「……っ! はぁっ、はぁっ……!」
俺は全力で夜の町を走っていた。楓とのリハビリでどうにかできるようになった軽い運動の域は、とっくに超えている。
「はあっ……! はあっ……!」
でも、身体がぶっ壊れても構わない。もう運動ができなくなっても構わない。今だけは、彼女に会うまでは、どうにかもってくれ。
そう願いながら、俺は必死であちこちを駆けずり回った。
楓は、家には帰っていなかった。夕方にちょっと遅くなるとだけ電話があったきり、連絡がつかないようだった。
学校にも、いなかった。一緒にたくさんの思い出を作ってきた場所は夜の闇に包まれ、静まり返っていた。
時々寄り道をする公園にも、いなかった。彼女とたくさんお喋りしたり、ブランコを漕いだり、あるいは緊張しながら告白した記憶が蘇ってきただけだった。
思いつく場所はすべて回った。けれど、楓はどこにもいなかった。
彼女の両親同様、俺のメッセージにも既読はつかず、電話にもでない。
彼女は、楓は、完全に行方不明だった。
「……はあ、はあっ……!」
肺が痛い。足が痛い。けれど、そんなことはどうだっていい。
本当に、言い訳なんてできないほどに、俺はバカだと思った。
――僕はお兄さんの恋人、樋本楓とも契約を交わしてたんだ。彼女は不治の大病を患っててね。病気を治してほしいなら、恋人である新城俊哉と、2週間以内に100回手を繋ぐように、ってね。そういえば、お兄さんと会ったすぐ後だったっけ。すごい偶然だねー。
少年の言葉が、頭から離れなかった。
――僕は契約期限の前日となった昨日に、今日みたく彼女にお祝いを言いにいったんだ。どうやら達成できそうだねーって。そうしたら、『俊哉くんが最近元気ないんだけど、知ってることあったら話して』なんて言うもんだから、お兄さんの余命のことを喋っちゃった。
胸の奥が、焼けそうなくらいに熱くて痛かった。
楓が病気、それも不治の病だなんて、想像だにしていなかった。
いったいいつから?
なんで楓が?
どうして俺は、気づいてやれなかった?
様々な疑問や後悔が濁流のように押し寄せてきた。
しかも驚きは、それに止まらなかった。
彼女も、楓も、俺と同じ日に、同じように死神の少年と取引をしていた。
俺と2週間以内に100回手を繋げば病気を治してくれる、と。
普通に考えれば、簡単な内容だ。楓も喜んで応じるだろう。普段からよく手を繋ぐし、やや回数が多く条件付きとはいえ不可能ではない。不治の病を治して、これから先も生きていけるのであれば、俺だって絶対に受け入れる。そこに、デメリットはない。
だけど。
ここに、俺の余命が加われば、話は変わってくる。
病気を治すために、俺と100回手を繋げば、今度は俺の余命が尽きる。
少年は、俺と会ったすぐ後に契約を交わしたと言っていたから、楓と俺の回数に差はない。
つまり、楓が助かるためには、病気を治すためには、俺の余命をゼロにするしかない。
そのことを、楓は知ってしまった。
――私、俊哉くんと別れたい。
楓が俺に告げた、別れの言葉。
あれは、俺と同じ考えだったんだ。
恋人を悲しませたくないから、恋人の心に一生消えない傷を作るようなことはしたくないから。
しかも彼女は、なるべく俺が傷つかないような理由を並べた。
あくまでも原因は自分のせいで、俺のせいではないのだと。
どこまでも相手のことばかりを考えて、自分ばかりが損をする優しさだった。
「……っ! 楓……!」
俺は走った。とにかく走った。
旅行中の楓の笑顔が浮かんだ。
楽しそうにはしゃぐ楓の声が聞こえた気がした。
俺の手を握る楓の温もりが思い出された。
でもあれは、万が一にも俺に気づかれないよう気丈に振る舞っていたんだ。最後の一回は決して握らないように気をつけながら、頑張って笑っていたんだ。
どうしても、楓に会わなければならなかった。
そんなこと、してほしくなかった。
けれど、それは俺もしようとしていたことだった。
いや……俺よりもっと、残酷で悲しい選択だった。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
俺は息も絶え絶えに、最後に思い当たった場所へと足を踏み入れた。
来れるところまで電車を乗り継ぎ、終電を過ぎていた区間はひたすら走った。
そうして辿り着いた駅の改札をくぐり抜けて、俺は彼女と別れたホームに降りた。
「はあっ、はあっ……か、楓……っ!」
「……ぁ……っ……俊哉、くん……」
駅のホームには、別れ際とは似ても似つかないほど涙にまみれた、大好きな人が立ち尽くしていた。