私は座敷わらしだ。私は、いるようでいない、そして、いないようでいる、そんな妖だ。座敷わらしは古い家にずっと住み着いていると思われているが、実際はそうではない。むしろ短い間に家から家へと転々として、その家の家族に成りすまして暮らしている。
今の私は、中学二年生の吉田由紀江ということになっている。しかし、この町での暮らしも、もうすぐ終わりだ。この土地の神様が許してくれた時間は二年で、今日がその最後の日だ。日が沈む前に、私は町はずれの橋を渡って、この町から出て行かなければならない。日没まで、もう三十分もなかったが、私は未だに、春休みで誰もいない教室に残ったまま、満開を迎えた校庭の桜をぼんやりと見ていた。
私はいつ、どこで生まれたのか知らない、人間のように両親がいたのか、その記憶もない。一体どれだけ旅を続けてきたのかもわからない。
ただ、自分が旅を続ける宿命であることだけは良く分かっていた。私は新しい土地に入る度に、その土地の神様に、そこで暮らす許しを得なければならなかった。許されるのはせいぜい二年か三年の短い間で、それが過ぎれば、また他所の土地に行かなければならなかった。
そうしなければならないことは知っていたが、自分がどのようにしてそれを知ったのか覚えていない。しかし、その決まりを破ると座敷わらしは死ぬ、消滅して二度と蘇ることはないことは悲しいほどに良く分かっていた。
町外れの橋を渡った瞬間に、「吉田由紀江」はこの世から消えてなくなる。人々の記憶からも、書類その他の記録からも全て消え失せて、この町に私は初めからいなかったことになるのだ。しかし、記憶の断片のような物が人々の中に残るようだ。例えば私のクラスメートたちは、自分たちのクラスには、いるはずもないのに、もう一人生徒がいたような気がすることになるらしい。
二・三年毎に仮の両親や友達を全て失う暮らしが、一体いつまで続くのか私は知らない。しかし、そういう孤独な旅にも、すっかり慣れてしまったと思っていた。だが、今度ばかりは少々勝手が違った。
いつもなら最後の日は、早々にその土地を離れてきたものだったが、日没が近づいた今となっても教室に留まっているのには訳があった。この町を去り難かったのだ。なぜかと言うと、初めて人間の男の子に恋をしてしまったからだ。
今までも私は人の温かさに包まれて生きてきた。今回の仮の両親も優しい人たちだった。今朝、家を出る時に心の中で感謝し、別れを告げてきた。今回の同級生たちと過ごした日々も楽しかった。みんなが私のことを忘れてしまうのは残念な気がした。しかし、そういうことは何度も繰り返してきたことだった。
けれども今まで、私は人間の男の子に恋をしたことは一度も無かった。人間の恋がどういうものか、それはもう数限りないほど見てきた。だが、自分自身には恋は縁がないものだった。
人として暮らしていれば、人間の男の子に思いを寄せられたことは何度もあったが、自分が相手を異性として好きになったことは一度も無かった。人間より遥かに長く生きてきたというのに、私の世界には恋は存在していなかった。しかし、それはある日、突然に実在するものとなった。
一年前、彼は転校生として私の目の前に現れた。教卓の脇に立った彼が自己紹介をする前に、つまり一言も口をきかないうちに、私はもう恋に落ちていた。彼の容姿は人並みで、女の子なら誰でも心惹かれる美男子という訳ではなかった。彼の何がいったい、そんなにも私を惹きつけたのか、今もって私は分かっていない。
私は出席番号が最後だったので、彼の席は私の後ろに設けられた。清掃班も同じだったので、接触の機会も多かった。私は転校生に優しい生徒を装い、クラスの女子の中では一番彼と親しい間柄になった。
体育祭、林間学校、文化祭、私はいつも、何気なく彼の傍にいられるように試みてきた。彼もそれを拒むことはなかった。そんなわけで、私たちの仲が怪しいという噂が立ったが、私たちの中は友達の域を超えるものではなかった。
彼には別にガールフレンドがいるわけではなかった。かといって女子では一番親しい私に告白をしてくることもなかった。今の時代なら女子の自分の方から告白するのもありだったが、私にはそれはできなかった。一年足らずで彼の記憶から消える私には、その資格はないと思ったからだ。
