翌朝。俺は普通に目覚めた。
といっても、ほとんど睡眠はとれていない。寝たのか寝てないのか。夢ともうつつとも知れないまどろみのなかで、あの言葉が繰り返し聞こえていた。
「……くそっ」
乱暴に毛布を放り、掛けてあった制服に着替えた。
いつも通り、食パン2枚を食べてコーヒーを飲み、「いってらっしゃい」、「気をつけてな」と笑顔で送り出してくれる両親にひらひらと手を振り、雑に鞄を肩にかけて玄関を出た。
眩しい朝日が目に染みるのも、自転車や早歩きで追い越していくサラリーマンや学生の姿も、なにもかもが本当にいつも通りだった。
あれは、夢だったんじゃないだろうか。
昨日家に帰ってから、ずっとそう考えていた。そう思い込まないと、平静を保っていられなかった。
――お兄さんの余命は、恋人の樋本楓と手を繋いだ回数だよ。残りの数は、100回だ。
「……っ」
けれど、あの少年の声は確かな実感を伴って耳の奥にこびりついている。本当に、俺は……
「お、おはよ……! 俊哉くん!」
そこへ、唐突に挨拶をかけられた。振り返ると、今一番会いたくなくて、今一番会いたい人が、小さく笑みを浮かべて立っていた。
「……おう。楓、おはよ」
樋本楓。
同じ高校の制服に身を包み、俺よりも頭2つ分は小さい、小動物みたいな女の子。
内気で、緊張強いで、気が弱いけれど、底なしに優しくて、照れ屋で、素直な女の子。
もうすぐ付き合って1年になる、俺の大切な恋人だ。
昨日の日曜日も、一緒に水族館に行ってすごく楽しかった。
それなのに……その帰りに、俺は……。
「……ん? 俊哉くん、その、どうかした?」
ぼんやりと彼女に目を向けていると、不思議に思ったのか、楓はこてんと首を傾げた。俺は慌てて手を横に振る。
「あ、ああ、いや。なんでもない。ちょっとぼーっとしてただけ」
「大丈夫? 寝不足……とか? その、ちゃんと寝ないと……ダメだよ?」
「ああ、大丈夫。それより、学校遅れるから行こうぜ」
「う、うん!」
それから、どちらともなく歩き出した。
いつも楓と合流する路地から、俺たちの通う高校までは徒歩でおよそ20分。たいして長くもない時間だけれど、俺は楓と並んで歩くこの20分間が好きだった。
「それでね、朝から私もお母さんも大慌てだったんだ」
「ははっ、それは確かに慌てるな。でも見つかってほんと良かったな」
今日の話題は、楓が家で飼っている猫が朝から行方不明で、逃げたんじゃないかと家族全員で探し回ったというもの。もっとも、当の猫は洗濯機の中で丸まってあくびをしていたとか。なんて平和な。
本当に、取り止めのない話。何気ない日常の一コマで、これからもずっと続いていくものだと信じて疑わなかった。けれど……。
「……あの、えと、俊哉くん……」
感傷に浸りかけたその時、おずおずと楓が俺の名前を呼んだ。見れば、なにやら手をもじもじさせている。
ああ、好きだな、と思った。
これも、いつものこと。甘え下手で内気な楓の、精一杯の感情表現。
俺は……そっと空いた右手を差し出した。
「ほら」
「う、うん……!」
ぱああっと、楓の顔が輝く。
また、好きだなぁ、なんて思ってしまう。恋は病だというけれど、確かにこれは病だ。
余命だと言われたのに、それでも恋人の笑顔が見たくて、手を繋いでしまうんだから。
それから俺たちは、いつものように手を繋いだまま、学校まで笑い合った。