼間なら賑わいを見せている静かな駅前を二人で歩く。
「この切符を裏向きで入れてください」
 促されるままに切符を突っ込む。独特の機械音が誰もいないコンコースにこだまする。手慣れた手つきで切符を取り、表面を見ると衝撃の文字が光っていた。
「出雲市!」
 出雲市は島根県にある大きな駅。あまりの遠さに公共施設という事も忘れて大きな声をもらしてしまう。
 水色の背景は金色の文字を美しくしている。「大垣→出雲市」と書かれていた乗車券。彼女は満足そうな顔をわざとらしく僕に向ける。
「君はどういうつもりなの? 僕を出雲大社で修行させたいの」
「それいいね。常陸君の坊主見てみたい」
「君の欲求を聞いてるんじゃなくて、説明を求めているの」
「まあまあ、難しい事は気にせずに」
 彼女は僕の手を掴み、ホームに繋がる階段を下りる。猪突猛進。彼女にはそんな言葉が似合った。僕の事情は全く気にせずに走る。
 僕は彼女のスピードに合わせながら足を回す。
 僕は再度、腹を括る。
 ホーム上にある僅かな砂利が照り付ける朝日によって輝いていた。西の方からは今から乗ると思われる列車のヘッドライトが光っていた。
 列車のドアが開くと同時に彼女が乗り込む。僕も磁石のように吸い寄せられた。近くのボックスシートに腰をかける。僕は話を続けた。
「で、君はどういうつもりなの」
 彼女は観光雑誌を読んでいた。残念ながら場所はわからない。
「普通に常陸君と旅行好きとして出かけたいだけだよ」
「異性同士が一泊するなんて健全な高校生のすることじゃないよ」
「相変わらず常陸君は真面目だな。そんなんじゃせっかくの夏休みが崩壊するよ」
「初日から君の自由奔放さによって崩壊したよ」
 口ではこんなことを言っている僕だが正直に申すと楽しみだった。が、謎のプライドが邪魔して嘘をつく。
「今日の夜はきっと楽しいことになるよ」
「夜になんかあるの?」
「それは秘密。大丈夫。常陸君がお望みのエッチのことではないよ。常陸君が私とエッチしたいならしちゃう? ちなみに無断で襲ってきたらクラスメイト達の標的にしちゃうからね」
「僕は紳士だから、そこら辺の男子高校生と同類にしないでくれる」
「分かってるよ。君にそんな勇気がない事もね」
 彼女の冗談は下車駅まで聞かされた。乗りなれた区間なので景色を見る必要はなく、寝ようと試みたが彼女が会話という凶器を使って僕の安眠を阻んできた。僕の大切な睡眠は奪われた。
 僕たちは中部地方最大の駅である名古屋駅で降りた。流石の名古屋でも朝となると閑散していた。
 二人でホームを並走する。
「きしめん食べよう」
 唐突に彼女が言う。名古屋駅はホームにきしめん屋がある。低価格でおいしいきしめんを食べると地元に帰って気がする。しかし、朝早いために今はやっていない。
「こんな朝早くにきしめん屋はやっていないよ」
「そっかー」
 彼女は笑って返した。彼女はリュックの紐を握りながら早歩きで階段をおりる。
 階段の踊り場的な中腹ポイントまで行った所で一人の男が声をかけてきた。僕に対して発してきたであろう邪気を払った声は聞き覚えがあった。僕に悪寒と面倒くささが走る。
「来夏と相模原が何でここに?」
 彼女に対して質問のため、彼の声は優しかった。ちなみに彼とはカエルを飼っている特異なクラスメイト、西川優だった。彼は青ざめた顔に疑問を隠せていなかった。
「何でって、私が常陸君と旅行をしているから。西川君も何でいるの?」
「俺は野球で東京に行かないといけないから。それより旅行って、その荷物の量的に泊まりなのか?」
 彼は声を高くして、早いペースで話す。他の人の足音と重ねって不協和音に聞こえる。
「それは内緒」
 その言葉を聞いた瞬間、彼は顔を下に向けて静かに声を吐き捨てる。みんながみんな言葉を選んでいたのであろう沈黙の時間が過ぎていく。そんな現状を打破したのは彼だった。
「来夏、相模原君と二人きりにしてくれない」
「でも西川君……」
 否定の姿勢を見せる彼女を彼は表情という武器で否定する。彼はまさに役者だった。
「いいから頼む」
「……分かった」
「私は弁当買ってくるから新幹線の中央改札前で待ってて」
 彼女は後ろを何度も確認しながら僕を心配する。彼女の残像が消えてから彼は持ち前の演技力を発揮した。
「相模原そこの椅子に座って話そうか」
「……」
 無言の返答をする。彼から話を切り出すと踏んでいたが一向にその気配を見せなかった。
「君はこんな朝早くからどこに行くの」
 動揺していたのであろう、僕はさっき彼が話していた内容を繰り返してしまう。
 彼はというと僕の質問に対して吐息を漏らす。僕の声がよっぽど嫌いなのかペットボトルのフタを切るという行為で見せる。
「さっきも話したが俺はこれから野球の用事があって東京に行く……」
 僕の予想に反して彼は誠実な対応をはじめは見せてくれた。このはじめというキーワードが大切で、未来も同じような態度をとってくれるとは限らない。ここでいう未来とは二秒後を指す。
「切符を見せろ」
 彼は僕の右手に秘めていた切符を奪い取った。朝日で光る金色の字。僕は彼が納得するまで静かに息を潜める。
「お前今から出雲に行くんだ。出雲ってあれだろ、山陰にある出雲大社で有名なある所だよな。それも来夏と一緒に……」
 彼はペットボトルを握り潰した。駅構内に響く乾いた音は彼の握力の強さを証明していた。
「本当はこの切符を握り潰してやりたいけど、来夏が知ったら悲しむから出来ない」
 彼は淡々と自分の気持ちを偽りのない心を語る。無論、彼の心だ。
「おい、ささみ。俺が前に言ったことを覚えているよな」
 ささみ。そのあだ名を呼ばれたのは久しぶりだった。相模原→さがみ→ささみという過程を経て僕のあだ名は完成した。ささみはチキンの一種。僕をチキンみたいな底辺人間と見下したいのは嫌々伝わってきた。もしかすると名付け親は彼なのかもしれない。
 僕は彼の今までの発言の意図と文脈から彼の秘めている気持ちを探る。
 もしかしたら彼は彼女に対して恋愛感情を抱いているのかもしれない。僕にはない彼女を考慮した言動を彼は重んじているからだ。僕は解釈を施す。そんな僕の想像にしか過ぎなかった彼の核心は確信へと変わる。
「もう一度言う。来夏に二度と近づくな。二度とだ! もし来夏の身に何かあったら俺はお前をただじゃ済まさない!」
 これが彼の精一杯の愛情表現何だろう。僕は恋心を養ったことがないので彼の気持ちは正確には分からないが、彼の言動は大切な人を守りたいという人間の本能から由来しているごく自然な行為なのは理解できた。
 彼は僕の頬を思いっきり叩き強く押し殴った。拳が強かったため僕の体重は後ろへと流れされた。線路に落下しそうな勢いだったが黄色い点字ブロックが僕の安全を確保してくれた。その後、すぐに警笛が聞こえた。ホームに倒れっぱなしの僕に向かって警告したことはすぐに分かった。僕は慌ててその場を立ち去ろうとする。その直後に貨物列車が入線してきた。もし僕が線路に落ちていたら冗談抜きに死んでいたのかもしれない。彼に対する怒りではなく点字ブロックへの感謝の方が大きかった。なんせ僕の命を救ってくれ、彼に前科を付けずに済んだのだから。
 僕は彼がこの場にいないことを目で確かめてから階段に向かう。駅員が駆け寄ってきて「大丈夫ですか」と聞かれたので、「大丈夫です」と返す。これ以上ここに居たらさっきのことを深読みされそうなので僕は駅員に一礼を交わして、早足で彼女の元へと急ぐ。
 僕は彼が使ったであろう階段とは違う階段を使った。そのおかげで色々と遠回りだったが自分の庭のように使っている名古屋駅を迷うことはなかった。僕は新幹線中央改札を目指す。
 目的地に着く直前、彼女が手を降っているのを確認できた。
「常陸君、こっち~」
 僕が先に目に付いたのは彼女の声の大きさ、ではなく、手に提げられていた大量のビニール袋だった。その中身が駅弁なのを独特な形から察する。
「半分持つよ」
「常陸君が言うなら、お言葉に甘えて持ってもらおうかな」
 彼女が差し出したビニール袋を受け取る。中身は予想通り、駅弁が入っていた。
 駅弁代だけで何円したんだ? さっきの切符といい彼女はお金持ちの家の娘なのか?