そして私は、とうとう今日まで、彼の傍にいても自分の想いを告げることもできないまま、楽しくも切ない日々を過ごしてきたのだ。
黒板の上の時計で時刻を確かめて、私は教室を出た。そして、昇降口近くの物陰に身を潜めた。聞こえが悪いが、要するに私は彼の待ち伏せをしたのだ。
部活を終えた彼が、間もなく昇降口に現れるはずだった。もちろん、この期に及んで告白などするつもりはなかった。校門まで一緒に歩いて、心の中で最後のお別れを言うつもりだったのだ。
思惑通りに彼がやってきて、下駄箱の蓋を開けたところで、私も自分の下駄箱の前に歩いて行った。
「やあ、吉田さん。今、帰り?」
彼の方が声を掛けてくれた。嬉しかった。
「うん、ちょっと図書室で調べ物をしていたの」
「そうか、僕はちょうど部活が終わったところ」
言われなくても知っていた。待ち伏せしていたのだから。
私たちは、共に外履きに履き替えて昇降口を出た。夕日は、もう最後の坂を下り始めていた。
私たちは校門までの道を並んで歩いた。校門を出れば、私たちの帰り道は逆の方向だったので、そこでお別れだった。校門までのほんのわずかな道のりが、私たちが共に過ごせる最後の貴重な時間だった。しかし、私は何一つ彼に掛ける言葉が見つからなかった。いつもなら色々と話しかけてくれる彼も、なぜか今日は沈黙を通していた。何か思い詰めているように見えなくもなかった。
そして私たちは、結局、一言も口を聞かないまま校門にたどり着いてしまった。私は泣き出しそうになる気持ちを必死に抑えて、また会えるような振りをして、いつも通りの挨拶で彼に別れを告げた。
「じゃあ、またね。さよなら」
ところが彼は、私に挨拶を返してこなかった。そしてなぜか、妙に真剣な目で私の顔見ていた。それから、意を決したように話を切り出した。
「吉田さん、ちょっと話したいことがあるんだ。とりあえず向こうに行こうか」
彼は学校の前の公園を指さした。
「あ、うん」
私は予想外の展開にひどく驚いた。この町を出る時間が迫っているというのに、私は彼の言葉に逆らうことができなかった。
それから私たちは公園のベンチに並んで腰を下ろした。彼は一つ深呼吸をすると、溜まっていたものを一気に吐き出すように、信じがたい言葉を口にした。
「僕は吉田さんのことが好きなんだ。転校してきた日に、一番後ろに座っていた吉田さんを見た瞬間に、もう好きになってた。いわゆる一目惚れってやつ。だから、僕と付き合って欲しいんだ」
私は一瞬、頭の中が真っ白になった。だが次の瞬間、喜びが一気にこみあげてきた。ああ、彼も私のことを想っていてくれたのだ。そう思うと、とても嬉しかった。
しかし、そんな思いはほんの一瞬だった。お互いの気持ちが通じたところで、今更どうなると言うのだ。彼の私への想いは、あと十五分もすれば消えてしまうのだから。
私はこぼれそうになる涙を必死に抑えた。私の様子を見て、拒絶されると思ったのか、彼は落胆したような声で問いかけてきた。
「ダメなのかな?吉田さんは、僕じゃダメなのかな?」
「そうじゃないの。そうじゃないの、でも・・・」
私は、そう言うのが精いっぱいだった。堪えていた涙が一気に溢れ出してきた。
「吉田さん、やっぱり他に好きな人がいるのかな?」
問いかける彼の声には落胆の色が更に濃くなった。
「違う。違うの。そんなことじゃないの」
私はすっかり冷静さを失っていた。どうしたらいいのか、まるで分らなかった。どうにかして彼の顔を見ると、彼は悲しげな瞳で私を見ていた。彼の目を見た瞬間、私は真実を全て包み隠さずに話すべきだと思った。適当な嘘をついても、あと十五分もすれば彼は全てを忘れてしまうのだから、その方が良いという気もした。しかし、たとえ彼が忘れてしまうとしても、私は真実を伝えたかった。嘘をつきたくなかった。
私はハンカチで涙を拭ってから、静かに話し始めた
「ねえ、これから私が言うことを信じてほしいの。ううん、信じなくてもいいから、信じたふりをして欲しいの。それから、何も言わずに、日が沈むまで私に付き合って欲しいの。良いかしら?」
彼は黙って大きく首を縦に振った。そして私は、今まで人間には打ち明けたことのない自分の正体を明らかにした。
「私はね。人間じゃないの。座敷わらしなの」
彼の目が大きく見開き、ショックの大きさが感じられた。それから彼の表情は何か言いたそうなものに変わったが、彼は約束通り何も言わないでいてくれた。
