樋本楓は、同じ高校のクラスメイトで、俺の恋人だ。
 去年の3月。高校2年生に上がる直前に、俺から彼女に告白した。同じクラスであるうちに、疎遠になる前に気持ちを伝えておきたかった。もっとも、結果的には1年に引き続き2年も同じクラスだったわけだが。

 楓の答えは、OKだった。
 放課後。夕暮れ時の校庭の隅で、頬を真っ赤に染めながら、「私も、新城(しんじょう)俊哉(としや)くんのことが好き……です」と言ってくれたことは、今でも鮮明に覚えている。
 恥ずかしがり屋で、気持ちを伝えるのが不器用な楓にとって、それは一世一代の返事だったはずだ。あの時は俺も緊張していたけれど、彼女のそれは俺の100倍を優に超えていたに違いない。

 楓とは同じ中学だったが、そのころから感情表現が苦手だった。自信なさげで、妙におどおどとしていて、まるで怖がりな小動物みたいなイメージしかなかった。そのせいか、休み時間はいつも一人でいることが多いようだった。
 それでも、彼女は他人の何倍も優しかった。困っている級友には必ず手を差し伸べるし、慣れないながらも登校途中に道案内をしている姿も見た。遅刻してまで見ず知らずの他人を助けるなんて、俺にはできない。

 かくいう俺も、楓の優しさに助けられた人のひとりだ。
 俺は、高校1年生の一時期、大いに荒れていた。
 期待のホープとしてバスケ部に入った俺は、他校との練習試合で大怪我をしてしまい、思うようにスポーツができなくなって自暴自棄になった。些細なことで喧嘩はするし、成績は落ちるし、両親や先生から一方的に怒られるしで散々だった。
 友達とも疎遠になり、誰もが距離を置くなかで、唯一近づいてきたのが楓だった。
 楓は、部員や事情を知っている先生みたいに同情してこなかった。当時の他のクラスメイトのように興味本位で事情を訊いてくることもせず、口数少なめにいつの間にか俺の近くにいるようになった。

「新城くん、その……お、おはよ……」

「ああ? 話しかけんじゃねーよ」

 睨みつけても、

「そ、掃除してるんだね……。わ、私も、手伝うよ……」

「るせーな。罰掃除なんだから、お前は関係ないだろ」

 無愛想にあしらっても、

「こ、これ……スポーツドリンク」

「……」

「えと、その……水分補給は、大事だから……。ここに、置いとくね……!」

 無視までしても、ビクビクしつつも離れなかった。ちょっとした世間話とか、最近あった嬉しいこととか、好きになった本の内容とか、どうでもいい話ばかりを挙動不審で必死に話していた。
 ドラマみたいな心に残る言葉も、映画のように感動的な展開もなかった。ただひたすらに、楓は俺に挨拶やしょうもない話をし続けていた。

 そうして気がつけば、あんなに荒んでいた気持ちが軽くなっていた。

「……なあ。ちょっとこの問題、教えてくんない?」

「う、うん! もちろん……!」

 放課後の教室で、一緒に宿題をするようになった。底辺争いをしていた成績が、真ん中ほどに食い込めるようになった。

「……っ、はあっ! タイムどうだ!?」

「う、うん、良くなってる……! 良くなってるよ! やったね……!」

 リハビリの自主練に付き合ってもらうようになった。簡単な運動なら前みたいにできるようになった。

「そこは恥ずかしがらずに、思いっきり口角を上げるといいぞ」

「こ、こうかな……?」

「そうそう。そしてあとは……目の淵と頬を横から挟み上げるんだ」

「こ、こう……!」

「……ぷっ。あはははははっ! そうそう! ほら鏡見て! めっちゃ面白い変顔!」

「……ふぇ? え、えぇっ……! ひ、ひどい! 新城くん、笑顔の練習って……!」

「そ、そうなんだけど……っ! はははっ、ごめん! つ、ツボった!」

「も、もう……っ! ……帰り道で、ジュース奢ってもらいます……から!」

 ふざけながら、笑顔の練習なんてものまで一緒にするようになった。
 楓は、素直だった。真っ直ぐだった。
 楓と過ごす時間が、楽しくて楽しくて仕方がなかった。

 だから、楓と恋人になれた時は本当に幸せだった。

 毎朝、隣に並んで登校する時間も。
 放課後に、くだらない話をしながら帰る時間も。
 休日に、普段は見ない私服姿で買い物や水族館に行く時間も。
 
 楓の手の温もりが愛おしくて、どうしようもなく大好きだった。

 それなのに……

「はぁ……」

 冬の残滓が漂う2月半ば。
 教室の窓から見える景色は、先週のそれとまったく変わっていない。
 どうにも退屈な数学の授業も、各々のモチベーションに応じた姿勢で授業を受けているクラスメイトたちも。
 ……右斜め前の席で、真面目にノートをとっている恋人の後ろ姿すらも。

「ちっくしょう……」

 微かなつぶやきは、俺にしか聞こえない。
 自分は怒っているのか、悔しがっているのか、悲しんでいるのか。気持ちの整理がつかず、感情のやり場がわからない。

 あと100回、楓と手を繋いだら、俺は……死ぬ。いや、朝手を繋いだから、あと99回か。

 朝、手を繋いだ時。
 確かに、「何かが減った感覚」があった。動揺しすぎて、楓を誤魔化すのが大変だった。
 本当に感覚的で、なぜわかるのかと問われれば説明はできない。
 ただ、「わかる」のだ。残りの回数を含めて……。

「……はぁ」

 もう、これは確定的だ。疑う余地がない。
 来月は、付き合い始めてちょうど一年。
 記念すべき日が来る前に、この恋の終わりは見えてしまった。

「楓……ごめん」

 真剣な面持ちで先生の話を聞いている恋人が、僅かに霞んで見えた。