 すごい量の駅弁だったので彼女のお金の使い方に疑問が浮かぶ。
 バイトをしているのか? いや、僕の高校はバイト禁止だし……。もしかしたら大富豪系一家なのか? 不治の病だから彼女にお金を自由に使わせているのだろうか。
 僕の気が現実に戻っていた時、手に変な感覚があった。この大きさ。この手触り。慣れて浸しんだ物体は見なくても分かったが、その物体に記されていた内容は僕の予想をはるかに凌駕していた。僕は声を上げる。
「グリーン車! 岡山駅まで!」
 金色の文字で書かれていた文字には確かに明記されていた。
『名古屋→岡山 グリーン車』
 僕は彼女の求めている表情は見せずに真顔でやり過ごす。
「高校生が朝早くに岡山駅までグリーン車で行くとか頭おかしいんじゃないの?有名な精神科を紹介しようか」
 僕は冗談を交えながら話を彼女にふる。
「そのセリフ前にも聞いたからつまんない。余命一年の高校生がグリーン車に乗ったら悪いの?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
 僕は呆れた顔で彼女を見る。大きな荷物をかかえながら新幹線改札に入る光景はまさに旅のスタートにふさわしかった。電光掲示板を見上げながらホームに進む。在来線とは異なる高さに設置されたホーム。特別感を漂わせるホームドア。すべて新幹線に乗った者にだけ与えられる特権だ。
 彼女は堂々とグリーン車の列に並ぶ。いいスーツを着たサラリーマンたちに紛れこむことに僕は引け目を感じが、彼女はお構いなしだった。
 僕は近くの椅子に腰かける。僕を呼ぶ彼女の声が何度か聞こえてきたが常識のない高校生と思われたくなかったので無視した。
 本を読んでいると新幹線の接近を知らせる放送が鳴ったので僕は立つ。
 名古屋駅を始発とする下りの新幹線が朝の静寂な空気をさり気なく切り裂いて入線してきた。太陽光が真っ白なフォルムに反射する。
 ホームには新幹線の空調設備の音が響いた。ドアが開くと同時に四葉のマークを右手に眺めながら車内に入る。彼女は「一番」と言って進んだ。
 この号車には僕たち以外乗っておらず、高級感を贅沢にすることとなった。
「なんでわざわざ始発列車に乗るの?」
 これは「朝五時」と言われた時からの疑問だった。別に朝九時に出発したって余裕で間に合う。いくら彼女でも始発列車を選択したのは理由があるはずだ。
「出雲に早く行きたいから」
「どうせあっちで一泊するならこんな時間じゃなくてもいいでしょ」
「残念ながら出雲には一泊しません」
「という事は今日は日帰り?日帰り出雲なんて前代未聞だよ」
「残念ながらそれも違うな。まぁ、正解はお楽しみで」
 彼女はクイズを出す司会者みたいな口調で話した。僕は解答が導き出せなかったので心の中で諦める。
 彼女の助言により、僕たちは朝ご飯を食べることとなった。彼女は荷棚に上げていた駅弁の入ったビニール袋の中から駅弁を取り出す。僕は彼女から渡された駅弁を受け取る。
 僕たちはテーブルの上に駅弁を広げる。
「そう言えば何で君はそんなにお金持ちなの? 高校生作家ってそんなにかせげるの?」
 大きなビニール袋を見るとそんな疑問が浮かんできた。他人に金銭に関する話を聞くのは失礼だと感じていたが、どうしても答えを確かめたかった。
「確かに今度映画化するから稼げるかもしれないけど、常陸君が想像する以上にお金はもってないよ。私なんてまだまだだし……それに……」
 彼女はそういうと表情を曇らせた。
「どうせもうすぐ私は死ぬんだからお金持っててもしょうがないでしょ」
 彼女は作り笑いを浮かべた。
「私は寝るから岡山に着いたら起こしてね」
 本当に寝たのかは定かではなかったがいつもの元気さをまるで感じない寝顔だった。僕は「何でグリーン車に乗ったのに寝るの?」と突っ込みたかったが、気持ちよさそうに席を堪能している彼女に話しかける気力は湧き上がってこなかった。
 小説家だったことは素直に驚いた。いつもは雑なところもあるが、他人を考慮する精神が小説家・一ノ瀬来夏を育み、読者に感動を与える物語を世に送り出しているのだと勝手な想像をする。そのため、声には出せない感情が心に響いた。
 僕は立ち上がりデッキに向かう。列車はトラス構造が美しい橋を高速で駆け抜けている。空には雲一つなく、太陽の光がドアの窓から挨拶をしていた。
 この時、はっと思った。
『僕は彼女という存在からいろいろな物をもらった』と。
 ただただ過ごすだけの何もない日常を染め輝かせてくれたのは考えるまでもなく彼女だった。今にして思えばこの瞬間から彼女に対する評価、オモイが変わったのかもしれない。
 僕は今までの自分を大きく恨んだ。恨む根拠は不確かだった。もしかしたら僕は自分に対して引け目を感じていたのかもしれない。
 結局僕は流れる景色を眺めているだけだった。

 最高時速三百キロメートルエイチに揺られること一時間二十分。僕たちは山陽地方の大都市の一つである岡山で下車した。
 新幹線は本当に速い。車で行けば三倍以上の時間を要すると考えると人類はとんでもないアルミの塊を作ってしまったと渋々実感する。
 僕は岡山駅到着の車内放送が鳴ると彼女を起こすため席に戻った。彼女は想像していたよりも寝ていて、これはもう爆睡と呼んでもいいのかもしれない。僕が起こそうと試みたときも「お母さん、今は夏休みだからまだいいでしょ」と寝ぼけていた。確かに夏休みだけどね……。
 この発言から彼女の私生活態度が安易に想像できる。起こしたのが僕だと気付いた彼女は「今のは絶対に忘れて」と前言撤回を求めた。もちろん僕は保存する。そしてスマートフォンで護身用に彼女の寝顔を撮ったことは言わない。
 僕たちは都会に近づく景色に乗り越しの危機感を抱きながら身支度を整える。
 ドアチャイムが鳴り、音を立ててドアが開くと新鮮な空気が流れてきた。地元とは違う空気、まるでワープしたみたいだ。
「岡山に初上陸!」
 彼女はジャンプをして降り立った。僕も地面をかみしめながら歩く。
「ホームに降り立ったぐらいで上陸とは言わないでしょ」
「まぁ固いことは言わずに気軽に楽しもうよ」
