ホームルーム後の掃除も終わり、学校の賑やかさが校舎からグラウンドに移ろうとしている放課後、僕、相模原常陸(さがみはらひたち)は職員室を訪れようとしていた。教室のある北舎から職員室のある南舎に向かうため、剥き出した鉄骨が大きく錆びた二階の渡り廊下を歩いた。渡り廊下から見える柳の木の葉は長く垂れ、時より吹く強い春風が葉を大きく揺らしていた。途中、運動部の服を着た生徒何人かとすれ違った。彼らは、服装から判断するに野球部のようだ。帽子の鍔を後ろに向け、うっすらと土色に染まった白いユニホームが高校生活の一辺であることを間接的に伝えてくる。部活動に所属しておらず、クラスの空気である僕にとって、彼らは百八十度反対の世界線を邁進している対極的な存在だ。
 南舎二階にある職員室に着いた。木製のドアで空間を隔てている職員室。ドアの木目は激しく割れており、せめてもの修復として素人が浅知恵で塗ったと思われる漆の状態が不甲斐なさだけを増している。県の公立自称進学校だけあってお金のなさをこのような古さと雑さから毎度渋々実感する。ドアには昭和を漂わせるフォントで書かれた身だしなみに関する注意書きが雑に貼ってある。紙と、それをドアに貼るためのセロテープはかなり日焼けをしており、学校の歴史を長く見守ってきた堂々たる風格を醸し出していた。僕は扉をノックして、建付けの悪い戸をなるべく音が立たたないように引く。レールとドアの摩擦から発生する金属音が鼓膜に劈く。まだ6月の上旬だというのに、自己主張の強いエアコンの冷気が職員室中を満たしており、廊下との温湿差に鳥肌が立ってしまう。室内の机は資料や本などで乱雑しており、固定電話の着信音が騒がしく空気を揺らしていた。放課後ということもあり、一日の業務にひと段落ついた教師は安堵の表情を浮かべながらコーヒーを嗜んでいた。
 僕が放課後の貴重な時間を割いてまで来た理由はただ一つだ。
 なるべく迷惑のかからない声量で言う。
「文学部顧問の安藤(あんどう)先生はいらっしゃいますか?」
 僕が扉の近くで名前を呼ぶと、彼は職員室奥のデスクからこちらを見ていた。忙しさをアピールするためだろうか、教壇に立っているときはつけてない眼鏡をかけ、採点していたためと思われる赤色のボールペンを右手に挟んでいた。僕は彼のもとに向かう。三十歳くらいの男の英語教師で面倒臭そうな顔をしながらこちらを見上げてきた。机上に広がる小テストの答案とびっしりと付箋のついた紙辞書が机の表面を隠していた。付箋アンチの僕は彼の付箋で厚みを増した紙辞書をみただけで侮蔑の念を抱いてしまう。彼はかけていた眼鏡をはずし、足を組んだ状態のまま僕に正面を向ける。
「えっと……君は……」
 僕のクラスの英語を週5で受け持っており、授業で面識があるにも関わらず、名前を思い出せないでいることが表情を介してひしひしと伝わってきた。僕は半ば呆れ、半ば納得した気持ちを内包しながら、自分の名前を彼に伝えるのではなく、空気に向かって吐き捨てるように言う。
「一組の相模原です」
 彼は僕の名前を聞いても出かかっていた記憶を思い出したような表情など全く見せず、問題の解説を見ても納得できない受験生のような感情を浮かべていた。つまり、僕が誰なのかをわかっていなかったのだ。
「そうそう相模原。で、なんの用だ?」
 僕は早くこの場から離れかったので単刀直入に要件を言う。
「安藤先生が顧問を務めていいらっしゃる文学部に入部したいんですけど……」
「文学部に!? なんで今更?」
「集中して小説を書く環境が欲しいからです。僕の家は電車の音で騒がしいですから」
 それ以外に理由はない。
「なるほど! そういうことか」
 本当に納得しているかは定かではないが、彼は机の引き出しの最下部の奥から入部届を引っ張ってきた。皺が複数、不規則に入った紙からこの男の雑さと文学部の人気がうかがえた。
 僕は目的を果たしたため、さっさと帰ろうと離れよとすると、彼が話し始めた。足を止める。
「相模原。入部するのはいいがもう一人部員がいるから仲良くしてやれよ」
 もう一人部員がいるのは初耳だった。
 文学部は部員が少なく廃部寸前だというのは噂で耳にしたことがあった。てっきり僕は誰も部員がいないと勝手な解釈を施していた。
 彼は机に向かい、採点をしながら僕に言葉を吐いた。
「その部員というのがお前と同じクラスの一ノ瀬来夏(いちのせらいか)だよ。中学一年生で大手出版社の新人賞を受賞した……」
