学校を出た俺は、家に帰る気にもなれず、近所の公園で黄昏ていた。炎天下の中で、俺はただただ空の碧と葉の緑を訳もなく眺める。
まさか鈴香が病気だなんて思わなかった。だが、振り返ればいくつものヒントがあったことに気づく。友達にこだわっていたのも、入院生活の多さで友達をあまり作れなかったからかもしれない。
「なんとか、鈴香の病院が分かれば……」
しかし、唯一の頼みであった養護教諭の先生にはもう訊くことができない。もう、当てがないのだ。
なんだか、このまま、鈴香と2度と会えない気さえもしてくる。
そんな時だった。
「幸樹?」
聞き覚えのありすぎる声に、今すぐ走り去ろうかと、一瞬考えた。けれども、そんな気力が俺に残っているわけもなく、仕方なく振り返る。
そこには、出勤前の母が立っていた。
「なんだよ」
「なんだ、はこっちの台詞よ。あんたこんな時間から何してんの?」
「別に、なんでもいいだろ」
最悪だ。なんでこんなところで母に会わなくちゃいけないんだ。俺は運にも見放されているらしかった。
きっと、いつものように罵倒が始まる。母は家の中だろうが外だろうが気にしないだろう。そう思って覚悟した。
しかし、その心配は意外にも杞憂だった。
母は俺の隣に立ち、じろりと見下ろす。普段とはまた違った威圧感に思わずたじろいだ。
「あんた、なんかあったんでしょ」
「はぁ?別になんもないって」
「何年あんたの母親やってると思ってんの。隠そうとしたってバレバレよ」
「は、偉そうに。どうせ俺のことなんか見てないくせに」
流れで行ってしまい、ハッと口を塞ぐ。また勢いに任せてやってしまった。
だが、母は怒るどころか、静かに俺の隣に腰を下ろした。ビクッと驚くも、母の手が伸びることはなかった。
「そうね。あんたのこと、もっとよく見ておけばよかった」
「は?」
母らしくない言葉に、俺は驚きどころか若干の恐怖を感じる。母が自分から反省した姿なんて、俺は一度たりとも目にしたことはなかったから。
はぁ、と小さなため息をついた後、母は独り言のように話し始めた。
「私の患者にね、高校3年生の女の子がいるの。あんたと同い年よ」
そう言われて、瞬時に鈴香が浮かんだ。しかし、俺は頭を振る。まだ彼女と決まったわけじゃない。
「その子ね、ずっと病気で、入退院を繰り返しているの。まともな学校生活も送れないままでね。それどころか、余命宣告までされた」
「余命宣告……!?」
「なのに、すごく明るい性格なのよ。何事にもポジティブで、変な話、こっちまで元気をもらっちゃうぐらい」
話せば話すほど、鈴香との共通点が現れる。
「でね、その子ある時、友達ができたって喜んでいたの。後輩で男の子だけど、自分を分かってくれる人だって。毎日、その子に会うために学校に行くのを楽しみにしていたそうなの」
ひとつ区切り、だけど、と母は俯く。
「一昨日にまた突然入院することになって、その子は嘆いてた。分かりきっていたことではあったんだけどね。もう一度だけ、友達に会いたいって言ってたわ」
それから母は俺を見つめて、聞いたわけでもないのに、その子の名前を口にした。
「その子、108号室の、渡辺鈴香って子なの」
「……っ!?」
渡辺鈴香。今、俺が最も聴きたかった名前の人。そして、知りたかった居場所。
「私の名前を出しなさい。面会はできるわ」
まだ俺を見据えていた母の瞳が語りかけてくる。
行け、と。
俺は咄嗟に立ち上がり、弾かれるように駆け出した。公園を飛び出し、母の勤め先である病院へ向かう。
どうして俺が鈴香と友達だという情報を得たのだろうか。どうして俺に情報を教えてくれたのだろうか。
走りながら考える。もしかしたら母は、鈴香から聞かされていたのかもしれない。俺が、母が看護師だと言った日に。そして、母は全てを悟っていた。
「鈴香、待ってろ」
ものの数分で目的地に辿り着き、受付で鈴香との面会を求めた。最初は戸惑っていた看護師は、母の名前を出すと快く通してくれた。
真っ白い扉を開けると、仄かに涼しい風が頰を撫でる。窓を開け、カーテンが揺らぐ中で、彼女はいた。純白の患者服に身を包んだ鈴香は、保健室での時と雰囲気が少しだけ違う。
扉を開ける音に反応したのか、彼女は読んでいた本を置いて俺の方に顔を向け、目を見開いた。
「こうくん……?なんで、ここに?」
「母さんから、聞いた」
迷惑だったか、と尋ねるより先に鈴香の表情が綻んだ。
「来て、くれたんだ」
「当たり前だろ。驚いたよ。突然来なくなるし、机は無いし」
俺は彼女のベッドの隣にあった椅子に腰掛ける。すると、鈴香はしゅんと俯いた。
「……ごめん、言えなくて」
鈴香は一言謝罪を述べた後、意を決したように口を開いた。
「私、病気なの、ずっと。もう、治らないんだって」
不治の病。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「治療法が分からなくて、入退院を繰り返してきた。だけど……」
鈴香の表情がより一層暗くなった。なんとなく、彼女の次に言うことが予想できた。
「余命宣告、されたんだ」
「……そうか」
「驚かないの?」
「ああ。それも、母さんから少し聞いてたから」
「そっか。……あと、1ヶ月なんだって」
「1ヶ月!?」
あまりにも短い命の灯に、俺は思わず声を荒げてしまった。だが、鈴香は慣れているのか、俺の声にさほど驚かない。
「そう。しかも、1ヶ月持つかもわからない。だから、多分、この夏で私の人生は終わる……」
「……」
無意識のうちに俺は握り拳を作っていた。行き場のない感情が体の内でぐつぐつと煮えたぎっていく。
「ごめんね、隠してたわけじゃない。でも……こうくんがこのことを知ったら、どうなるのか、それが、怖かった」
「……っ!なんでだよっ!」
我慢の限界に達し、とうとう心の声が漏れてしまう。怒りに染まる俺に、鈴香は必死に謝った。
「ごめん、本当にごめんね」
だが、俺は首を横に振る。
「違う、鈴香に怒ってるんじゃないんだ」
「えっ、じゃあ何に……?」
「こんな、理不尽な世界に」
俺も、鈴香も、世界中のほとんどの人間がそうだ。気まぐれに試練と称した病気や環境を与えられる。努力した人は報われるとか、善人は天国に行けるとか言うが、そんなのまやかしでしかない。
こんな世界、すぐにでもぶち壊したい。そんな想いに駆られる俺の頭を、鈴香は優しく撫でた。
「仕方ないよ。言ったでしょ、誰が悪いわけでもなく、勝手に現れるって」
彼女の落ち着いた態度に、俺の熱は一気に引いていく。
「誰にだって、幸不幸は降り注いでいる。私の場合、不幸が偶然にも病気だったってことだけだから」
「だけって、そんな、あと僅かしか生きられないのに……」
「うん……。だからさ、その、我儘を一個だけ、言ってもいい?」
「もちろん。なんだって言ってよ」
彼女のどんな要求にだって答えてやる。そう意気込む俺に、鈴香はにっこりと微笑んだ。
「毎日、ここに来てくれないかな?ほんの少しだけいいから、こうくんと会いたい」
「そんなんでいいのか……?」
「うん、それがいい。こうくんと会うことが、私の幸せだから」
ほんのりと頰を赤らめてそう言った鈴香に、俺の胸もドキリと強く鼓動する。
「分かった。毎日、必ず来るから」