 僕たちは人の流れをかき分けながら階段を下りる。
 岡山での観光はせずにそのまま目的地へと足を運んだ。出雲に向かう特急もなぜかグリーン車だった。
 特急列車の中でもハイテンションな彼女についていくだけで僕は精一杯だった。
「朝早いのに何で君は元気なの?僕はあくびが絶えないよ」
「君が静かすぎるの。私みたいにうきうきしないと損だよ」
「グリーン車で寝ているブルジョワさんに言われても説得力ゼロだよ。安らぐはずの移動が神経をつかったせいで疲れたよ」
 出雲市行きの特急列車は山間部を勢いよく貫いた。車窓は都会の景観から緑と清らかな川へと変わる。途中、カーブのせいで肩が触れ合ったことがあったが僕は気にしない。僕とは正反対に彼女は結構動揺し、顔を赤くしていた。
 大垣駅を発って六時間、出雲市駅に着いた。速さと壮大な風景が楽しかったため、時間の長さは割と感じなかった。僕たちは記念に切符をもらい、北側の駅舎を望んだ。北側の駅舎は出雲大社をイメージしている。
「出雲は小二の夏休み以来だな」
 唐突に彼女は呟き、目を輝かせる。僕も出雲を訪れるのは久しぶりだった。久しぶりといっても毎年訪れているので彼女ほどの感動の渦には巻きこまれなかった。
「岡山には下りたことないのに出雲に行ったことはあるんだ」
 彼女の会話の文脈から一つの矛盾を見つける。基本的に出雲に列車で行く場合は今日のように新幹線と特急列車を使うのが一般的だ。飛行機で行くのなら話は別だが鉄道好きの彼女にとっては前者が最良策であろう。ちなみに僕は前者だ。
「小学二年生の時に往復サンライズで行ったから岡山には下りなかったわけ。降りようと思ったけど睡魔には勝てなかった」
 サンライズ出雲は東京出雲市間を走るので、新幹線とは違い岡山で降りずに出雲に来たのにも納得がいった。
 彼女は頭を掻きながら笑顔で言う。僕は彼女の意見に納得する。
 続いて彼女は提案をしてきた。一般の人から見れば特に違和感もない内容。しかし、車内での彼女の食生活を見ていた僕にとってそれは目を疑う内容だった。
「常陸君は出雲そばと割子そばのどっちがいい?」
「女子に聞くのは失礼だけど、君の胃袋はブラックホールなの」
「それを女子に聞くの禁止! 本当に常陸君は乙心を分かってないんだから」
改札の前にある「出雲そば」という暖簾がかかっている蕎麦屋さんに入った。近くのボックス席に座る。天ぷらそばを頼んだが食べきれるかが心配だった。
「食事制限はないの?」
 僕は頭に浮かんだ疑問を素直に彼女に投げかける。
「病気が判明した時は食事制限があったよ。そのせいでストレスがたまった時期もあったよ。でも今は医学の進歩のおかげで一定の言葉を吞み、通院を二週間に一回行けば全く問題ないよ」
 彼女は何事もなくさらっと言う。もう一つ彼女に聞きたかった事を聞く。
「君はなんで僕と旅行に行きたいと思ったの?」
「常陸君は何で旅行に誘われたと思う?」
 一番嫌な返しで返された。自分に興味がない僕にとってそれは死語を意味していた。特に深く意味を考える事も無く「分からない」と答えた。
 彼女は「秘密」と言った。僕の彼女への興味はこの食事中だけ続いた。
「早く食べて行こうよ。時間は無限じゃなくて有限なんだからさ」
「君が食べるのが早いんだよ」
 僕は彼女のスピードに対抗するかのように蕎麦を口にかきこんだ。
「常陸君早く!」
「うん」
 最後の一口が胃に落ちる。水を流し込み、のれんをくぐった。
 食事終了後、僕たちは観光客らしい行動をとった。一応、観光客だが周りから見れば田舎から出てきた恋人に見えたのかもしれないが、僕は(病気を知っている)クラスメイトを貫く。
 駅の北側の大きな交差点が青に変わると彼女は僕の手をひいて走り出した。彼女の足は思いのほか速かったので、僕は足並みを揃えるのに必死だった。
 彼女は出雲のパンフレットを見ると急停車した。どうやら方向を間違えたらいい。彼女は駅の方向に逆戻りをした。僕は彼女に続き、一畑電鉄の出雲市駅へと足を運んだ。
 駅構内の券売機で買った切符で改札を抜ける。
 電車が来るまでの途中、彼女は僕の恋について、特に初恋についてしつこく聞いてきた。初恋をしたことがある僕が言うのもなんだが、恋というのは私生活を乱し、堅実さを失う愚かな行為だ。
 彼女は僕の解釈を聞くなり「真面目過ぎ」と笑った。
 列車に乗ること二十分。出雲名物の出雲大社に着いた。
 参道を歩いていると、腕組みをしている男女が点在していた。
「私たちってカップルに見られているのかな」
「多分周りの雰囲気から考えると高校生のリア充がいちゃついているって思われているんじゃない」
「常陸君は私と付き合っていると思われて嫌じゃないの?」
「実際付き合っていないから僕は全く気にしないし嫌じゃないよ。君と出かけるのは案外楽しいから……」
 彼女は大きな松の木の下で立ち止まった。彼女の顔が陰でよく見えなかったので表情を確認することができなかった。
 彼女の発言に思わず耳を疑う。
「もし、もしもだよ……私が君に付き合って言ったらどうする?」
 時が止まり、二人だけの時間が流れる。僕の瞳には彼女という存在以外が全て白黒に見えた。これは決して病気でない。さらに付け足すと恋の病でもない。
 混乱していると僕の脳裏に一つの文がよぎった。
 これも彼女の死ぬまでにやりたい事の一つなのではないかと。冗談で言っているのか、はたまた本気で伝えたのかは一ナノメートルも分からなかった。僕はこれを念頭におき、彼女に対して解釈を始める。
「付き合うわけないだろ。第一、本心で言ってるの? 僕は死ぬまでにやりたい事の一つかと思ったよ」
「そうだよね。これも死ぬまでにやりたい事一つ。ごねんね、真剣な空気になっちゃって」
 彼女は一人で大しめ縄に向かって走りだした。かすかに彼女の目が光ったのを確認できた。気のせいかもしれない、いや、気のせいだ。気のせいに違いない。僕は自分を正当化した。
「大凶。最悪だよ。これは君と出会ったせいだね」
 おみくじを引いた僕は思わず内容に絶句してしまった。
「私は大吉。これは常陸君と出会ったからだね」
 彼女は笑顔でこちらを覗いてくるが僕は反応しない。
