星空が見えた。
 街灯が見えた。
 木々が見えた。
 道路の端に仰向けに寝転がり、俺は視界のひとつひとつを確認していく。

「俊哉くん……っ!」

 楓が、見えた。
 また、声が聞こえた。
 受け身なんてとれるはずもなく、強めに打った背中がじんじんと痛んだ。

 けれど、それよりも、なによりも。
 両腕と右手の中にある温もりに、この上ない愛おしさと安心感を覚えた。

「俊哉くん! ねぇ、俊哉くん……!」

「ん……なに?」

「どうして、どうして……!」

 胸のあたりがじんわりと熱い。
 見れば、楓が大粒の涙を零していた。
 いつの間に、楓はこんなに泣き虫になってたんだろう。
 俺は、空いた左手で彼女の頭を撫でた。

「んなの、当たり前だろ……。俺は、楓の恋人だ。彼氏だ。彼女を救うのは、彼氏の役目だ」

「そんなの……逆だって、そうじゃん……!」

「ああ、そうだな。俺だって、楓に助けられた。すんげー助けられた」

 部活で大怪我をして荒んでいた時も、恋人になってからも、ずっと助けられていた。

「すんげー助けられたから、最後にかっこつけられて、良かった」

「やだ、やだよ……」

 ぽたり、ぽたりと、楓の大きな瞳から涙が落ちてくる。頬のあたりが、温かい。

「やだ……俊哉くん、お願い……死なないで……!」

「死神のやつから、聞いただろ。俺は、一度交通事故で死にかけた……いや、死んだんだ。だから、拾った命で、大好きな楓のことを助けられるなら、本望だ」

「そんなの……ずるいよ……ひどいよ……」

「ああ、そうだな……」

 確かに、その通りだと思った。
 逆の立場だったら、俺も同じことを言っていた。
 本当に俺はずるくて、ひどい男だ。

「だからさ、そんなずるくてひどい男のことは忘れて、どうか幸せになってくれ、楓」

「やだ! やだやだやだ……っ! お願い……私を、ひとりにしないでよう……ううっ……」

「ははっ……。意外と、わがままだったんだな……」

 もっと楓と一緒にいられたら、さらにいろんな楓を見られたんだろう。
 わがままな楓。
 本気で怒った楓。
 ドジな楓。
 笑った楓。
 嬉しそうな楓。
 幸せそうな、楓。

「見たかった、なあ……」

 ぎゅっと、繋いでいた楓の手を握り締める。
 楓も握り返してきた。
 大好きだった温もり。
 今も、大好きな温もり。
 忘れないように、俺はさらに握る。
 楓も、さらに握り返してくれた。

「楓。もうすぐ、0時だ。死神の性格的に、きっと俺はその時に死ぬんだろうから、どこかへ行ってくれないか」

「っ……なん、で……」

「恋人が目の前で死ぬトラウマなんて、楓に味わってほしくないから」

「そんな……そんな……っ!」

 本当に、幸せだった。
 短かったけど、満たされた人生だった。
 楓も助けられて、後悔はない。
 逆の立場だったら、後悔だらけだったくせにな。
 俺は、楓の手を握る力を、そっと緩めた。

「俊哉くん……やだ……まって……」

 楓。
 どうか、こんな自己中なやつのことは忘れて、新しい好きな人を見つけて、幸せに、なって――。


「――やーやー、どうもー。こんにちはー」


 また、突然に声が響いた。
 驚いて、声のほうに目を向ける。

「くくっ。感動的な場面に失礼するね、お兄さん、お姉さん」

「あ、あなたは……っ!」

「お前、もしかして俺の命をもらいにきたのか?」

 俺は楓を抱きしめたまま、どうにか上半身だけを起こす。
 視線の先。街灯の明かりが届かない暗闇に紛れるようにして、黒フードの少年が立っていた。

「いやー、だったら良かったんだけどね。そうじゃなくて、お兄さんにお姉さんも、早とちりもいい加減にしてほしいなーって思ってさー。つい出てきちゃった」

「は?」

「え?」

 思いがけない死神の言葉に、俺も楓もぽかんと口を開けた。早とちり?

「最初にも言ったけど、お兄さんの100回はゲームでいう残機、残り数なんだ。その数は、今はゼロ。つまり、次に手を繋いだら、お兄さんは死ぬんだよ」

「「え」」

 俺と楓の声が、重なった。

「もちろん、お姉さんの病気は治してあげる。これは100回手を繋いだら、って契約だったからね。条件だって破ってないし」

「そ、それじゃあ……」

「あーでも、繰り返すようだけど、次に手を繋いだら問答無用でお兄さんの命はもらうからねー。まったく、勘違いもほどほどにしてよね。んじゃ、またねー」

 薄ら笑いを浮かべた死神は一方的に死の宣告をすると、音もなく消失した。

「……」

「……」

 遠くで、救急車の音が聞こえた。
 そういえばと辺りを見れば、トラックの運転手が遠巻きに俺たちのほうを見ながら、必死に電話をかけている。

「……」

「えと、俺……」

 気まずい沈黙が流れた。
 あれだけ最期の雰囲気を醸し出してかっこつけたのに、どうやらまだ死なないらしい。しかも、楓の病気も治るんだとか。

 ……どうするんだ、この空気。

 俺が必死に次の言葉を探していると、コツンと額に軽い感触があった。

「ねぇ……俊哉くん」

 楓だった。
 楓が、自分の額を俺の額にくっつけていた。

「え……な、なに?」

 楓の顔が近い。恥ずかしさのあまり、声が裏返る。

「私ね、俊哉くんと……ずっと一緒にいたい」

「あっ――」

 それは、唐突だった。
 唇に、柔らかな感触があった。
 そして、繋がれた右手に力が込められ、楓が抱きついてきた。
 温かかった。
 かけがえのない温もりは、まだそこにあった。だから――

「ああ……俺もだ。俺も……楓とずっと一緒にいたい」
 
 しっかりと抱き締め返して、俺は心に誓う。

 たとえ、この手の温もりが最後だったとしても。

 もう一生、楓と手を繋げないのだとしても。

 俺は楓の、大好きな人のそばにいる。


「俊哉くん、大好き……です」

「俺も……楓が、大好きだ」


 潤んだ瞳に吸い込まれるように、俺たちは再び唇を重ねた。
 しっかりと楓の手を握って、心に刻み込む。

 君の手の温もりを、永遠に忘れないように――。