彼が約束を守ってくれたのに安心した私は、自分の気持ちを彼に伝えることにした。
「私もね、あなたのことがずっと好きだったの。あなたと同じように私もあなたに一目惚れしちゃったの」
そう聞いて彼の表情は嬉しそうなものに変わったが、同時に「だったらなぜ?」と問いかけているようでもあった。私は彼の無言の問いに答えることにした。
「あなたのことはずっと好きだったけど、それを伝えてはいけないと思っていたの。だって私は、いずれはあなたの思い出からも消えてしまう運命だったから。実はね、私、あとに十五分もしないうちに、日が沈む前にこの町から出て行かなければならないの。町外れの橋を渡ったら、私は初めからいなかったことになるの」
そこまで言って、私は一度言葉を切った。彼の表情は読みにくかった。戸惑っていることくらいは分かった。彼が約束通り何も言ってこないことを良いことに、私は一方的に自分の気持ちを語り続けた。
「でも、もし、あなたがもっと早く気持ちを伝えてくれてたら、どうなったかな?すぐに思い出から消えてしまうと分かっていても、きっと好きという気持ちを抑えきれずにあなたのガールフレンドになってたような気もする」
一方的に気持ちを伝える自分がし後ろめたくなった。
「一方的でごめんね。一方的ついでに、あなたにお願いがあるの。私を橋まで見送って欲しいの。そして、そこであなたに、それからこの恋に『さよなら』を言いたいの」
彼の表情は相変わらず読みにくかったが、少し和らいだような気がした。
私が言いたいことを全部言ってしまうと、彼はベンチから立ち上がり、私に右手を差し出した。私は左手で彼の手を取って立ち上がった。そして、私たちは手をつないで橋の方に歩き出した。
最初で最後の、そして、わずか十分ちょっとのデートの気分だった。町は夕映えの色に染まっていた。二年の時を過ごした町は、最後の瞬間に最も美しい顔をみせてくれたような気がした。
今では、もうほとんど見られなくなった名画座の前を通り過ぎた。ここで彼と一緒に映画を見る夢を何度も見た。結局、それは夢のままで終わった。
それから、チェーン店ではない昔ながらの喫茶店の前を通り過ぎた。昔風な店内でコーヒーを飲みながら彼と話がしてみたいと思っていた。それもまた、儚い夢だった。
もし、もう一日でも早く、彼が告白をしてくれていたら、そんな夢が叶ったのだろうかと思った自分が情けなかった。
手をつないだまま、私たちは街並みを抜け、橋に続く土手の上に出た。そして、すぐに私たちは、この町の唯一の名所の桜並木に差し掛かった。土手の上の細い道の両側に桜が密集して植えられていた。満開の桜は、今まさに薄紅色の花の回廊を作り上げていた。
土手の両側には一面の菜の花が、どこまでも広がる黄色い絨毯のように橋の方へ続いていた。桜も菜の花も夕映えの光を受けて、ほのかに赤く染まっていた。
そして、私たちはいよいよ花の回廊を歩き始めた。いきなり信じられないような話を聞かされ、一方的な要求を突き付けられた彼は、今、私のことをどう思っているのか、気にならないと言えば嘘になった。しかし、約束通り沈黙を通してくれている彼の手からは、優しい想いが伝わってくるような気がした。私の想いは、はたして彼に伝わっているのだろうか?聞いてみたい気もしたが、今はお互い、沈黙を通すしかなかった。
夕映えの空の下、桜の回廊は、ただただ美しかった。私たちは何一つ言葉を交わさないままに歩き続けた。この桜の回廊が果てしなく何処までも続いていたらどんなに良かっただろう?そんな馬鹿なことを考えた。しかし、そんなこともあるはずはなく、たとえあったとしても私にはもう歩き続ける時間がなかった。
私には、彼の手から伝わる温もりをこの手に残し、ほんの僅かな時間だけ、互いを思い合う者として歩けた時間を心に刻み込むことしかできなかった。
時おり桜の花びらが微かな風に乗って舞い落ちてきた。短いと言われる桜の花の命よりも更に、自分の恋の幸せは短かった。桜の回廊の終わりが、すでにもうそこまで迫っていた。私はただ、涙を堪えるしかなかった。
そして、とうとう、私たちは桜の回廊を通り過ぎ、橋の袂まで来てしまった。そして、そこで私は彼の手を離し、彼と向き合った。
夕陽は、もう山の向こうに消えようとしていた。考える時間がなかったせいか、普通ならとても言えそうにない言葉があっさりと口からこぼれた。