 僕たちの周りには恋人同士の関係と思える人達が点在していた。
「恋愛の所にはなんてかいてある?」
「あなたの恋は積極的にアタックしないと実らない」
 僕は投げ捨てるように言う。

「アッハハハハハハ! まさにその通りで常陸君の言動と一致してるじゃん。友達や彼女を作りたかったら自分からアクションを起こさないと実らないよ」
「君が言うと説得力が落ちて、発言の劣化が進むよ」
「私のこと説得力がないってバカにしているけど彼氏いたことあるんだよ。どんな人か知りたい?」
「心の底から知りたくないね」
「そんな常陸君には特別に教えてあげます」
「僕は一言も知りたいとは口にしてないよ」
 彼女は僕の意思に反して口を開き始める。
「ヒントを教えるから分かったら答えてね。ヒントその一、君よりイケメン。ヒントその二、君より運動ができる。ヒントその三、君より顔が広い。ヒント四、クラスメイト」
「何で僕と比較するのかは分からないけど。僕と正反対でいい人間なのは分かったよ」
「真面目に考えてよ。こういう時だけ正論で反発するだから」
「僕はいつも正論しか言わないよ」
「じゃあ最後のヒントね。……常陸君の方が優しいかな……」
 他人から優しいという評価をもらったのは嬉しかった。しかし、心の感情を表に表すことはなかった。
「君のヒントは大雑把で選択肢が広すぎるせいで、僕の脳では予想すらできないよ。そもそも
クラスメイトの名前すら把握してないから棄権で」
「前から思ってけど君は自己評価が低すぎるよ。いいところもたくさんあるんだからもっと積極的な姿勢に変えないと友達なんてできず、私との約束を守れないよ。もし私との約束を守らなかったら君の血液を全部いただくからね」
 約束して以来、初めて思い出した約束。それは宿題の名が付いた彼女が死ぬまでに僕が友達をたくさん作らなければいけないという無理難題だった。そもそも僕にはたくさんの友達が必要と語る一般学生の思考がいまだに理解できない。自分の時間を削ってまで一緒にいる存在が友達と呼んでいいかは不明だった。なので、僕には友達の必要意義や存在価値を提出者の彼女に確かめる必要性が生じた。
「君にとっての友達とは何なの?」
 簡単で実は難しい質問。僕がもしも彼女の立場だったらそんな印象を受ける。日々の時間を過ごすことが多い存在だが、友達が少ない僕にとってはよくわからなかった。
「そうだねー。しいて言うなら、友達とは自分にないものや欠点を補ってくれる存在かな。完璧な人間なんて存在しない。勉強を必死で教えてくれる友達がいるからテストでいい結果が出せて『ありがとう』と言える。一緒に食事をする友達がいるから『おいしい』と言える。自分が落ち込んでいる時に励ましてくれる友達がいるから立ち直れる。そして、何より友達がいることで明るくなれる。時に友達の理不尽や悲しみを共有しないといけないかもしれない、でもそれは友達を大切にしている証拠なの。苦しいときほど親のように寄り添ってくれるのが本当の友達。容姿やお金が目的で近寄ってくる人もいるけど、それは表面状の友達に過ぎない。いわいる条約みたいなものね。紙に印鑑と署名をしただけだから大した根拠もなく信用し、簡単に裏切られてその存在が黒歴史や過去のものとなる。私も経験しているからこれだけは言える。友達とは相手を信頼し、自分を良い方向へと導いてくれる存在。私はそう定義付けている。自分の良い所だけを認めてくれるだけの友達なんて友達なんかじゃない。悪い事や良い事などを正当に評価してくれるのが友達なの。それが発展していくと親友、恋人になるの。今の話を聞いて分かったと思うけど、友達とは互いの知らない間に友達という関係に発展していく。だから常陸君には友達は友達でも本当の友達をたくさん作ってほしいな」
 彼女の言葉は僕の脳内に焼き付いた。
 友達。何気なく学生たちが使っているこの言葉の本質、重みを感じた。彼女の話を再生していると僕の思考の欠点を見つけた。物事を見る時、僕はいつも一定の方向しかおらず多角的な視点を持てていなかった。
 確かにそうだった。友達や恋人をバカにした時も失うものしか考えておらず本質を見過ごしていた。友達を作るとこによって貴重な時間を失うデメリットがある。しかし、大きなメリットがあることを今発見した。それは今話すと長くなるので心の中にとどめておこう。
「って、友達がいない私が言っても説得力に欠けるか。今の発言は撤回で」
 彼女は先ほどの自分の濁すように笑った。
 そして、僕は彼女にもう一つ聞きたいことがあった。彼女の回答によって今後の自分の人生に大きな変化が生じると確信した。
「恋人と友達の境界線は何?」
 彼女が何気なく僕との日常会話で話題に出す恋についてだった。僕は恋愛コンサルタントにお金を払って相談しているような感覚に見舞われた。彼女は笑うことなく僕のつぶやきに耳を傾けてくれた。
「私はね常陸君。心を隠すことなく接する関係までに発達したら自然と恋人になると思うの。人には必ず弱い部分がある。でも、人はそれを見せるのが怖い。嫌われたらどうしようという一心で必死に隠そうとするの。吐露できる相手がいる、受け止めてくれる相手がいる、自分の弱い所も含めてありのままの自分を認めてくれる関係。それが恋人関係かな」
 彼女は柔らかく微笑んだ。
「君の言葉を深く刻みこんでおくよ」
 僕は彼女の話を否定したり、嘲笑したり、バカにすることはなかった。
「私が死ぬまでに友達を見せてよね。絶対に……。君には私にはできなかった友達を作ってほしいからさ……」
 ふと僕は心配をした。それは今の彼女の話と彼女の現状からだった。
 彼女の余命は短い。だから、時間がない。こうして彼女と日常的に話している問彼女が不治の病を抱える高校生ということを忘れてしまう。彼女は僕とは違い、死の道を何倍もの速度で歩んでいるんだ。彼女がふと呟いた「時間は有限」の意味がようやく分かった。
「約束する」
 根拠は全くなかったがここで嘘をつくことは模範回答だと思った。
 僕たちは互いの小指を絡め合った。神さまには「どうか彼女が長生きできますように」とお願いをし、彼女には約束を誓った。
 彼女は何を祈ったのだろうか?



