私の身体が、完全に私以外の得体の知らない何かに乗っ取られた。
ベッドに内蔵されている機能に頼って身体を起こし、咀嚼すらままならなくなり栄養は点滴から与えられるものが主になった。
力入れようとしても入らず、誰かと話をする時にも声が掠れてしまう。
あの時の『死んでしまう』という焦燥感が形になってしまったように、私の身体は死へ近づいた。
五年後に生きている可能性を告げていた医師からは、明日生きている可能性を家族へ告げられるようになってしまった。
原因不明というものは本当に恐ろしい、病に対抗する薬も方法もみつからないのだから。
「花耶、お姉ちゃんだよ。わかる?」
姉が、今にも死んでしまいそうな私をみながら手を握っている。
七月、丁度去年の七月の光景と重なる。
余命を告げられる前の私と、身体が死の近さを叫んでいる私は、同じ光景をみている。
「お姉ちゃん……ごめん、ちゃんと喋れないけど、ちゃんと……ちゃんと、聞こえてる」
「無理に返事しなくていいから、もしできるなら頷くだけでいい」
きっとこの病室の扉を開けた先では、父と母が医師と看護師と話をしている。
あの日と同じ、母の啜り泣く声が聞こえる。
姉の声が止まる、ただ静かに、祈るように私の手を握っている。
静かになった空間で、私はここにきてからの人生を顧みたくなった。
*
想像もしていなかった何かが私の身体を蝕んでいて、知るはずもなかった命の残量が提示された。
そして一冊のノートを渡されて、その漠然とした白さに困惑して。
誰もいなくなったホールの片隅に置かれた本棚で彼に出逢って、小説に触れて、ノートの一ページ目が埋まった。
きっと、私の人生の本当の始まりはここだった。
そこから言葉に触れて、ただ一人を追いかけて、声を聴いて、恋を知って、生きたいと願ってしまって。
*
「……お姉ちゃん」
「どうしたの?」
「その、白い、ノート。取って……ほしい」
「これ?」
「そう、それ……何も書いてないページに、なるまで、開いて」
「うん……中身はなるべくみないようにするからね」
「ありがと……開いたら、さ。どれくらい、書いてるページがあるか、私に、みせて……」
辿々しい要望を聞き取り、姉は私が何かを書いた分のページをみせた。
半分すら行かない、三分の一ほどしか埋まっていないノート。
私の感情はこのノートの一冊に収まるはずがないのに、それなのに私は言葉を紡げなかった。
きっとこれが、この一年間での最初で最後の後悔。
私の人生での最期の後悔になる。
「お姉……ちゃん」
「ん?」
「その、ノートの最後、最後の十ページ」
「最後の十ページをどうすればいい?」
「夏宮先生に、送ってほしい」
「え」
「それに、私が死んだって……手紙、短くていいから、添えて。送ってほしい……」
「まだ死ぬなんて早いから、絶対、絶対目閉じちゃダメだからね」
「今日、何日だっけ……」
「七月四日だよ」
「……お姉ちゃん」
「なに」
「私、たぶん、終わるなら……終わるなら、今日だと思う。ごめんね」
七月四日、今日は彼の新作の発売日。
そして事実上、私と彼の言葉が繋がって一つになる日。
私が描いていた小説上のヒロインは余命宣告を受けていても二年近く余命より長く生きた。
そして最後の最後まで恋人に流暢に愛を伝えて、そして綺麗に消えていった。
私もきっとそうなると思っていた。それなりに恋をして、余命より少しは長く生きられると思っていた。
私は現実を生きている、最後に愛なんて伝えられないし、姉が手紙を添えてくれなければ私が死んだことすら彼は知れないまま。
そんな残酷の淵にいるけれど、それでも私の言葉は消えることなく彼の中で生き続ける。
寿命通りに生きられなかったけれど、私はきっと私を生きられた。
「でも……」
一年前、余裕があると思っていた私の命の短さを今になって痛感している。
私にはまだ、知りたいことがたくさんあるから。
「先生……」
先生、先生の本当の名前、私まだ聴いてないよ。
先生、先生の顔まだみてないよ。
先生、私まだ先生に好きって言えてないよ。
先生、私って本当に片想いですか。
先生、私まだ先生の本当の想い知らないよ。
溢れてくる願い事と未練を、声に出せないまま放っていく。
ひとつ放つ度に、だんだんと意識が遠のいていって、姉に握られているはずの手の感覚がなくなっていく。
駆けてきた父と母の声が微かに聞こえるけれど、何を言っているのかはわからなかった。
最後に、最後に一つだけ、私が私の声でこの世に言葉を残せるのなら。
それは私が書いた小説のように未完成な何かがいい、そしてそれは『愛する人への言葉』がいい。
十三年間の人生でただ一つ選んだ最期の言葉。
息を吸い、唇を動かすと同時に私は目を瞑る。
私の最期は、ここがいい。
『先生……私、先生の描く夏を、この心で感じたかった……』
サヨナラ、私。
サヨナラ、私に言葉と愛を教えてくれた人。