「ねえ、キスして」
彼は、微かな笑みを見せた後、両手で私の頬を包んだ。そして、ゆっくりと唇を重ねた。
その瞬間、最高の幸せと悲しみが一度にやってきた。この幸せはどうしてほんの一瞬しか続かないのか、そう思うったら全身がちぎれそうな気がした。再び流れ出した涙を、もはや、せき止めるすべはなかった。拭おうという気にもなれなかった。
彼が唇を離した瞬間に、私は一気に駆け出した。悲しかった。そんな単純な言葉でしか表現できないくらい悲しかった。そして、その悲しみは私の足を動かなくした。もうダメだと思った。こんな悲しみを抱いたまま、また孤独な旅を続けることはもうできないと思った。もう、元には戻れないと確信した。
私は急いで引き返すと彼の胸に飛び込んだ。そして、思い切り彼を抱きしめた。もういい、私はもう十分に生きた。このまま、この幸せな温もりに包まれたまま消えてしまおう。そう決めたことに、まったく何の迷いもなかった。
そして、私の余命は1分そこそこになった。
しかし、ことは私の思った通りには行かず、予想外のできごとが起こった。彼は強引に私を引きはがすと、私の手を取って一気に走り出したのだ。理由も何も考える間もなく、私も彼と一緒に走り出していた。
橋の真ん中に来た辺りで、夕陽はもう山の上にわずかな欠片を残すだけになっていた。彼はそこから更に速度を上げた。私は引かれた手がちぎれそうな気がした。そうして、橋を渡り切った瞬間に夕陽が山の向こうに消えた。同時に私の手から、彼の手の温もりが消えた。
橋を渡り切った瞬間、彼は私の手を放していた、そして今は、両手を膝に当てて荒くなった呼吸を整えていた。
私はといえば、息が切れてその場にしゃがみこんでしまっていた。私の方を見た彼の顔は夕映えの光を受けて微かに薄紅に染まっていた。彼の目には、もう自分の姿が映っていないのだと思ったら、彼の突然の行動に驚いて止まっていた涙がまた出そうになった。そのまま見つめていると、彼が口を開いた。
「勘弁してよ。焦ったよ。君、あのまま消えるつもりだったの?」
彼の声は決して大きくはなかったが、雷のように衝撃的だった。
「どうして?」
それ以上の言葉が出なかった。思いは頭の中で渦を巻き、言葉は喉に使えたままになった。私は立ち上がって彼の姿をまじまじと見た。彼も膝から両手を離し、驚いたままの私の方に近寄ってきた
「どうしてって、簡単なことさ。君と一緒で、僕も座敷わらしだからだよ」
「嘘でしょう」
彼の言葉がにわかには信じられなかった。
「君がそう思うのも無理はないね。僕だって、ついさっきまで、君が座敷わらしだなんて思ってもみなかったんだから。座敷わらし同士は相手が人間にしか見えないんだね。初めて知ったよ」
真相がわかり気持ちが落ち着くと、私は彼のことが少しだけ憎らしく思えた。
「だったら、何でもっと早く言ってくれなかったの?私のバカみたいな様子を黙って見て楽しんでたわけ?」
「まさか、そんな悪趣味じゃないよ。それに、何も言わないでいてくれと頼んだのは君の方じゃないか」
「まあ、それはそうだけど」
確かにその通りだったが、そう反論されると少し悔しかった。
「ごめんね。決してからかうつもりなどなかったんだ。黙っていたのは、君の気迫に押されたっていうのが一番の理由かな」
「私を鬼みたいに言わないでよ」
「ああ、ごめん。ごめん。気迫というよりは、真剣な思いと言った方が良かったかな?」
「私、そんなふうに見えてたの?」
「うん、真剣そのものだった。だから言われた通りにしようと思ったんだ。僕も座敷わらしだと言ったところで、君は信じてくれなかっただろうし」
「そうかも知れないわね」
彼の言ったことはおそらくその通りだと思った。
「それに、あれこれと説明している時間もなかったしね。とりあえず言われた通りにして、橋を渡った方が話が速いと思ったんだ」
彼の判断が冷静であればあるほど、私は自分のしたことが恥ずかしくて仕方がなくなってきた。
必死に照れ隠しをしている私の前に彼が手を差し出してきた。
「さて、じゃあ、一緒にこの土地の神様の所に行こうか」
私は差し出された彼の手を取った。彼の手の温もりが、もう、すぐに消えることはないと思うと嬉しかった。これからも、ずっと旅が続いたとしても、それは、もう孤独な旅ではないのだ。