 僕はガイドと化した彼女に従い、散策をした。夕方に訪れたら夕日で美しい宍道湖に昼に訪れ、そばを食べ、パンを食べ、出雲市駅に戻った後、彼女だけがまたそばを食した。
「いくらなんでも食べすぎじゃない。そんなにたくさん食べると太……」
「太……」とまで言いかけた所で彼女は僕の口を箸で抑える。言いかけた「太る」というワードが女子に対して反感を買う材料だというのを僕は知らない。
「はい常陸君そこまで。女子に太るとか言うと核爆弾を落とされるよ。本当にデリカシーがないんだから」
「僕に女子の気持ちを察するなんてアラビア語の通訳より難しいよ」
「アッハハハハハ! アラビア語と比較するなんて常陸君はやっぱり面白いね」
 彼女は笑いのツボに入ったのかしばらく右手に箸を持ちながらお腹を抱えていた。僕には面白さが一ピコメートルも理解できなった。
「君は、本は本でも恋愛小説を読んで恋の勉強をしなさい。今度イチ押しの本貸してあげるから」
 彼女は僕に恋愛本を勧めてきた。確かに前回読んだ彼女の恋愛小説に少しばかりの面白さは感じたがそれでも自らの意思で読みたいとは思わない。
「結構だよ。恋愛なんて毛ほどの興味もないから」
 僕が説明をしている途中で彼女は駅構内のコンビニへ向かっていた。人の話は最後まで聞けよと思いながら彼女の後を追った。僕も彼女に続くように店内に入る。中にはスーツケースを持った家族客や大きな一眼レフを抱えた鉄道マニアであふれていた。彼女はというとコンビニで商品を選別していた。また何か食べるのか……呆れ半分、心配半分の気持ちに見舞われた僕は黙って彼女の買い物を見守る。
 彼女に見守りにも飽きた頃、僕はコンコースの待合室でスーツケースを携えていた旅行者たちと共にテレビを見ていた。テレビからは同級生間での殺人事件があったという普通の人から見たら心痛ましいニュースが流れていた。僕は他人の人生なんかどうでもよかったので無感情で画面を見ていた。
 時間が進むにつれ待合室内の人口密度が大きくなっていた。
 僕は勝手な予想を立てる。
 窓から見える電光掲示板には日本で唯一の寝台特急の案内が赤文字で記されていた。僕は利用者をうらやましがる。
 彼女がすたすたと僕の元に接近してきた。手には恒例の買い物袋が提げられていた。
「ずっと気になってきたんだけど、今日はどこで一晩を明かすつもりなの? まさか……地獄の夜行バスで帰るつもりじゃないよね?」
「ふっふっふっふ」
 彼女気味の悪い声を発した。彼女といたから僕には理解できた。彼女は何か企んでいる。きっと僕が驚愕するような。
 僕は彼女の作戦には乗らないぞと固く口をしめる。
「これが今日のホテルです」
 彼女はハイテンションのまま長方形の紙を取り出した。彼女はそれをわざと裏向きで見せたが僕はその正体をあっさり見抜けた。切符だった。それも寝台特急『サンライズ出雲』の……。
「サンライズ出雲に乗って東京に向かいます。実は切符が一枚しか取れなかったから同じ部屋だよ」
 高校生の男女が同じ部屋で夜を明かすというのに彼女はどこか乗り気だった。僕はというともしそれが現実として訪れるなら絶句しかなかった。
「冗談じゃない。君と同じ部屋で過ごしたこというバカげた理由で裁判所に行きたくないよ」
「はっは、冗談だよ、冗談。ちゃんと常陸君の部屋も用意してあるから安心して。常陸君は何でも本気にするんだから。そんなんじゃ若い女の子に騙されちゃうよ」
「すでに君という若い女の子に騙されたせいで僕は今ここにいる」
 笑いながら彼女が僕の発言を受け取るとともにもう一枚の切符を出した。僕はほっと安堵の息を吞む。
「出発まで時間があるんだし、買い物にでもいきますか」
 また買うのと突っ込みたかったが「乙女心を分かっていない」と指摘されるのは明白だったので無言でやり通す。
「この袋持つよ」
 レジ台の上に乗った買い物袋を僕は持った。運動を捨てている僕にとってこれは腕に堪える。
 レジで支払いをしている彼女は「Thank you」と申した。
「やっと乙女心を掴んできたね」
「お金をすべて君に払ってもらっているせめてもの感謝だよ」
 僕は濁して返す。
 僕たちはそのまま改札に向かった。電光掲示版付近に威風堂々とした佇まいで君臨している
 アナログ時計。蛍光色の短針、長針が刻一刻と出発時刻に迫っていた。駅員さん乗車券を見せると耳を疑う発言をされた。
「カップルで寝台列車に乗るのかい?」
 出雲市→東京の切符を見せただけなのに駅員はすべてを理解していた。流石ベテラン、と全てを肯定したかったが一つだけ否定する。
「決してカップルではありません。(病気を知っている)ただクラスメイトです」
 僕の発言に疑問を浮かべる駅員。彼女は口を膨らませていた。どうやら怒っているらしい。
 彼女が一向に怒ったままなので僕が先の目的地への第一歩を歩みだすと、彼女は「待って」と言いながら追いかけてきた。僕たちは途中から足並みをそろえる。

 高架のホームに充満する毒性のない煙の臭い。西の空はかすかにオレンジ色を帯び、夜に入る体制をとっていた。
 電光掲示板にはすべてを下等扱いするかのような「寝台特急」の文字。一心乱れぬ乗車の列が僕の高揚感に拍車をかける。
 出発の四分前、列車の接近放送と共に入線してきた列車は鋭いブレーキ音を立てて停車する。赤とクリーム色の車体は他の列車をはねのけるかのような佇まいをしていた。 
 僕が乗り込もうとすると彼女は僕の手を引っ張り先頭部分に向かった。彼女は何故か外国人に写真を撮るよう頼む。
「Could you take our a picture?」
 シャッター音が二回ほど響くと、今度は相手の写真を彼女は撮る。 
 すべてのやり取りを英語で対応する姿に少しばかりの感動と憧れを寄せた。
 別れの挨拶を外国人に述べると、彼女は初めて乗った子供のように目をあちこちに移動させていた。僕は指定された号車に一人で向かう。車内は狭いため他客と道を譲り合うなんて日常茶飯事だ。
「よくこんな高い部屋、シングルデラックスを抑えれたね」
 サンライズの中で一番値段が高い部屋がこのシングルデラックスだ。僕みたいない一般高校生は乗れないような代物だが、一般高校生ではない彼女なら納得ができた。
「乗るなら高級車がいいし、最期かもしれないからね。死ぬまでに乗ってみたかったんだよね」
 他の号車とは違う少しばかりリッチな廊下を歩いていたら目的の部屋を見つけたため、狭い階段を上る。一人になれる開放感を求めてドアを開けかけたとき、向かいの部屋から彼女の戸惑いの声が鼓膜を震わせた。僕はベッドの上に荷物を放り投げ、回れ右をする。向かいの部屋、彼女の部屋には近くの蛍光灯で作られた影が一つではなく二つあった。
「常陸君、重大事件がおきちゃったよ」
 彼女は声を震わせる。彼女の隙間から影の正体を求めて僕は目を皿にする。そこには僕と同じくらいの身長を携えていた女性の姿があった。この部屋にいる全員の困った表情が浮き彫りとなっている。僕は小さな脳みそと鉄道知識を紐付けて、謎を解き明かすよう試みる。
「二重発券じゃない」
 知らないうち出発していた列車のポイントを括る音が彼女の答えを引き立てていた。僕は心の中で彼女に共感する。
 二重発券とは同じ席の切符が二枚発行される現象を指す。当たり前だが同じ区間で同じ席を販売することはできない。しかし、機械の同時刻発券などによって極まれに起こるのだ。今回はこの現象が起きていた。
 僕はこの中の代表として車掌に説明しに走った。
 車掌は納得よりも謝罪の意を示した。「こっちのミスです」と頭を下げ続けた。謝るのはいいけれど、この問題は根本的にどう解決するのだろうか。不安だけが心に積もる。もしかしたら……。
 僕は最悪の事態まで想定する。
「他の席は空いていないんですか?」
「申し上げにくいのですが、今回は全区間満席でして」
 車掌は再び帽子を取って深く頭を下げる。はげた脳天があらわになる。
 重い空気が充満する。
 この空気をどう処理すればいいのだろうか?僕は頭をひねった。
「僕の席を君に譲るよ。僕はデッキにでも立ってるよ」
「えー!」
 意外にも僕がこの空気をぶち破った。
 三人が阿吽の呼吸で口を開く。ここでの君とは彼女を指す。
 僕はいたって真顔だったが彼らの顔は正反対だ。
「お客様を一晩中立たせるというわけには……」
「そうよ。この子が一晩中立っていたら安眠できないわ」
 少しきつめの表情を女性はあらわにする。
 最高の打開策だと思っていたのは僕だけだった。
 万事急須の状態が近い中、僕が脳内の情報網を繕っていると、待っていたかのようなタイミングで彼女が発言してきた。今日ばかりは反論精神を失う。
「私たち一緒に寝ます! いや違う ……その……一緒の部屋で大丈夫です」
 視線が集まった先は彼女ではなく僕だった。何故かって? それはいたって単純だ。彼女が僕を指差しているからだ。
「いや、しかし、お二人は……」
 彼女は僕の腕を無理やり組んできた。僕の体温が上昇する。
「恋人です。現在進行形で」
「そうですか、ならそういうことでお願いします」
 そういうことってどういうこと
「恋人なら大丈夫よね」
 恋人じゃないし、大丈夫じゃないよ!
