「…………」

 コートを着て、マフラーを巻いて、手袋をつけて。
 チョークアートを手伝うための格好をしているのはいつも通りなのに、いつも通りの景色に織原くんは映らない。

(ちゃんと大学に合格して、早くみんなの手伝いをしなきゃ……)

 たった数日、美術部員の卒業制作に参加しただけ。
 それなのに、春が咲く瞬間に私も立ち合いたい。
 込み上げてくる願いを胸に、私は再び教室へと戻った。

(織原くんの連絡先、教えてもらえば良かった……)

 今日も、屋上のチョークアートは完成していない。
 だから、私も織原くんも、進路さえ決まれば屋上で再会できると信じていた。
 チャイムが鳴って、勉強していた手を止めて。
 昼休みと放課後が訪れたときだけ、屋上に顔を見せて。
 そんな毎日を繰り返していくけど、今日も私は織原くんに会うことはできない。



『藤島さん』



 織原くんの、私を呼ぶ声が記憶の中から薄れていく。
 織原くんに呼んでもらえることを嬉しいと思っていたのに、その、大好きな人の声が記憶の中から失われていく。



『人と別れたときに、真っ先に記憶から失われるのって『声』なんだって』



 この言葉を織原くんに言われたのは、つい最近のことのはずなのに。
 この言葉を届けてくれた、織原くんの声を思い出そうって意気込まなきゃいけない日々が続いていた。


(忘れないって言ったのに……)

 織原くんが言っていた言葉は、本当だった。
 織原くんとの思い出はたくさん甦ってくるのに、私は織原くんの声だけを忘れてしまいそうになっている。

「……だって」
「嘘……」

 今日のお昼休みも、屋上には誰かの存在があった。
 屋上と校舎を繋ぐ扉の向こうから、美術部員かボランティアの人の声が聞こえてくる。

(挨拶だけでも……)

 屋上に繋がる扉へと手をかける。
 いつも屋上に案内してくれるのは織原くんだけど、今は自分の手で扉を開くことができるようになった。今日もいつも通り、私は自分の手で屋上へと向かう。

「亡くなったって……」

 はずだった。

「まだ誰にも言わないで、受験終わってない人がいるから……」

 足も、手も、動かなくなった。

「先生が、卒業式に話すって……」

 屋上に向かうはずの足も、手も、冬の寒さに負けてしまったかのように凍りついてしまった。