 そういうと彼は一拍おいた。
「事前に警告しておくが、あいつには過干渉にならないほうがいいぞ」
 『いちのせらいか』……。聞いたことのある名前だが顔と名前の発音が一致せず、脳裏に引っかかる。そして僕は彼の最後の言葉に疑問を浮かべた。先ほど仲良くしてやれと言われたことと正反対で矛盾しているからだ。人に興味のない僕だが不可思議なことに脳がその理由を聞けと命令してくる。
「なぜですか?」
 彼は言葉を濁すように言った。まるで近くにいる他の先生に聞こえないように……。
「一ノ瀬の新人賞受賞作品には盗作の疑いがかかっている。なんていっても有名作家の内容と瓜二つだからそうだ。そのせいで一ノ瀬はネットで叩かれまくって、一時は所属中学校までマスコミが押し寄せたぐらいこの出来事は問題となった。高校生となった今でもその爪痕が色濃く残ったままで、クラスでも孤立しているらしいぞ。まあ、社交的でない性格も一因だと思うが……」
「そうなんですか……」
 他人同士の評価なんて全く興味がない僕でも晴れやかな気持ちにはなれなかった。心中にやりきれなさが残る。
「教師として言ってはいけないとわかっているが敢えて言わせてもらうと……」
 そういうと彼は僕の耳元で小さ囁いた。
「一ノ瀬と同じ目に遭いたくなかったらあいつに過干渉……いや関わらないほうがいい。これは教員としてではなく、人生の先輩としての忠告だ。一度つけられた評価は簡単には変わらない……それが学校という場所だ」
 声質から教師としてではなく人生の先輩として言っている言葉なのだと感じ取れた。
「はぁ」
 僕はため息を半分交えながら答えた。
 学校がそういう場所だというのは重々わかっていた。他人からの評価や人間関係が全ての世界線で、変に目立てば、目立ちたがり屋だと影で罵られ、人気のある異性からの交際を断れば、同性からの嫉妬を買い、挙句の果てには根拠のない噂を流され、「たらし」などと侮蔑される始末……まるでこれから生きていく社会を閉じ込めたような空間だ。そういう世界だと理解しているからこそ、みな平穏な学校生活を維持するために極力空気を読み、目立たないように努力する。僕はそんな空間に嫌気がさしていた。
 彼の『盗作』という言葉に引っ掛かりながらも、その日は直帰した。



 その翌日、僕は入部届を出して、文学部の二人目の部員となった。
 担任の惚気話のせいでホームルームの時間が長引いたため、相対的に掃除の時間が押した。他クラスの生徒たちは掃除を終えて部活の道具や大きなカバンを抱えて昇降口に向かっていた。それに対して僕たちのクラスは掃除の全工程の半分も終えていなかった。僕は文学部の活動に行く前に、親友の二川啓(ふたがわけい)に彼女について尋ねた。啓は唯一無二の友達だ。掃除中だったが僕たちは担当区域をすでに終わらせていたので、特に気にすることなく喋る。
「なぁ啓。一ノ瀬さんについて何か知っていることあるか?」
 僕の発言を聞いた啓はきょとんとした顔をしていた。目を二回パチパチさせた後、数秒の時差が淀む。
「一ノ瀬って、クラスメイトの一ノ瀬来夏のことか?」
「昨日、文学部の入部届を顧問に貰いに行ったときに部員がいることを告げられて、その部員がクラスメイトの一ノ瀬さんなんだ」
 僕の発言を聞いた啓はきょとんとした顔をしていた。
「他人に興味のない常陸が……なんかあったのか?」
 啓は何かを期待した顔をしていた。
「いや、一応どんな人か知りたくて。啓が想像しているようなことは考えてないよ」
「なんだー。つまんねぇの」
 僕が発言の旨を告げると啓は箒を掃除ロッカーにしまい、廊下の壁にもたれながら彼女のことを話し始めた。
「基本的には一人で読書していて、クラスの隅っこにいるようなおとなしい奴だよ。クラスメイトと話しているところをみたことはないな。それに一ノ瀬には黒い噂が漂っている……」
 啓は首を少し下に傾けながら話した。僕は昨日から胸につかえている自分のモヤモヤを言語化する。
「それは盗作疑惑のことか?」
「そうだ」
 啓は静かにうなずいた。
「そのほかにもいろんな男を自室に連れ込んでやりこんでいるとか。男教師を誘惑してテストの問題を教えてもらっているとか。根拠のない黒い噂が後を絶たない。まぁ俺は悪意のある女子が勝手に流した噂と踏んでいるけどね。一ノ瀬は成績優秀、容姿端麗。影では一ノ瀬を狙っている男もいるみたいだから何かと同性から恨まれるだろう」