 この二人に大嘘をついて、問題は解決したのか? 一応、表面上では解決したが、この後についての課題が僕の頭を埋め尽くす。
 車掌は切符代とアメニティを両者に渡し、逃げるようにこの場を去る。
 女性はほっと胸をなでおろしていた。
「良い夜を」
 女性は僕たちが恋人と完全に勘違いしたままドアを閉めた。僕たちは(病気を知っている)クラスメイトに過ぎないという事実を伝えようとするが、彼女が僕の服を引っ張り部屋に入れられた。
「一緒のベッドだね」
 彼女は嬉しそうな表情で僕を見るが、僕は彼女と正反対の気持ちでいた。
「ばかじゃないの。僕は少し汚いけどカーペットで寝るよ。同じベッドで寝るのは普通に嫌だし、黒歴史として僕の心に一生残るからね」
 列車は並走する外灯を勢いよく抜けていた。
 僕は状況を理解しようと必死になる。
 今、この部屋には男子である僕と女子である彼女がいる。密室に高校生の男女が二人。ラブコメだったらいい展開かもしれないが、僕は嫌な予感が起こる気がした。そう、いやな予感が……それは今日に限ったことではない。
 僕は悪くない……全ては発券ミスのせい……彼女は僕の動揺に全く気をつかわず、爆弾発言
をしてきた。僕は動揺を彼女に煽られないように声でおおう。
「一緒にシャワー浴びようよ」
 僕の思考回路は彼女の発言によって狂いかけていた。
「君は毎度、毎度爆弾発言するけど、女子としての威厳はないの」
「冗談、冗談。常陸君は何でも本気にするから面白いな。じゃあ私は本当にシャワーに行ってきます。覗いたらだめ。まあ、覗きたくても覗けないけど。あと私のカバンの中に下着が入っているから覗いたらだめだよ」
 彼女の発言には常にといいほど余計な一言が加わっていた。
「君はジョークで言っているのかそれとも本気で言っているの?」
 彼女は僕の質問にも答えずに廊下に出ていったしまった。
 列車はさらにスピードをあげ、左手に宍道湖を眺めながら薄いオレンジ色に染まった景色を貫く。
 僕は室内にある椅子に身を預け、カバンの中から読みかけの推理小説を取り出す。
 読んでいる途中に先ほどの車掌が検札に来た。もう一度、申し訳なさそうに頭を下げる。薄い頭が室内灯を反射する。こんな頭を見せつけられるとこちらに非があったのかと思ってしまう
 少し恐縮した態度で新しい椅子を受け取った。
 何故、椅子を渡したのかはこの時までは全くわからなかったが、断る理由もなかったので僕は躊躇なくいただく。
 今読んでいる本はこの列車が舞台に描かれていた殺人事件の物語であった。事件の内容は恋人を取られた嫉妬から殺すという典型的なパターンであった。あれだけ恋愛小説を読まないと豪語していたのにも関わらず、僕は恋愛が混じったこの物語にのめりこんでいた。自分で言うのは何だが矛盾していた。どっちが正しいのかと聞かれると恋愛小説は絶対に読まないという解答の方が近い気がした。
 自問自答していると勢いよくドアが開いた。顔を見なくてもわかるもう一人の住人だ。あいにくドア付近に座っていたおり、内開きドアという事を把握していなかったため、ベッドに倒れこむ形となってしまった。それも最悪の形で……。
 話の話題をベッドから何に変えようかと考える。もしベッドの話題を深堀しでもされたら逃げ道がなくなると確信しているからだ。
「風呂ずいぶん長かったね」
「そう? 実はさっきシャワーの順番待ちの時にイケメンな男性からナンパされたの『今夜一緒に話さない?』って聞かれたんだけど、彼氏がいるって断った」
「まさか、その彼氏は僕という事になってるの?」
「すっご! 何でわかるの?」
「君の性格と今までの言動から推理したんだよ」
「流石。だてに推理小説を読み込んでいるだけあるね」
 とりあえずベッドの件という火種に触れなかった事に安心する。今日一日走りまわったせいで汗が服と皮膚にくっついていたため、僕もシャワーを浴びことにした。
 髪の毛一本も残さずに乾かした状態で僕は部屋に戻った。机の上には先ほど買った商品が所狭しと置いてあった。お菓子やジュースが多く、どれだけ食べれば気が済むのだと突っ込みたくなった。
 列車は美しい水面が輝く宍道湖をとっくに過ぎており、中国山地を縦に貫いていた。部屋の電気を消せば満点の星空が情景を彩っている。
「常陸君ゲームしようよ」
 外の景色に心を奪われていると彼女が僕の余韻を奪ってきた。僕は嫌な予感を心に覚えながら彼女に体を向ける。
「あいにく僕は電子機器には興味なくて」
「そっちのゲームじゃなくて……」
 僕は理解した。彼女が今からしようとしているのは娯楽のゲームではない。通常、ゲームは疲れた心身を癒したりストレス発散のために行う。しかし、僕が今から突入しようとしているのはストレスをため、疲労蓄積を促進するものだと確信する。
「ゲームっていっても単純。互いに質問をし合いっこする。ただし、質問を拒否したら命令に従わなければならない。OK?」
「OKじゃないけどやるよ。どうせやらないと終点まで寝かせてくれないんでしょ」
「乗り気だね。どうせ断ると思ったから、さっきのベッドに倒れこんで私を誘惑しようとしていた写真をクラス内にばらまこうと思ったのに」
「毎度ながら君はネットニュースみたいな切り取りをするよね。僕は君とは違って清廉潔白で紳士だから」
「えーひどい。私は淑女です」
 彼女は近くにあったポテトチップスの袋を勢いよく開けた。乾いた開封音が僕たちの間に走る。次いで炭酸飲料を勢いよくコップに注いだ。こぼれるギリギリまで入れるあたり彼女の性格が大きくでている。
「早速始めよう。まずは私からね……私の体重を当てて」
「それ質問じゃないじゃん」
「君が私にどれくらい興味があるか図りたかったの」
「百キログラム」
「ぶっぶー。もっと真面目に答えてよ」
「君の体重なんていちいち覚えてないよ。恋人じゃあるまいし」
「今は恋人じゃん」
 彼女は楽しそうに恋人という言葉を口にする。
「それは部屋を譲るための口実で、僕は一瞬たりとも君を性愛の対象として認識してないよ」
 彼女は紙コップに飲み物を入れイッキ飲みをした。風呂上がりのオッサンがビールを飲みほした後の声を彼女も出す。
「質問ね。常陸君は好きな人いる?現在進行形で」
「いない」
「君の好きな作家は?もちろん自分以外で」
「え! そんなんでいいの?下着くらいは見せる覚悟だったのに」
「毎度ながら、僕の品位を下げる発言をしないでくれる」
「ごめん、ごめん。私の好きな作家は那須川翠石。独特な考え方が面白い」
「常陸君の好きな女性像は?」
「僕は人を見た目で判断しないよ」
「そういんじゃなくて、私みたいな美人好きだとか巨乳が好きだとか……ちなみに私はDだから」
「Dって何?」
「胸のサイズ」