私はふと、対岸の桜並木を見た。まだ、夕映えに染まったままの桜は、私たちの新たな門出を祝ってくれているような気がした。
終
今の私は、中学二年生の吉田由紀江ということになっている。しかし、この町での暮らしも、もうすぐ終わりだ。この土地の神様が許してくれた時間は二年で、今日がその最後の日だ。日が沈む前に、私は町はずれの橋を渡って、この町から出て行かなければならない。日没まで、もう三十分もなかったが、私は未だに、春休みで誰もいない教室に残ったまま、満開を迎えた校庭の桜をぼんやりと見ていた。
私はいつ、どこで生まれたのか知らない、人間のように両親がいたのか、その記憶もない。一体どれだけ旅を続けてきたのかもわからない。
ただ、自分が旅を続ける宿命であることだけは良く分かっていた。私は新しい土地に入る度に、その土地の神様に、そこで暮らす許しを得なければならなかった。許されるのはせいぜい二年か三年の短い間で、それが過ぎれば、また他所の土地に行かなければならなかった。
そうしなければならないことは知っていたが、自分がどのようにしてそれを知ったのか覚えていない。しかし、その決まりを破ると座敷わらしは死ぬ、消滅して二度と蘇ることはないことは悲しいほどに良く分かっていた。
町外れの橋を渡った瞬間に、「吉田由紀江」はこの世から消えてなくなる。人々の記憶からも、書類その他の記録からも全て消え失せて、この町に私は初めからいなかったことになるのだ。しかし、記憶の断片のような物が人々の中に残るようだ。例えば私のクラスメートたちは、自分たちのクラスには、いるはずもないのに、もう一人生徒がいたような気がすることになるらしい。
二・三年毎に仮の両親や友達を全て失う暮らしが、一体いつまで続くのか私は知らない。しかし、そういう孤独な旅にも、すっかり慣れてしまったと思っていた。だが、今度ばかりは少々勝手が違った。
いつもなら最後の日は、早々にその土地を離れてきたものだったが、日没が近づいた今となっても教室に留まっているのには訳があった。この町を去り難かったのだ。なぜかと言うと、初めて人間の男の子に恋をしてしまったからだ。
今までも私は人の温かさに包まれて生きてきた。今回の仮の両親も優しい人たちだった。今朝、家を出る時に心の中で感謝し、別れを告げてきた。今回の同級生たちと過ごした日々も楽しかった。みんなが私のことを忘れてしまうのは残念な気がした。しかし、そういうことは何度も繰り返してきたことだった。
けれども今まで、私は人間の男の子に恋をしたことは一度も無かった。人間の恋がどういうものか、それはもう数限りないほど見てきた。だが、自分自身には恋は縁がないものだった。
人として暮らしていれば、人間の男の子に思いを寄せられたことは何度もあったが、自分が相手を異性として好きになったことは一度も無かった。人間より遥かに長く生きてきたというのに、私の世界には恋は存在していなかった。しかし、それはある日、突然に実在するものとなった。
一年前、彼は転校生として私の目の前に現れた。教卓の脇に立った彼が自己紹介をする前に、つまり一言も口をきかないうちに、私はもう恋に落ちていた。彼の容姿は人並みで、女の子なら誰でも心惹かれる美男子という訳ではなかった。彼の何がいったい、そんなにも私を惹きつけたのか、今もって私は分かっていない。
私は出席番号が最後だったので、彼の席は私の後ろに設けられた。清掃班も同じだったので、接触の機会も多かった。私は転校生に優しい生徒を装い、クラスの女子の中では一番彼と親しい間柄になった。
体育祭、林間学校、文化祭、私はいつも、何気なく彼の傍にいられるように試みてきた。彼もそれを拒むことはなかった。そんなわけで、私たちの仲が怪しいという噂が立ったが、私たちの中は友達の域を超えるものではなかった。
彼には別にガールフレンドがいるわけではなかった。かといって女子では一番親しい私に告白をしてくることもなかった。今の時代なら女子の自分の方から告白するのもありだったが、私にはそれはできなかった。一年足らずで彼の記憶から消える私には、その資格はないと思ったからだ。
そして私は、とうとう今日まで、彼の傍にいても自分の想いを告げることもできないまま、楽しくも切ない日々を過ごしてきたのだ。