 信頼のある啓の発言を聞くに彼女は悪い人ではなさそうだ。直感的にそう感じた。
 少なからず部活中は同じ空間にいることとなる彼女が善人であることに心の底で安心している自分がいた。
「常陸も気を付けたほうがいいぞ。一ノ瀬と仲良くしていると知られるとクラス内で孤立するから」
 彼と同じことを啓は忠告してきた。
「根暗な僕と話せる友達は啓ぐらいしかいないから孤立しても今とかわらないよ」
 僕の発言に啓は苦笑した。
 僕もわかっていた……学校という一度学内からつけられた評価が簡単に変わるこがない空間を……。それだけならまだいい。孤立した人間はクラスの中心核の人間からのいじめの対象となり根も葉もない噂が瞬く間に広がる。それを週刊誌のスクープ同様に信じてさらに悪質なものに改ざんし、広める者もいれば、嘘だとわかっていながらも自分の平穏な学校生活や人間関係を保つために信じたくもない噂を自分の心に押し殺している者もいる。僕だけじゃなく、みんなそれを知っているからこそ評価が悪くクラスの空気である彼女や僕と接しないこともわかっていた。
「それと……」
 啓は言葉を濁しながら言葉を言う。
「一ノ瀬は前向性健忘症を患っているらしい。命に別条のない病気らしいが病弱というワードが気に入らない女子がそれすら妬みの材料にしているらしい。学年全体が知っている話なのに人に興味がない常陸はその様子じゃ知ってなさそう」
「啓のいう通り、僕は一ノ瀬さん病気の件も知らないし、人にも興味がないからね」
 啓は話を転換する。
「そういえば、今日からだろ部活」
「そうだけど」
 僕たちが話してこんでいると掃除の終了を告げる担任の声が聞こえた。啓は野球の道具が入ったカバンを肩にかけ、廊下を小走りで走っていった。
 僕は静かに教室に戻り、自分のリュックを持って文学部の部室に向かった。楽しみという感情は全くなく、誰にも干渉されずに小説を書ける空間を求めて歩いている節がった。
 文学部の部室は北舎と南舎から外れた通称廃校舎と言われている所に静かに息をひそめている。現在、廃校舎は物置同然として使用されており、文学部以外の部室は当然ない。
 僕はグラウンドや体育館から響く運動部のかけ声を聞きながら、廃校舎に向かった。廃校舎に行くまでの道は掃除が行き届いておらず、周りの雑草が腰の丈まで生えていた。廃校舎の入り口には辛うじて電気が灯っていたが、情けない光量だった。
 建付けの悪い木製の引き戸を力を込めて開けた。錆びているためか耳障りな金属音を発した。初めて入った廃校舎は想像以上に廃れていて、過去の空気が淀んでおり、まるでここの空間だけ時間が止まっているようだった。弱い風が吹いていたが古く頼りない窓をカタカタと揺らしていた。ここまであからさまな古さの建物に冷静に中に入っていける自分に動揺していた。恐怖や高揚はなかった。入学当初に関係者以外は入るなと担任から釘を刺された廃校舎にこんな形で入るとは思ってもみなかった。
 木でできた廊下を奥に進んでいく。お化け屋敷のように床がきしみ、不穏な音が不気味なほどにこだまする。
 文学部のプレートがかかった部屋があった。本当にここであっているのかと疑うほど静かだった。あまりの静かさに自分の吐息、心臓の音色がいつもより深く聞こえる。まだ彼女(一ノ瀬来夏)がいないだけなのかと推理を立て、とりあえず扉を開けた。南の窓から差し込む太陽の温かな光が一人の人間の影を作っていたのを確認できた。僕の気配に気付いたのか、その人は長い黒髪を揺らしながら僕の方に正面を向けて振り向いた。僕はその人の姿を確認することができた。
 そこには上半身下着一枚の女子の姿があった。無論、下半身は制服を着ていた。彼女はハッとした感情を目に灯していた。彼女は僕を見るに廃校舎を震わすほどの叫び声を出した。
「キャー!!!!!!!!」
 女子に免疫のない僕でもこの状況はやばいということを瞬時に理解して、扉を閉めた。相当まずいことをしてしまったのかと自分の行動を見直した。廊下に締め出されて、僕が壁に体重を壁に預けて彼女からの入室許可を待っている間、室内からは大きな物音が終始聞こえててきた。
 二分後、僕は入室許可をもらい、少しだけ次の言動に困っていると、彼女は顔を赤らませながらこちらを見つめていた。そして、恥ずかしそうに言った。
「君が新入部員?」