「毎度ながら紳士である僕に性の教育をするのはやめてくれる」
「男子なら喜んでくれると思ったのに……つまんないの……で、君の好きな見た目は?」
彼女は胸の話からいきなり転換してきた。僕は溜息を発言に混ぜながら答える。
「しいて言うなら静かで落ち着いた人がいいかな……君とは百八十度反対の……」
「それ私の前で言う! ちょっとショック」
「君の好きな場所は?」
「常陸君の横」
「……」
「常陸君はロングヘアー派?それともショートヘアー派?」
「どっちかっていうとショートヘアー派かな」
「君が目指したい理想の女性像は?」
「巨乳で落ち着いている人!」
「常陸君は初恋の人が今でも好き?」
「よく分からない。でも自分の気持ちに嘘だけは絶対につきたくない」
 何分ほど口を開けていただろうか。僕の喉は砂漠と化していた。喋ると喉が渇く事実を久しぶりに体感した。僕たちは最後の質問に入る。
「夜も遅いし最後ね」
 時刻は零時近くを指していた。沿線の光はまだ起床していたが車内の大半は寝静まっていた。
「自殺しようと思ったことはないの?」
 一人ベッドで寝転がり、目をつぶっていたので寝たかと思ったが、彼女は淡々と語り始める。
 それはまるで原稿を読んでいる声優のようだった。
「病気って言われてから数週間は毎日思ったよ。親は私に対して過剰に神経質になるから余計にね。始めは学校の友達に言おうと思ったけど、親みたいな態度を取られたら血液じゃなくて、私の心が先に死んじゃうと思ったからやめたの。こんなことを考えていたら自殺したいなんて馬鹿しい気持ちはなくなった。今は君と楽しい日々が過ごせているから自殺しようとは全く思わない」
「君は死ぬのが怖くないの?」
「初めは怖かったよ。もう目をあける事がないんだろうか。もう人の体温を感じる事ができないんじゃないか。そんな恐怖と戦う毎日だったの。でも人の死についての小説を書いている内に私の死はもしかしたら誰かのスタートラインを作れるんじゃないか思ってさ」
「スタートライン?」
「大半の人は病気になったら病気で死ぬ事を人生のゴール地点にしてると思うの。でももし私と同じ病気で苦しむ人がいて、私の死から病気の治療法が確立されるなら喜んで死を受け入れるよ。私は思い残す事は有るにはあるけど、私以上に人生を謳歌したい病気の人はたくさんいると思うの。だから私はそんな人たちに新たな羽ばたくためのスタートラインを提供するお手伝いができるのなら喜んで死を受け入れる。泣いても喚いても私の病気は治らない。だから今、私ができる精一杯を私はやるんだ。私の人生のゴールが他の人のスタートラインと繋がってほしいな」
「君はお人よしすぎるよ」
 彼女は体を重そうに引きずってベッドの上に再度寝転がる。両手を翼のように広げ、目を閉じている姿はとても大病を患っているとは到底思えなかった。そんな彼女の姿を一瞬見ると、まるでアイコンタクトしたかのように反応するがすぐ閉じる。
「……」
「……」
 彼女は少しの間を置いた後口を開く。僕と彼女は背中を合わせる。決してお互いは見ない。
「じゃあ、私の質問ね」
 ゆっくりと頷く。僕は背中で彼女の言葉を吸収する。
「もし……もし、私が『生きたい』。『生きて』常陸君と楽しい事をもっとしたいって言ったら君はどうするの」
 僕の時計は戻り、彼女が普通の女子高校生ではないことを再認識した。
 そうだ、彼女は病気なんだ。
 同時に僕は思う……。何で彼女が病気になったんだと……。
 彼女はこれから、卒業、大学、仕事、結婚……死と順調な人生を歩む計画だったと思う。しかし、そんな順風満帆の未来計画も大病という壁によって終わりを告げられたのであろう。もしかしたら、病気が人生の足枷として生きる意義を失ってしまったかもしれない。前世でも現世でも罪を犯しておらず、僕とは違ってただただ毎日を誠実に生きてきた彼女がなんで……。
 自分の中で、答えという答えを見つけることはできなかった。もし、僕の真実の答えを見つけてしまったら彼女を苦しめてしまう。僕の脳内では悪い未来だけが連鎖していく。
 僕は一言だけ彼女に返す。
「……ごめん……分からない……」
 静寂が走ることを覚悟していたが、彼女は僕の解答滞りなく返す。
「常陸君もベッドで休みなさい」
 いつもなら反論していた僕だが、体が僕を自然とベッドに運んだ。彼女とは背を向け合った状態で一枚の布団を共有した。彼女の呼吸、心拍が背中を通して伝わってきたが、僕はそれどころじゃなかった。先ほどの彼女の質問を自然と考えてしまう自分がいた。
 目をつぶって寝ようと試みるが僕は眠ることができなかった。駅を通過するたびに目を彩る光が美しかった。



 翌日、目が覚める。翌日と言っても朝の二時近く。結局僕はその後、眠ってしまったらしい。普通なら時計の時刻を半開きの目で確認して再び眠りにつくのだが、響き渡る音が僕を起床へと追いやった。
 僕は重い体に鞭を打って音源を探る。
「常陸君起こしちゃった?」
 彼女は椅子に座りパソコンを打っていた。昨日の終わり方がああだったので僕は彼女と目が合わせずらかったが彼女は全く気にしていなかった。僕は平常心を装う。
「こんな早くから何してるの?」
「寝られなかったから小説を書いてたの。君と一緒でドキドキしたから」
 彼女は片手を椅子の背に回す。
「毎度ながら、僕の品位を下げる言動は慎んでくれない」
 テーブルの上には最新機種のノートパソコンがあった。彼女のタイピングは一定のリズムを刻む。近くに寄って見てみるとものすごい勢いで手が動いており、画面には次々と変換される文字たちが規則正しく整列していた。
「何の話を書いてるの?」
 画面の文字だけでは到底判断できないので疑問を投げかける。僕の予想は恋愛小説だ。
「遺作を書いてるの。遺作の名前は『君は僕を染め輝かす』。私のような不治の病に侵された少女が恋をする話なの」
 遺作という言葉が彼女の死を結び付けてしまう。彼女はもうすぐ死んでしまうのか。
 予想は的中していた。私のようなという何気ない発言に引っかかった。まさか僕の事を書いているのか? と考えるがそれをかき消すかのように彼女が口を開く。
「今、半分ぐらい書いたとこなの……死ぬまでに書き切れるかな」
 ふと、彼女の手が止まる。何かを思い出したかのように立ち上がる。机の横に無造作におかれている菓子とペットボトルを持って廊下に向かう。
「常陸君ロビー行こうよ。今の時間は誰もいないからさ……」
 僕は眠りたいという欲求に逆らい彼女の後に続く。
「うん。分かった」
 僕は短い言葉で返した。
 僕は乱れた服装を整え、部屋には常夜灯だけを残す。小さな階段を下る。