黒板の上の時計で時刻を確かめて、私は教室を出た。そして、昇降口近くの物陰に身を潜めた。聞こえが悪いが、要するに私は彼の待ち伏せをしたのだ。
部活を終えた彼が、間もなく昇降口に現れるはずだった。もちろん、この期に及んで告白などするつもりはなかった。校門まで一緒に歩いて、心の中で最後のお別れを言うつもりだったのだ。
思惑通りに彼がやってきて、下駄箱の蓋を開けたところで、私も自分の下駄箱の前に歩いて行った。
「やあ、吉田さん。今、帰り?」
彼の方が声を掛けてくれた。嬉しかった。
「うん、ちょっと図書室で調べ物をしていたの」
「そうか、僕はちょうど部活が終わったところ」
言われなくても知っていた。待ち伏せしていたのだから。
私たちは、共に外履きに履き替えて昇降口を出た。夕日は、もう最後の坂を下り始めていた。
私たちは校門までの道を並んで歩いた。校門を出れば、私たちの帰り道は逆の方向だったので、そこでお別れだった。校門までのほんのわずかな道のりが、私たちが共に過ごせる最後の貴重な時間だった。しかし、私は何一つ彼に掛ける言葉が見つからなかった。いつもなら色々と話しかけてくれる彼も、なぜか今日は沈黙を通していた。何か思い詰めているように見えなくもなかった。
そして私たちは、結局、一言も口を聞かないまま校門にたどり着いてしまった。私は泣き出しそうになる気持ちを必死に抑えて、また会えるような振りをして、いつも通りの挨拶で彼に別れを告げた。
「じゃあ、またね。さよなら」
ところが彼は、私に挨拶を返してこなかった。そしてなぜか、妙に真剣な目で私の顔見ていた。それから、意を決したように話を切り出した。
「吉田さん、ちょっと話したいことがあるんだ。とりあえず向こうに行こうか」
彼は学校の前の公園を指さした。
「あ、うん」
私は予想外の展開にひどく驚いた。この町を出る時間が迫っているというのに、私は彼の言葉に逆らうことができなかった。
それから私たちは公園のベンチに並んで腰を下ろした。彼は一つ深呼吸をすると、溜まっていたものを一気に吐き出すように、信じがたい言葉を口にした。
「僕は吉田さんのことが好きなんだ。転校してきた日に、一番後ろに座っていた吉田さんを見た瞬間に、もう好きになってた。いわゆる一目惚れってやつ。だから、僕と付き合って欲しいんだ」
私は一瞬、頭の中が真っ白になった。だが次の瞬間、喜びが一気にこみあげてきた。ああ、彼も私のことを想っていてくれたのだ。そう思うと、とても嬉しかった。
しかし、そんな思いはほんの一瞬だった。お互いの気持ちが通じたところで、今更どうなると言うのだ。彼の私への想いは、あと十五分もすれば消えてしまうのだから。
私はこぼれそうになる涙を必死に抑えた。私の様子を見て、拒絶されると思ったのか、彼は落胆したような声で問いかけてきた。
「ダメなのかな?吉田さんは、僕じゃダメなのかな?」
「そうじゃないの。そうじゃないの、でも・・・」
私は、そう言うのが精いっぱいだった。堪えていた涙が一気に溢れ出してきた。
「吉田さん、やっぱり他に好きな人がいるのかな?」
問いかける彼の声には落胆の色が更に濃くなった。
「違う。違うの。そんなことじゃないの」
私はすっかり冷静さを失っていた。どうしたらいいのか、まるで分らなかった。どうにかして彼の顔を見ると、彼は悲しげな瞳で私を見ていた。彼の目を見た瞬間、私は真実を全て包み隠さずに話すべきだと思った。適当な嘘をついても、あと十五分もすれば彼は全てを忘れてしまうのだから、その方が良いという気もした。しかし、たとえ彼が忘れてしまうとしても、私は真実を伝えたかった。嘘をつきたくなかった。
私はハンカチで涙を拭ってから、静かに話し始めた
「ねえ、これから私が言うことを信じてほしいの。ううん、信じなくてもいいから、信じたふりをして欲しいの。それから、何も言わずに、日が沈むまで私に付き合って欲しいの。良いかしら?」
彼は黙って大きく首を縦に振った。そして私は、今まで人間には打ち明けたことのない自分の正体を明らかにした。
「私はね。人間じゃないの。座敷わらしなの」
彼の目が大きく見開き、ショックの大きさが感じられた。それから彼の表情は何か言いたそうなものに変わったが、彼は約束通り何も言わないでいてくれた。
彼が約束を守ってくれたのに安心した私は、自分の気持ちを彼に伝えることにした。
