急に煌雅の家に泊まることになって、すごく焦ってる。

そんなこと、初めてだ。


着替えは、近くの服屋さんで煌雅が買ってきてくれた。

………恥ずかしいけど、下着まで。


「春瀬、先に風呂入っていいよ。俺、ご飯作ってるから」


できる男である。


まだ多少ダルいが、煌雅の看病のおかげもあってか最初よりはだいぶマシになった。


「分かった。ありがとう」


私はそう返すと、お風呂場に向かった。

泊まったことはないけど、お風呂を使わせてもらったことはある。

デートの途中で大雨が降ってきて、近くの煌雅の家にあがらせてもらった。

その日はちょうどブラウスで、煌雅に『目のやり場に困る』と言われて、ブラウスを洗ってる間に風呂に入らされた。


Tシャツを脱いで、短パンも脱いで、タイツも脱いで、次にブラに手をかけた時。


「春瀬ー、ボディソープないか、も……………」


煌雅が遠慮なくドアを開き、なんとも言えない沈黙が流れた。


次第に、煌雅の顔が朱色に染まる。

多分、私もおんなじような顔してる。


「ごめん」


煌雅は顔を真っ赤にしたまま手で目を覆う。


何がよかったって、まだギリギリブラをつけていたことだ。


「詰替え、ここ置いとくから」


ボディソープの詰替えを入口の方に置くと、煌雅は出ていった。


ラブパプにも程があるでしょ………。


お風呂に入ると、ふわっと仄かに甘い香りがした。


煌雅のシトラスの香りに混ざっている甘い香りと一緒だ。


ちょっとだけ時間をかけて、火照った顔を冷ます。


そんな間にも、さっきの煌雅の顔を思い出す。

どんな顔して会えばいいの…………?
お風呂から出たら、リビングの机にご飯が並んでいた。


麻婆豆腐と卵雑炊。


煌雅はいない。


「あ、あの………朝霧くん?」


その時、キッチンの方で音がした。


入ると、そこにいたのは煌雅だった。

何故か、指から血が流れ出ている。


「っ、い………」


痛そうに押さえている。


「っ、大丈夫!?」


私は慌てて駆け寄る。


「はる、せ………」


私を見て、煌雅は驚いたように目を見開き、そしていっきに赤くなった。


「ど、どうしたの。大丈夫?」

「………問題ない」


私からふいっ、と目を逸らし、キッチンを出ていってしまう。


煌雅がいたあたりに包丁が落ちていて、血が数滴垂れていた。


包丁は水道で丁寧に洗ってしまい、水で濡らしたティッシュで床を拭く。


リビングで待っていると、戻ってきた煌雅の指には絆創膏が巻かれていた。


「キッチンは片付けた。ごはんもありがとう。一緒に食べよう?」


煌雅はふっ、と呆れたように笑った。


「そうだな。ありがとう。ごめんね」


椅子に座り、ふたりで手を合わせる。


「いただきます」


とてもシンプルな麻婆豆腐と卵雑炊だったが、とても美味しかった。





そして、10時をまわった頃。


「春瀬、そろそろ寝よう。俺はその辺で適当に寝るから春瀬はベッド使って」


煌雅が言った。


「いや、ここは朝霧くんの家なんだから朝霧くんがベッド使ってよ。私はどこでも寝られるから」

「いや、客人を………しかも、女の子を雑魚寝なんてさせられないよ」


それに対して私が放った言葉。

それによる煌雅の苦労なんて、私には知る由もなかった。


「じゃあ、一緒にベッドで寝よう?」

「………っ、は?」


煌雅の顔が真っ赤になった。
結局、私が押しきってふたりで寝ることになった。


煌雅の顔は終始真っ赤だった。


「お互いの方を見ないこと。お互いすぐに寝ること。お互いに絶対に触れないこと」


煌雅は淡々と告げた。


「え………一緒にお話ししようよ」

「だめ。風邪引いてんだから大人しくしてて」

「もう治ったよ」

「念のため」


先に部屋行ってて、という煌雅の言葉に素直に頷く。


「おやすみ、春瀬」

「うん。おやすみ、朝霧くん」


勝手に人のベッドに入るというのを考えると、少し気が引ける。

そう思いながら煌雅の部屋に行って、やっぱり入ることができなくて、ベッドのはしっこにちょこんと座る。


「早く、来ないかなぁ………」


30分くらいすると、廊下に足音が響いた。


ガチャ、とドアが開いて、煌雅が入ってくる。

そして、私を見て固まった。


「………春瀬、俺のこと殺す気?」


意味が分からない。


「なんのために俺が時間ずらしてきたか分かってんの?」


知るわけがない。


「いいから、早く寝な。悪化したら困るから」

「だから、もう治ったよ………?」


すると、煌雅は大きなため息をついて私を見た。


「好きな女が自分のベッドの上にいるのに手を出せないっていうこの状況理解してる? 俺は、いつでも春瀬を襲えるよ」