 ロビーに向かう途中、大きな窓を眺めながら歩くとそこには見慣れた光景が広がっていた。時刻的にも地元、大垣付近を走行しているということを念頭に置きながら景色にひたる。
 彼女が夜中にも関わらず僕を促すための迷惑な音量の声を発したていたが、注意する気力に睡眠不足は勝らなかった。
 体が慣れてきたのか目的地であるロビーに到着するころにはだるさや疲労は過去のものへと変貌していた。
 彼女の言った通りに周りには誰もおらず閑散としていた。ただひたすらに鳴り響くモーター音が僕たちの会話を疎遠した。
「常陸君は小学二年生の時のこの時間くらいに初恋の女の子と出会ったんだよね」
「そうだけど……」
 少し暗い表情の彼女。その表情を町の明かりがスポットライトとして照らす。
「何か思い出せない?」
 彼女は何かを期待していた。僕はあたりを見回す。
 響き渡るモーター音。薄暗い光が灯るロビー。不気味な音を奏でる自販……僕は何も思い出せなかった。
 彼女は初恋の記憶を僕に求めているのだろうか?僕は曖昧な返事で初恋のことは隠す。僕は素直じゃない。
「別に何も……」
 会話は硬直した。駅中の蛍光灯が僕たちの髪を光らせる。
 僕たちは列車が左右に大きく揺れたため、僕が彼女に対して壁ドンをする形となってしまった。僕も彼女も決して離れようとはしなかった。
「実は私、君に言わなければいけないことがあるの……」
「え!」
 突然、彼女の透き通った声が鼓膜をゆすったので、僕は動揺を口で表現してしまった。彼女は大きく息を吸う。
「私と常陸君は……」
 この後の文は、モーターの音とすれ違った貨物列車の通過音によって僕には届かなかった。
 僕は迷った。内容をもう一度聞くかどうか……。
 しかし、僕は内に秘めた。聞きたいという希望を意志として表に出すことはなかった。きっと彼女も届いてなかったのを分かっているのだろう。もし聞いたらこれからの彼女との関係という名の歯車が大きく狂ってしまう予感がして怖かった。
「ごめんね、こんな夜に呼び出して……」
 彼女は僕に背中を向けて一人で部屋へと戻った。彼女の瞳には涙が確認できた。瞳から滴る涙は一粒だったが大きく美しかった。
 僕が何か彼女の機嫌を損ねる行為をしてしまったのかと原因を究明する。結果、さっきの聞き逃しなんじゃないかと推測するが、正解かは不明だった。今になって聞けばよかったと後悔する自分もいた。
 僕は息を殺しながら部屋に戻った。彼女とは背中合わせでの形となり、一夜を明かした。



 僕は彼女よりも早く起きた。昨日から開けっ放しのブラインドからは美しい朝日が確認できた。僕は歯を磨いたりするために洗面所へと向かう。部屋の中にもあったのだが広い空間と車内散策を求めてあえて出る。朝早くということもあり、人口密度は低かった。
 部屋に戻ると彼女は着替えをしていた。彼女は下着しか着ていない無防備な格好をしていた。「変態」と言われて部屋の前で待機させられた。その後、僕はしつこく「常陸君のせいでお嫁に行けない」と言われたため、僕は冗談で「僕がもらってあげるよ」と言った。彼女は意外と本気にしていたらしく、顔を赤色に染めていた。
 七時八分に定刻通りに列車は東京駅に滑り込んだ。その日は彼女の希望で特異な観光をした。
 渋谷のスクランブル交差点に行ったり、山手線で時間をつぶしたりと東京タワーを訪れるなどの一般人が行うような観光は一切行わなかった。
 今朝のことが引き金になったのか、朝は会話という会話は交わさなかったが、時が経つにつれて互いの本心を吐き出しながら話をした。帰りの新幹線の中では思い出話に花を咲かせた。
 そして、今回の観光中に二つの事件に遭遇した。
 一つ目は迷子になったことだ。彼女の先を行く行動で、はぐれてしまったが、携帯を駆使してなんとか合流することができた。僕はこの時、現代文明の発達のありがたさを思い知った。
 二つ目はというと……思い出したくもない……。
 寝台列車が定刻通りに東京駅に着き、彼女が通勤客の苦労も考えずに「楽しかった」といったのが原因だった。通勤客の一部はこちらに目を合わせ、彼女は平謝りをした。その中に彼がいた。
 彼とはクラスメイトであり、僕を線路に突き落とそうとした人物。西川優だった。彼は鋭い目つきでこちらを見てきたが、すぐに去っていった。もちろん能天気な彼女は気が付いていない。
「あ~楽しかった」
 車内販売で買ったアイスを平らげながら彼女は呟いた。色々なことがあったが素直に楽しかったので僕は同情する。
「うん。僕も楽しかったよ。君についてきて正解だったかな」
 僕たちは名古屋で新幹線を下りた後、彼女の要望で特急列車のグリーン車で帰ることとなった。大垣で下車し、駅前の広場で解散となった。
「今までありがとう」
 彼女の言葉に反応するとことなく、無言で背中を見た。



 とある夏休み終盤の夜、彼女から着信があった。この日は半袖で過ごすには少し肌寒い夜風が吹いていた。眩し過ぎる満月の光は庭の木々たちさえもはっきり確認できるほど明るかった。そんな僕は自宅のベランダで満月のクレーターを数えていた。
 彼女からの電話を親からの電話のようにぞんざいに扱う。
「ねぇ、常陸君。運命の人って二人いるらしいよ」
 彼女は映画のラストシーンのようなくさいセリフを言った。
「一人は失恋の辛さを教えてくれる人、もう一人は不変の愛を教えてくれる人」
 僕は彼女の発言の意図が理解できなかった。
「このセリフは私のお気に入りの少女漫画のセリフなんだよね。私の場合前者は経験済みだから、死ぬまでに後者を教えてくれる人現れないかなって! 病弱な乙女の願いなのです!」
「生憎だけど、恋愛の相談を僕にするだけ電話料金の無駄だと思うよ」
 彼女は僕の合理的な発言に笑った。
 会話が途切れた。僕は意識を月にむける。
「常陸君、今日は満月だね。見てる?」
 彼女が天体に興味があるとは意外だった。
 僕の行動を間近で見てるような問いかけだった。
「ちょうどクレーターの数を数えてたところだよ」
「何その変な趣味!」
 彼女は電話越しに笑い声を弾ませた。
 38万キロ離れた月を同じ地球上で見てると思うととても近いことのように感じた。
「月がきれいだね」
 僕は賛成する。
「確かにきれいだな。僕たちが生まれる前からきっときれいだったんだろうな。これからもずっと見ていたい気分だよ」
 心の中に浮かんだ月への感想を僕は並べた。
 気がつくと電話は切れていた。
 挨拶もせずに切るなんて、なんとも失礼なやつだ。
 僕は読みかけの推理小説の続きを読むことにした。



 新学期が始まり担任の先生からは衝撃の事実が告げられた。その一言で僕は彼女のぎこちなさの正体を知った。
「一ノ瀬来夏さんは入院しました」
 この時の彼女の血液は青を含んだ色になっていた。