あっ――。
そう思った時には、すでに遅かった。
夕暮れ時の横断歩道。
信号が青になったのを確認してから渡ったのに、次の瞬間にはつんざくようなクラクションとブレーキ音が鳴り響いていた。
迫り来るトラック。そのスピードは明らかに法定速度を超えており、接触すれば確実に死ぬ。
そこまで認識したと同時に、物凄い衝撃が全身を貫き、俺は軽々と宙を舞って、硬いコンクリートに身体が撃ちつけられ…………撃ちつけられ……?
「……あれ?」
いつまで経っても衝撃どころか、痛みもぶつかった感触すらもない。不思議に思い、俺は反射的に顔を庇った手をゆっくりと下ろした。
「え……?」
目の前に広がっていた光景に、俺は唖然とした。
すぐ真横。あと僅か数センチというところで、トラックが止まっていた。
ブレーキが、間に合った?
一縷の望みともいうべき可能性が脳裏をかすめる。けれど、それは無慈悲にもすぐに打ち砕かれた。
「これ、は……」
トラックの真横を走っている車も止まっていた。
歩道にいる歩行者も止まっていた。
横断歩道の先にいる学生と主婦らしき女性は、顔を覆ったまま止まっていた。
木々も、鳥も、雲も、ありとあらゆるすべての物が静止していて、ほかの音がなにも聞こえなかった。
「時間が、止まってる……?」
「ピンポンピンポン、だいせいかーい!」
ブレーキが間に合うよりも確率の低い可能性を口にした時、唐突に少年の声と拍手の音が響いた。俺は驚いて声のほうを見る。
「あれー? どうしたのー?」
そこには、黒いフードを被った少年が立っていた。パーカーに短パン、スニーカーとラフな装いで、ポケットに手を突っ込んでいる。その外見に、見覚えはない。
「もしかしてー、お兄さん、死神を見るのは初めて?」
「しにがみ?」
「そう、死神。僕はねー、お兄さんの命をもらいにきたんだー」
少年はポケットに手を入れたまま、俺に一歩近づいた。口元が怪しく歪む。
「俺の、いのち……?」
「そうそう。命を回収するのが死神の役割だからねー。スピード違反の信号無視トラックにひかれるとか、お兄さんも運がなかったねー」
「お、俺は……死んだ?」
背中に冷たいものを感じ、後ずさろうとして気づいた。手を下ろした時は動いた身体が、今はまったく動かない。
「あーダメだよー。今は時間を止めてるんだから、必要以上に動いたらさー」
「……っ」
「と、いうわけでさ。お兄さんの命、もらうね?」
これ以上の問答は無用といった様子で、また少年が俺に近づいた。やはり身体は動かない。
どうやら、俺の人生はここまでらしい。楓……ごめん。
俺が心の中で恋人に謝ったのと同時に、クスリと小さく笑う声が聞こえた。
「……っと思ったけど、やっぱやーめたー!」
「は?」
「お兄さんにさ、一度だけチャンスをあげるよ」
呆然とする俺をそっちのけで、少年はさらに近づいてきた。
「今回の事故は、なかったことにしてあげるー。つまり、お兄さんはまだ死なずに生きてられるの」
「ま、マジで?」
「マジマジ、大マジだよー。僕、やさしいからさー。あ、でも」
少年は手の届く位置まで来ると、俺の顔を覗き込んできた。フードの下から見える笑みが、さらに深まる。
「余命付き、だけどね」
「え?」
思考が停止する。
余命付き。
その言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。そして、見計らったようなタイミングで少年が言葉を続ける。
「当然でしょー? さすがに無条件ってわけにはいかないよー」
「ま、まあ、それはそうかもしれないけど」
確かに、それは少年、もとい死神の言うとおりだ。ほとんど死が確実となった今において、その死をなかったことにしてくれるというならば、なにかしらの代償や条件がつくのは筋だろう。
ただ、そうなると気になるのは、俺があとどれだけ生きていられるのか、だ。彼の言いぶりからして、良くて10年か。あるいは5年か、もっと短い1年か。それとも……
「あーちなみに言っておくと、余命の単位はよくありがちな時間じゃないからね」
「は?」
また、思考がフリーズする。こいつは、いったいなにを言っているのか。
「お兄さんの余命は時間じゃない。回数だ」
「回数?」
「そう、回数。あることを指定した回数おこなった後、お兄さんは死んでしまう。ゲームでいう残機みたいなものだよ。どう? こっちのほうが数えやすいし、いいと思わない?」
「数えやすいって……。というか、あることってなんだ? まさか教えないって言うんじゃ……」
「ダイジョーブ! ちゃんと教えてあげるよ。回数も感覚的にわかるようにしてあげるから、感謝してよね」
クックックと少年は不気味な笑い声を発した。
その間、動かない身体に代わって、俺は必死に回り損ないの脳をフル回転させようとして……やめた。
死神が指定する、あること。
それをある回数おこなった後、死ぬ。
呼吸や睡眠、食事など生きるのに必要なものが真っ先に思い浮かんだ。
でも……それでも、今すぐ死ぬよりはマシだ。
まだまだやりたいことだってあるし、両親にだって申し訳ない。
それになにより、俺には離れたくない大切な人がいるから――。
そう思った時、少年は薄ら笑いを浮かべて言った。
「お兄さんの余命は、恋人の樋本楓と手を繋いだ回数だよ。残りの数は、100回だ」
それだけ言い残すと、反論する間もなく少年は忽然と姿を消した。
俺の真後ろを、物凄いスピードのトラックが駆け抜けていった。