 透明感の隠しきれない声だった。高校生ではなく大学生のような大人っぽさが声色から漏れていた。
「そうだけど……何か」
 僕は素っ気ない返事をした。
 僕が新入部員だとわかると彼女は手招きをして僕を部室へといざなった。
 左右に本棚が並び、棚にはぎっしりと文庫本が並んでいた。純文学の小説をはじめ、推理小説、恋愛小説、ライトノベルなど幅広いジャンルの本が部室を作っていた。しかし、大量の本があるということ以外は素っ気なく、昭和を漂わせる食卓サイズの机が中央にあり、脚が錆びた頼りない椅子がポツンと少しあるだけだった。机上には彼女のものと思われるノートパソコンが時代の異端児として存在していた。本当に部活をするためだけに整備されている部屋という感じだった。僕が部室内を観察していると一番奥の椅子に座っている彼女が他人口調で口を開いた。
「えーと相模原君だっけ? まずはそこの椅子に座ってくれる」
 僕は促さるままに彼女が指した椅子に腰を下ろした。僕が体重を預けると椅子から頼りない音がした。僕は特に気にしない。
 啓に聞いた通り、彼女はきれいだった。「きれい」というありふれた言葉で表すのは失礼に値するくらい美しかった。透き通った大きな瞳、つやのある黒髪ロング、そしてなにより白い肌が彼女の圧倒的な美のオーラを決定付けていた。めったに他人の容姿を評価しない僕だが、これは訳が違った。
 僕が彼女の容姿を観察していると、彼女はさっきの話を振ってきた。
「えーさっきの……覗きの件だけど、あれは不慮の事故として見逃してあげるから、もう二度と覗きなんてしたらダメだぞ」
 彼女は僕を指差しながら少し恥ずかしそうにそう言った。
「僕はライトノベルの主人公みたいなラッキーすけべな展開は一切期待していないことをここできちんと言っておくよ」
「…………………」
 僕の話を聞いた彼女は目をきょとんさせていた。そして次の瞬間、彼女は腹から声をあげて笑った。
「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
 僕は彼女の笑点を一ピコメートルも理解できなかった。なぜこの人は大笑いしているのだろう。
「君は僕の発言の何がそんなに面白いのか理解不能だよ」
「いや、笑った! 久しぶりに大笑いしたよ。君って面白いね」
「そうかなぁ、僕はこれが正常だけど。君の笑点と名の沸点がヘリウムくらい異常に低いだけじゃない」
「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
 そういうと彼女は再び笑い出した。やはり理解不能だった。そして、僕はこの瞬間ある疑問が脳に浮かんできた。啓が言っていた「一人で読書していて、クラスの隅っこにいるようなおとなしい奴」ということだ。今接した限り彼女がクラスの隅にいるような……世間の言葉を借りるなら陰キャという部類に所属しているとは到底思えなかった。
 僕を含めクラスメイト達は彼女に対して大きな勘違いをしているのかもしれないと思い始めた。他人には興味のない僕だが、信憑性のない噂で他人の評価を決定するのは嫌だったし、自分の欲求がままに他人をおとし入れる人間だけは絶対に許せなかった。
「そうだ自己紹介しようよ」
 彼女は何を思いついたのか、僕の気もしらないまま、声を弾ませた。
「嫌だよ。僕は自分という存在が嫌いなんだ」
 自分というなんの魅力のない人間が嫌いな僕は自己紹介を正面から拒んだ。しかし彼女は僕に断るという選択肢なしの爆弾を投げてきた。
「もし断ったら、君が覗き間の変態さんだって新聞部にリークするよ」
 これは断れない……。変な噂を掻き立てられるのは許容範囲だが、それが原因で平穏な学校での読書時間が失われるのは避けたかった。
「わかったよ……」
 もしかすると自己紹介をし、彼女について知りたかった自分もいるのかもしれない。
「じゃまず私からね。私の名前は一ノ瀬来夏。来夏は来るに夏って字ね。身長は百六十三センチメートル。体重は秘密。血液型はCis-AB型。趣味は旅行と読書で、英検一級を持っているのが自慢かな。それから……」
 彼女は三分以上しゃべり続けた。彼女の口は休憩という言葉を知らない。その間はほぼノンストップだった。
 不思議だった。いや不可思議だった。僕と彼女にはどこか隠れた共通点があるような気がした。
「次、君の番ね!」