「私もね、あなたのことがずっと好きだったの。あなたと同じように私もあなたに一目惚れしちゃったの」
そう聞いて彼の表情は嬉しそうなものに変わったが、同時に「だったらなぜ?」と問いかけているようでもあった。私は彼の無言の問いに答えることにした。
「あなたのことはずっと好きだったけど、それを伝えてはいけないと思っていたの。だって私は、いずれはあなたの思い出からも消えてしまう運命だったから。実はね、私、あとに十五分もしないうちに、日が沈む前にこの町から出て行かなければならないの。町外れの橋を渡ったら、私は初めからいなかったことになるの」
そこまで言って、私は一度言葉を切った。彼の表情は読みにくかった。戸惑っていることくらいは分かった。彼が約束通り何も言ってこないことを良いことに、私は一方的に自分の気持ちを語り続けた。
「でも、もし、あなたがもっと早く気持ちを伝えてくれてたら、どうなったかな?すぐに思い出から消えてしまうと分かっていても、きっと好きという気持ちを抑えきれずにあなたのガールフレンドになってたような気もする」
一方的に気持ちを伝える自分がし後ろめたくなった。
「一方的でごめんね。一方的ついでに、あなたにお願いがあるの。私を橋まで見送って欲しいの。そして、そこであなたに、それからこの恋に『さよなら』を言いたいの」
彼の表情は相変わらず読みにくかったが、少し和らいだような気がした。
私が言いたいことを全部言ってしまうと、彼はベンチから立ち上がり、私に右手を差し出した。私は左手で彼の手を取って立ち上がった。そして、私たちは手をつないで橋の方に歩き出した。
最初で最後の、そして、わずか十分ちょっとのデートの気分だった。町は夕映えの色に染まっていた。二年の時を過ごした町は、最後の瞬間に最も美しい顔をみせてくれたような気がした。
今では、もうほとんど見られなくなった名画座の前を通り過ぎた。ここで彼と一緒に映画を見る夢を何度も見た。結局、それは夢のままで終わった。
それから、チェーン店ではない昔ながらの喫茶店の前を通り過ぎた。昔風な店内でコーヒーを飲みながら彼と話がしてみたいと思っていた。それもまた、儚い夢だった。
もし、もう一日でも早く、彼が告白をしてくれていたら、そんな夢が叶ったのだろうかと思った自分が情けなかった。
手をつないだまま、私たちは街並みを抜け、橋に続く土手の上に出た。そして、すぐに私たちは、この町の唯一の名所の桜並木に差し掛かった。土手の上の細い道の両側に桜が密集して植えられていた。満開の桜は、今まさに薄紅色の花の回廊を作り上げていた。
土手の両側には一面の菜の花が、どこまでも広がる黄色い絨毯のように橋の方へ続いていた。桜も菜の花も夕映えの光を受けて、ほのかに赤く染まっていた。
そして、私たちはいよいよ花の回廊を歩き始めた。いきなり信じられないような話を聞かされ、一方的な要求を突き付けられた彼は、今、私のことをどう思っているのか、気にならないと言えば嘘になった。しかし、約束通り沈黙を通してくれている彼の手からは、優しい想いが伝わってくるような気がした。私の想いは、はたして彼に伝わっているのだろうか?聞いてみたい気もしたが、今はお互い、沈黙を通すしかなかった。
夕映えの空の下、桜の回廊は、ただただ美しかった。私たちは何一つ言葉を交わさないままに歩き続けた。この桜の回廊が果てしなく何処までも続いていたらどんなに良かっただろう?そんな馬鹿なことを考えた。しかし、そんなこともあるはずはなく、たとえあったとしても私にはもう歩き続ける時間がなかった。
私には、彼の手から伝わる温もりをこの手に残し、ほんの僅かな時間だけ、互いを思い合う者として歩けた時間を心に刻み込むことしかできなかった。
時おり桜の花びらが微かな風に乗って舞い落ちてきた。短いと言われる桜の花の命よりも更に、自分の恋の幸せは短かった。桜の回廊の終わりが、すでにもうそこまで迫っていた。私はただ、涙を堪えるしかなかった。
そして、とうとう、私たちは桜の回廊を通り過ぎ、橋の袂まで来てしまった。そして、そこで私は彼の手を離し、彼と向き合った。
夕陽は、もう山の向こうに消えようとしていた。考える時間がなかったせいか、普通ならとても言えそうにない言葉があっさりと口からこぼれた。
「ねえ、キスして」
彼は、微かな笑みを見せた後、両手で私の頬を包んだ。そして、ゆっくりと唇を重ねた。