これが、私の最期の願い事。
ベッドに内蔵されている機能に頼って身体を起こし、咀嚼すらままならなくなり栄養は点滴から与えられるものが主になった。
力入れようとしても入らず、誰かと話をする時にも声が掠れてしまう。
あの時の『死んでしまう』という焦燥感が形になってしまったように、私の身体は死へ近づいた。
五年後に生きている可能性を告げていた医師からは、明日生きている可能性を家族へ告げられるようになってしまった。
原因不明というものは本当に恐ろしい、病に対抗する薬も方法もみつからないのだから。
「花耶、お姉ちゃんだよ。わかる?」
姉が、今にも死んでしまいそうな私をみながら手を握っている。
七月、丁度去年の七月の光景と重なる。
余命を告げられる前の私と、身体が死の近さを叫んでいる私は、同じ光景をみている。
「お姉ちゃん……ごめん、ちゃんと喋れないけど、ちゃんと……ちゃんと、聞こえてる」
「無理に返事しなくていいから、もしできるなら頷くだけでいい」
きっとこの病室の扉を開けた先では、父と母が医師と看護師と話をしている。
あの日と同じ、母の啜り泣く声が聞こえる。
姉の声が止まる、ただ静かに、祈るように私の手を握っている。
静かになった空間で、私はここにきてからの人生を顧みたくなった。
*
想像もしていなかった何かが私の身体を蝕んでいて、知るはずもなかった命の残量が提示された。
そして一冊のノートを渡されて、その漠然とした白さに困惑して。
誰もいなくなったホールの片隅に置かれた本棚で彼に出逢って、小説に触れて、ノートの一ページ目が埋まった。
きっと、私の人生の本当の始まりはここだった。
そこから言葉に触れて、ただ一人を追いかけて、声を聴いて、恋を知って、生きたいと願ってしまって。
*
「……お姉ちゃん」
「どうしたの?」
「その、白い、ノート。取って……ほしい」
「これ?」
「そう、それ……何も書いてないページに、なるまで、開いて」
「うん……中身はなるべくみないようにするからね」
「ありがと……開いたら、さ。どれくらい、書いてるページがあるか、私に、みせて……」
辿々しい要望を聞き取り、姉は私が何かを書いた分のページをみせた。
半分すら行かない、三分の一ほどしか埋まっていないノート。
私の感情はこのノートの一冊に収まるはずがないのに、それなのに私は言葉を紡げなかった。
きっとこれが、この一年間での最初で最後の後悔。
私の人生での最期の後悔になる。
「お姉……ちゃん」
「ん?」
「その、ノートの最後、最後の十ページ」
「最後の十ページをどうすればいい?」
「夏宮先生に、送ってほしい」
「え」
「それに、私が死んだって……手紙、短くていいから、添えて。送ってほしい……」
「まだ死ぬなんて早いから、絶対、絶対目閉じちゃダメだからね」
「今日、何日だっけ……」
「七月四日だよ」
「……お姉ちゃん」
「なに」
「私、たぶん、終わるなら……終わるなら、今日だと思う。ごめんね」
七月四日、今日は彼の新作の発売日。
そして事実上、私と彼の言葉が繋がって一つになる日。
私が描いていた小説上のヒロインは余命宣告を受けていても二年近く余命より長く生きた。
そして最後の最後まで恋人に流暢に愛を伝えて、そして綺麗に消えていった。
私もきっとそうなると思っていた。それなりに恋をして、余命より少しは長く生きられると思っていた。
私は現実を生きている、最後に愛なんて伝えられないし、姉が手紙を添えてくれなければ私が死んだことすら彼は知れないまま。
そんな残酷の淵にいるけれど、それでも私の言葉は消えることなく彼の中で生き続ける。
寿命通りに生きられなかったけれど、私はきっと私を生きられた。
「でも……」
一年前、余裕があると思っていた私の命の短さを今になって痛感している。
私にはまだ、知りたいことがたくさんあるから。
「先生……」
先生、先生の本当の名前、私まだ聴いてないよ。
先生、先生の顔まだみてないよ。
先生、私まだ先生に好きって言えてないよ。
先生、私って本当に片想いですか。
先生、私まだ先生の本当の想い知らないよ。
溢れてくる願い事と未練を、声に出せないまま放っていく。
ひとつ放つ度に、だんだんと意識が遠のいていって、姉に握られているはずの手の感覚がなくなっていく。
駆けてきた父と母の声が微かに聞こえるけれど、何を言っているのかはわからなかった。
最後に、最後に一つだけ、私が私の声でこの世に言葉を残せるのなら。
それは私が書いた小説のように未完成な何かがいい、そしてそれは『愛する人への言葉』がいい。
十三年間の人生でただ一つ選んだ最期の言葉。
息を吸い、唇を動かすと同時に私は目を瞑る。
私の最期は、ここがいい。
『先生……私、先生の描く夏を、この心で感じたかった……』
サヨナラ、私。
サヨナラ、私に言葉と愛を教えてくれた人。
これが、私の最期の願い事。