 君の番!、という言葉を聞いて僕は心の中で溜め息をもらす。自分の中身を他人に開示することにメリットを感じることができなかったので素直に否定する。
「いやだよ」
 僕の言葉に対して彼女は追求を始める。
「名前は?」
「非公開で」
「名前くらいは教えてくれたっていいじゃん!」
 彼女は艶のある頬をムッと膨らませた。彼女の質問に答えない限り永遠に追求される未来が目に見えた僕は面倒くささを発言に交えながら答える。
「相模原常陸だよ」
「身長、体重、血液型は?」
「非公開」
「特技は?」
「非公開」
「趣味は?」
「君と同じ鉄道旅行だよ」
「趣味が同じなんて私たち実は気があったりして」
「冗談でもやめてくれる。僕は君とは違って静かで高潔な人間だから」
「アッハハハハハハハハハハハ! やっぱり常陸君って面白いね!」
 彼女は笑みを浮かべながら、ノートパソコンを立ち上げた。校則で禁止されているはずのノートパソコンをなんの抵抗もなく彼女は操作し始めた。芸術のようなタイピング音が室内を満たす。鼻歌を立てながらパソコンを打つ姿に僕はどこか共感する部分があった。
「君はどんな小説を書いてるの?」
 僕は小説を書いている彼女に静かに問いかけた。
 同じ小説を書く人間として、小説を書く時間は楽しい。自分の頭の中でストーリーやキャラクター達を思い浮かべて動かす。完成した時の達成感は同士でしか理解できないものだ。僕とは違い本当の本を出版している同級生、いや小説家が目の前にいる。僕は小説を書く一人の人間として、いやそれ以上に本を愛する読者として純粋に彼女の作品に興味があった。
 しかし、五分以上待っても反応がなく僕の声が届いていないかと疑った。
「ごめん、なんか話しかけた? 集中してて……」
 僕は驚いた。活発、桜花爛漫な彼女からは想像できない集中力だったからだ。きっと彼女は自分の創作の世界にのめり込んでいたのだろう。僕は心の中で驚きを隠しながらも同じ言葉を繰り返す。
「君はどんな小説を書いてるの?」
「専ら恋愛小説だよ! てか、私の出版されてる作品読んだことないの?」
 僕は恋愛小説に一ピコメートルも興味がない。
「ないよ」
「なら私の小説読んで感想聞かせて! せっかく小説を書いているっていう共通点があるんだからさ!」
 彼女は鞄から乱雑にUSBを取り出して、僕に渡した。この状況で断りにくい僕は面白くないだろうと高をくくって受け取った。たとえ読んだとしてもすぐあきるだろう。
「恋愛小説に興味なんてないから、いつ読み終わるかわからないよ。それに君の期待するような感想は言えないかもしれなということだけここで明言しておくよ」
 僕は心中をストレートに伝えた。
「死ぬまでには感想聞かせてね」
 『死ぬ』という冗談のワードを彼女は笑顔で発した。僕はそれを流した。



 帰宅後、いつも通りの生活をした。勉強、食事、執筆、入浴というルーティンをする。入浴後、バスタオルで頭をふいていると勉強机上にあるUSBがふと右目の視界に入ってきた。そういえば……彼女が感想を聞かせてとか言っていたな。そんなことを思い出しながらUSBを持ち上げた。
 彼女の小説を読もうか迷った。僕は入浴後のルーティンとして読書を嗜む習慣がある。昨日の読みかけの推理小説があるが、同い年ですでに出版を果たしている彼女の小説という点で少なからず興味があった。迷った挙句、結局彼女の小説に手を付けた。

 僕がふと時計を見つめると時刻は深夜の二時を指していた。町は完全に眠っており、秒針が刻む静かな音だけが室内の空気を震わせていた。僕は四時間もの間、ノンストップで彼女の小説を読んでいた事実に時計の針を見て気が付いた。読後、僕は不思議な感情で満たされた。恋愛小説という初めて読むジャンルに驚きを感じる一方、同級生である彼女に執筆力で劣っている自分の力に引け目を感じた。彼女の小説は絶対に面白くないと高をくくっていた自分を殴りたいぐらいに彼女の小説は魅力で溢れかえっていた。読者を物語の世界に誘う独特な表現、読者をはっとさせる伏線の数々、唯一無二のストーリー、キャラクター構成。中学生が書いたと信じられないくらいの作品だった。
 僕は深夜にも関わらず、彼女の作品の評価をインターネットで模索した。読者は彼女の小説からどんな感想を抱いたのか、多角的な視点でとらえたかった。