その瞬間、最高の幸せと悲しみが一度にやってきた。この幸せはどうしてほんの一瞬しか続かないのか、そう思うったら全身がちぎれそうな気がした。再び流れ出した涙を、もはや、せき止めるすべはなかった。拭おうという気にもなれなかった。
彼が唇を離した瞬間に、私は一気に駆け出した。悲しかった。そんな単純な言葉でしか表現できないくらい悲しかった。そして、その悲しみは私の足を動かなくした。もうダメだと思った。こんな悲しみを抱いたまま、また孤独な旅を続けることはもうできないと思った。もう、元には戻れないと確信した。
私は急いで引き返すと彼の胸に飛び込んだ。そして、思い切り彼を抱きしめた。もういい、私はもう十分に生きた。このまま、この幸せな温もりに包まれたまま消えてしまおう。そう決めたことに、まったく何の迷いもなかった。
そして、私の余命は1分そこそこになった。
しかし、ことは私の思った通りには行かず、予想外のできごとが起こった。彼は強引に私を引きはがすと、私の手を取って一気に走り出したのだ。理由も何も考える間もなく、私も彼と一緒に走り出していた。
橋の真ん中に来た辺りで、夕陽はもう山の上にわずかな欠片を残すだけになっていた。彼はそこから更に速度を上げた。私は引かれた手がちぎれそうな気がした。そうして、橋を渡り切った瞬間に夕陽が山の向こうに消えた。同時に私の手から、彼の手の温もりが消えた。
橋を渡り切った瞬間、彼は私の手を放していた、そして今は、両手を膝に当てて荒くなった呼吸を整えていた。
私はといえば、息が切れてその場にしゃがみこんでしまっていた。私の方を見た彼の顔は夕映えの光を受けて微かに薄紅に染まっていた。彼の目には、もう自分の姿が映っていないのだと思ったら、彼の突然の行動に驚いて止まっていた涙がまた出そうになった。そのまま見つめていると、彼が口を開いた。
「勘弁してよ。焦ったよ。君、あのまま消えるつもりだったの?」
彼の声は決して大きくはなかったが、雷のように衝撃的だった。
「どうして?」
それ以上の言葉が出なかった。思いは頭の中で渦を巻き、言葉は喉に使えたままになった。私は立ち上がって彼の姿をまじまじと見た。彼も膝から両手を離し、驚いたままの私の方に近寄ってきた
「どうしてって、簡単なことさ。君と一緒で、僕も座敷わらしだからだよ」
「嘘でしょう」
彼の言葉がにわかには信じられなかった。
「君がそう思うのも無理はないね。僕だって、ついさっきまで、君が座敷わらしだなんて思ってもみなかったんだから。座敷わらし同士は相手が人間にしか見えないんだね。初めて知ったよ」
真相がわかり気持ちが落ち着くと、私は彼のことが少しだけ憎らしく思えた。
「だったら、何でもっと早く言ってくれなかったの?私のバカみたいな様子を黙って見て楽しんでたわけ?」
「まさか、そんな悪趣味じゃないよ。それに、何も言わないでいてくれと頼んだのは君の方じゃないか」
「まあ、それはそうだけど」
確かにその通りだったが、そう反論されると少し悔しかった。
「ごめんね。決してからかうつもりなどなかったんだ。黙っていたのは、君の気迫に押されたっていうのが一番の理由かな」
「私を鬼みたいに言わないでよ」
「ああ、ごめん。ごめん。気迫というよりは、真剣な思いと言った方が良かったかな?」
「私、そんなふうに見えてたの?」
「うん、真剣そのものだった。だから言われた通りにしようと思ったんだ。僕も座敷わらしだと言ったところで、君は信じてくれなかっただろうし」
「そうかも知れないわね」
彼の言ったことはおそらくその通りだと思った。
「それに、あれこれと説明している時間もなかったしね。とりあえず言われた通りにして、橋を渡った方が話が速いと思ったんだ」
彼の判断が冷静であればあるほど、私は自分のしたことが恥ずかしくて仕方がなくなってきた。
必死に照れ隠しをしている私の前に彼が手を差し出してきた。
「さて、じゃあ、一緒にこの土地の神様の所に行こうか」
私は差し出された彼の手を取った。彼の手の温もりが、もう、すぐに消えることはないと思うと嬉しかった。これからも、ずっと旅が続いたとしても、それは、もう孤独な旅ではないのだ。
私はふと、対岸の桜並木を見た。まだ、夕映えに染まったままの桜は、私たちの新たな門出を祝ってくれているような気がした。
終