 僕がスマートフォンで題名を打つと信じられない文字が走った。僕は目を見開く。検索予想欄には「盗作」「パクリ」「引退」といった文字が表示されていたのだ。この瞬間、あの教師や啓のいっていた盗作疑惑と繋がった。
 僕は何事かと思い、すぐさま検索に走った。トップに出てきたサイトやTwitterを覗くと彼女の小説に対するきつい酷評が並べてあった。これを、まだ精神的に未熟で耐性のない学生が受け止めると考えたら……。

『一ノ瀬来夏のデビュー作は完全なるパクリwwwww。中学生というブランドを使って金儲けしたいだけのゴミ作家www』
『有名作家、美作大作(みまさかだいさく)の新作のストーリーをそっくりパクるとは中学生のくせに度胸あるな(誉めてない)』
『これを世に送り出した出版社も悪い』
『パクるならもっと上手にパクれよ』
『親の教育の失敗の最高傑作wwwww』

 などと熾烈だった。
 美作大作は超有名作家だ。出版すれば軽く十万部ほど売れるほどの知名度と実力を持ち、何度か芥川賞や本屋大賞の候補作になるほどのものだった。超有名作家の作品を堂々パクリ、出版したとなると大勢いるファンが黙っているわけがない。
 しかし、僕は彼女が盗作するような人間とは全く思えなかった。なぜかはわからないが、直感的にそう感じた。
 それから僕は寝る間を惜しんで、彼女の盗作疑惑について情報の海であるインターネットから探し出した。気が付くと窓から朝日が差し込んでいた。スマホに充電器をさして、少しだけ仮眠をした。



 朝のホームルームが始まるまで、啓に彼女の盗作疑惑について聞くことにした。やたらとクラスメイトの情報に詳しい啓なら僕が知っていること以上のことがわかるかもしれない。
 僕は眠い目をこすりながら啓の席に近づく。
「どうした常陸、目の下にクマなんかつけて」
「夜通し調べ事してて……気が付いたら朝日が昇ってたんだよ」
「健康第一主義の常陸が徹夜するなんて。どんなこと調べてたんだ? とうとうエロに興味持ち始めたか」
「僕は未来永劫エロの道には進まないと思うよ」
「確かに、常陸はそういうこと興味なさそうだな……で、何を調べてたんだ?」
「昨日一ノ瀬さんの作品を読んでネットで評価を調べようとしたら、盗作疑惑がネットで騒がれてたから、徹夜して事の出来事を調べてたんだよ」
「なるほどね」
 僕の発言を聞くなり、啓は難しそうな表情を宿らせた。やはり僕の予想通り、この件について啓は僕よりも詳しいはずだ。
「なあ啓。この件について啓が知っていることを教えてくれないか」
「一ノ瀬来夏の盗作疑惑が浮上したのは一ノ瀬がデビュー作を出版してから間もない頃だ。一ノ瀬がデビュー作を出版したのは中学二年生の秋。当時の中学校では全校集会で取り上げられたり、地元新聞やネットの記事にもなるほど話題性があった。本は予想通り売れた。しかし、その反面有名作家が出版していた作品と大きく似ていると炎上し始めた。その炎上はやがてネットニュースにも大きく取り上げられ、一ノ瀬が所属していた中学校に週刊誌の記者が来たり、一ノ瀬の友人らしき子に取材を強引に迫ったっていう噂があるくらいだった。最終的にデビュー作は販売停止、そして異例の自主回収が始まり、一ノ瀬はこの事件を機にクラスで孤立したらしい。高校になっても同中の輩がこの噂を会話の材料としたせいで一ノ瀬は今も孤立状態なんだ」
 ネットの情報以上のものが得られた僕。複雑な気持ちにならざるを得なかった。
 そんな僕を見兼ねた啓は話を転換する。
「そういえば、昨日の初部活どうだった?」
「どうって。一ノ瀬さんが着替えているのを覗いてしまったぐらいだよ」
 啓はなぜだか嬉しそうにニヤリとした。
「意図して?」
「断固として違うよ。本当にたまたま偶然。必然の対義語」
「ラッキーすけべっていうやつか」
「僕に変なあだ名付けないでくれる」
 僕たちがいつも通りの他愛のない話をしていると、教室の後ろのドアから彼女が入ってきた。彼女は誰とも挨拶することなく自分の席に向かった。彼女の席でたむろっていた女子集団は彼女の顔を見るに表情をゆがませたのち、磁石の同極のように離れていった。
 そして、彼女は一日中クラスの空気を演じた。誰からも話しかけらない。誰にも話しかけようとしない。授業では教師に当てられた場合のみしか発言しない。昼食は当然のように教室外で一人で済ます。ホームルームが終わった後は身を潜めるようにして教室から存在を消す。
 僕は放課後、昨日のように文学部の活動に参加するため廃校舎に向かった。
 昨日の過ちを繰り返さないようにノックをし、彼女からの反応を確認したのちに、戸をひく。
 部室内の彼女は教室内とは正反対で、楽しそうな表情を浮かべていた。
「そういえば、昨日渡した私の小説読んでくれた?」
 僕は近くの椅子に腰を預ける。彼女の目を見ずに答える。
「読んだよ」
 彼女は自分の小説を読んでくれたのがよほど嬉しかったのか、声を弾ませる。
「で、で……どうだった! 感想聞かせて!」
 彼女は身をこちらに寄せてくる。僕はそんな彼女の行動に一歩引き下がる。
「おもしろい作品だったよ。同じ年齢の子が書いているとは思えないほどの力量や工夫を作品から強く感じたよ」
「それ本当?」
 彼女は裸足の魚が飛び上がったようだった。
「僕はいい作品にはよかったという人だよ」
「まじ! 嬉しすぎて今死ねるわ」
 僕の感想を聞くに彼女は照れを全開にして、温めすぎてとろけたスライスチーズのような顔をした。
「もっと、もっと褒めて!」
 彼女はどうやら褒められたいらしい。僕は彼女の要望に忠実に従うはずもなく、聞きたかった話に移す。
「君の作品について一つ聞きたいことがあるんだけど……」
 そういった瞬間、彼女は表情を途端に暗くした。多分、これから僕が言う話題について察したんだろう。僕が昨日読んだ彼女のデビュー作……。
「君の作品の……盗作疑惑についてなんだけど……」
「それ以上言わないで」
 言葉を濁しかけた僕の発言を彼女は強く阻止した。彼女の表情は、今までの言動からは全く図れないほど動物的だった。そして何かの悪夢を見ているかのように頭を押さえて、文章では表せないような苦しむ声を発した。自分の長い髪を無理やり引き抜くような行為をして、苦しみだした。

 そして、彼女は……倒れた。



 時刻は二十三時を回っていた。いつもの僕なら自宅でくつろぎながら推理小説を嗜んでいるが、今日はそれどころではなかった。彼女が部室で倒れた後、何度呼び掛けても彼女からの返答はなかった。僕は慌てて校則で禁止されているスマートフォンを鞄から取り出し、救急車を急派した。そして、近くをたまたま通りかかった教師に彼女が倒れたことを説明したため、慌てた様子で養護教諭が来た。そこからは教師や救急隊員に状況説明をするのに大変だった。なので彼女の容態はわからない。そして、教師から解放されたのが今さっきだ。流石の僕でも、こんな時間まで教師たちを付き合わせてしまったことに申し訳なさが募る。昇降口は時間が時間がため閉まっていたので、僕は正面玄関に向かう。夜の学校には特有の気味悪さがあり、その空気が不安を掻き立てる。満月は薄い雲に隠されており、光だけが淡く散っていた。僕は自転車を押して家に帰った。
 その日はもう何も考えることができなかった。



 翌日、彼女は学校に来なかった。昨日のことを考えると当たり前だが、無事の証として彼女の登校をひそかに願っている自分がいた。彼女が一時入院したという旨が先生の口からクラスメイトに伝えられたが、興味を示したものは僕を除き誰一人としていなかった。クラスメイトから空気として扱われている人間は心配の対象にもならない。それが学校という場所だ。これが僕だったとしても同じ状況になっていただろう。
 放課後、文学部の顧問に呼び出され、彼女の見舞いを促された。本当は面倒臭いので行きたくなかったが、流石に……という思いを胸に仕方なく病院に足を運ぶことにした。
 市内の中心にある、真新しそうな病院の受付で彼女の病室番号を確認する。受付で名前を伝える際、漢字表記を思い出せないでいたが、なんとか思い出せた。
 病院独特の匂いが劈く院内をやや早足で歩き、病室に向かう。病室の表札には『一ノ瀬来夏様』と筆記体で記されていた。僕はノックをして病室に入る。消毒液の匂いが廊下より微かに強く漂う室内を進む。彼女のベッドは部屋の右奥にある。空間を仕切っているカーテンを開けるとノートパソコンのキーを勢いよく叩いている彼女の姿があった。彼女は僕を見るに、ハッとした明るい表情を浮かべ、執筆していた手を止めた。予想とは反し、部室内でしか見せない明るい笑顔を灯らせていた。その表情に安心した僕は肩が軽くなった気がした。
 どうやら元気そうだ。
「常陸君わざわざ来てくれたんだ」
 声質もいつも通り。
「昨日の一件は僕の責任だから……一応、謝りたくて」
「全然いいよ。気にしないで。倒れたのは私の責任だから」
 僕は彼女の言葉に引っかかる。
「倒れたのは私の責任って……」
 僕の発言が核心をついたのか彼女は顔を背ける。
 文意からは読み取れなかったが僕はそう直観的に察した。
「君……病気の件でなにか隠してない?」
 僕は頭に浮かんだ言葉をそのまま並べる。
 少しの間を置いた後、彼女はゆっくりと話し始めた。
「なんか常陸君には隠せる気がしないな」
 そういうと力が抜けたのか、彼女は体をベッドに預けた。次に体を僕のほうに傾けて、作り笑いを浮かべた。そして、まるで今日学校であったことを親に話すように淡々と語りはじめた。
「実は私大病を患ってるんだ……それも治療が確立していない七色病で余命一年なんだ」
 七色病。その言葉を聞いたのは久しぶりだった。
  その名の通り血液が七色に染まるのが七色病だ。菫、黄、緑、藍、青、橙、赤の順に染まっていき、赤色に染まった数か月後には真紅となった血液が心臓の血管を塞いで死んでしまう。染まるといっても完全にその色に染まるのではなく、絵の具と一緒で赤色の血液に該当の色が少し色味つくだけだ。治療法は確立されておらず、世界でも症例が少なく、不治の病として知られていた。この病気にはさらに恐ろしいことがある。血液の状態、色などから何月の何日の何時に死ぬかが正確に分かるのだ。死期はわかるのに治療法が確立されていないなんてなんとも不穏な病気だ。
 僕は甘く見ていた。前向性健忘症を患っていると思っていた彼女が高校生の内に一生を終える病気にかかっていたなんて……。
「じゃあ、学年全体に流れている前向性健忘症の噂は?」
「そんな噂あったね。あれはまっぴらな嘘。誰が流したのか知らないけどね……」
 自分の事なのに彼女は笑い流した。
「君の今の血液の色は何色なの?」
「この前の献血の時は藍色だったよ」
 七色病に関して余分な知識を持っている僕は血色液の色から死期を推測する。来年の夏を迎える前にこの世から消えるのか……。しかし、僕は彼女の余命宣告を全く悲しいとは思わなかった。
「ちなみに誰が君の本当の病気を知ってるの?」
 興味本意で聞く。
「家族だけかな」
 僕はさらに話を踏み込む。禁忌を犯してしまう。
「君の盗作疑惑の件だけど、僕を信頼して教えてくれない」
 ダメだとわかっていた。わかっていたがこの件の真相を彼女の口から確かめない限り僕たちの関係は前に進めないと勝手ながらに思っていた。
「やっぱり不思議だな。話して間もないのに常陸君になら何でも話せそうだよ」
 彼女はベッドから立ち上がり、レースカーテンをめくった。窓から差し込んだ優しい夕日が彼女の影を創る。彼女はゆっくりと語り始めた。
「結論から言うと私は盗作をされた側なの」
 彼女はそれっきり黙り込んだ。
「ごめん……それ以上は言えなくて……」
 僕は待った。彼女がこの疑惑について自分の口から真実を告げてもらうのを願った。しかし、彼女は一切黙り込んだままだった。彼女は視線を送った。いや、正しく言えば僕が彼女からの視線を感じ取った。彼女の目にはこれ以上追求しないでくれという文字が鮮明に映っていた。僕は察する。
「ごめん。僕が悪かったよ。これ以上は追求しないよ」
「なら、責任とってよ」
 彼女はベッドから大きく身を乗り出した。そして、小悪魔のように微笑んだ。
「わかったよ。どう取ればいいの」
「なら……」
 彼女は不敵に笑みを浮かべた。
「私の小説のモデルになってよ。今書いている作品の主人公がいまいちピンとこなくて、君を参考に書きたいの。モデルって言っても私のいうことに従ってくれればいいの」
「自分から言ってなんだけど流石にそれは嫌だよ」
「へー断るんだ。断るなら君が覗き魔だって言いふらすよ」
「言いふらすような友達いないでしょ」
「確かにね」
 僕はため息を漏らす。
「わかったよ。君の小説のモデルになってあげる」
 僕たちは大きな契約を交わしたサラリーマンのように握手した。
「早速だけど、来週の日曜日、私の用事に付き合ってよ。映画見て、本屋に行くの。デートっていう名目にしてあげよっか?」
「僕たちはあくまで執筆者とモデルの関係。これがデートと言うのなら全世界のデートをしたことのない人間に土下座したほうがいいよ」
「アッハハハハハハハハ。確かにね」
 彼女は腹を抱えながら笑った。
 本音は貴重な休日を奪われるのが嫌だったが、断ると変な噂を流されてしまうので渋々頭を縦に振ることにした。