今までに一度だって見たことのない“男”の目。

顔に熱が集まる。


「ぁ………ごめん、なさい」

「そう可愛い顔をするな」


煌雅の顔が近寄ってきて、唇に柔らかいものが触れる。


「おやすみ、春瀬」


私は煌雅の笑みを視界から追いやるために、全力で布団にもぐった。
この間は、煌雅のおかげか一日でよくなり、次の日には帰ることができた。


そして月曜日───


「春瀬おはよう。体調大丈夫? 無理してない?」


前以上に煌雅が構ってくる。


「うん。この間はありがとう。いろいろ世話焼いてくれて」


なんて話していると、那古ちゃんが飛んできた。


「それ、詳しく───」


目がキラキラ輝いている。


「は? 意味なくない。べつに狩谷に関係ねーし」


だが、そんな那古ちゃんを煌雅は一蹴した。


「ふふっ。ふたりは相変わらずだね」


“つい”そう言ってしまった。

でも、私の記憶の中は以前のふたり。


サァ、と緊張が全身を伝う。


「“相変わらず”………? えーっと、玉藻ちゃんの前じゃ初めてな気がしなくもないんだけど…………」


那古ちゃんが首をかしげる。


やってしまった、という後悔とやっぱり、この空間において私だけが異常なんだ、という感情とが襲ってくる。


私が知っているふたりを、ふたりは知らない。

ふたりが知っているふたりを、私は知らない。


現実を目の前に突きつけられる。


やっぱり、だめなんだ。

私は、恵まれてなんかなかった。


負の感情がどっと押し寄せてきて、心臓がきゅっ、と切なく跳ねる。


「えっ、ちょ、玉藻ちゃん!?」

「春瀬………?」


この悪夢はどうすれば断ち切れるのだろうか。

そもそも、これが夢か現実か、まるで判断がつかない。


怖いよ、私だって。


“孤独”という言葉が、胸にぽっかりと空いた大きな穴を、さらに大きく深く、抉っていく。


これは、紛れもない事実であった。


これが夢でも現実でも、今の私からしたら“現実”である。


やっぱり、私は孤独だったんだ。
「春瀬、大丈夫?」


煌雅の問いかけに首をかしげる。


「…………泣いてる。俺、なんかだめなこと言った?」


言われて初めて気付いた。

“孤独”が私の心を蝕んでいく。


「保健室行く?」


煌雅の腕が私の肩口まで伸びてきて、反射で避けてしまった。


「っ、ごめんっ」


こんな気持ちになるくらいなら、誰とも関わりたくない。


走って走って走って、ついたのは屋上だった。


頭がいたい。
心臓がいたい。
気分が悪い。


これは、私がいけないの?


私がこんな環境で生き続けられるわけない。


パタパタと走ってくる足音がして、自然と下を向いていた顔をあげる。


「っ、春瀬。本当に大丈夫? 俺が何かしたなら謝る。だから、なにがあったのか教えて」


あなたのせいですよ。

そう心の中で呟いて、さらに虚しくなる。

いや、私のせいか、と自分を納得させる。


「なにもない。大丈夫」


不自然な笑みだっただろう。

煌雅の表情が歪む。


「ね、大丈夫じゃないよね。そんな顔して」


その手が頬に触れそうになった瞬間、私は煌雅を見上げる。


「大丈夫。何があっても朝霧くんには関係ない。もういいから、ほっといて」


自分の瞳から大きな雫がこぼれ落ちる感覚があった。


これ以上、耐えられない。


私がいけない。

なのに、私にはなにもできない。


せめて、誰か一人でも私のこと知っていてくれれば、それだけでもっと気が楽になったのかな?


あーあ、やる気でない。


私は煌雅の横を通りすぎると、一直線で保健室へと向かった。
保健室に駆け込むと、先生が驚いたように私を見た。


「どうした………?」

「ベッド貸してください。少しの間だけでいいので」


とりあえず、頭の中を整理したい。
一人の空間で落ち着きたい。
休みたい。


「………好きに使うといい。私は少し席をはずす」


なんて気のきく優しい先生なんだ。

その優しさに、さらに涙が溢れる。


「ありがとう、ございます………」


私はベッドの周りのカーテンをしめ、横になる。


保健室の扉が閉まる音がすると、布団を頭から被る。


「ふっ、………ぅ、あ、う………」


際限なく、涙があふれでてくる。



ふと、脳裏に記憶が蘇る。

この間見た、夢のことだ。

あれがきっかけで、全てがおかしくなり始めた。


「ぁ、れ………?」


もしかして、これが夢なのではないか。

私は、本当に車に轢かれたのかもしれない。

そうすれば、あの幸せな夢とも繋がる。

全身が痛くて、すごく辛くて。


ドクン、と心臓が大きく跳ねる。


「ぁ、はあ、はあ………? どうして? なんで? こんな夢なら終わってよ!」


保健室の扉が開く音がして、誰かがカーテンを勢いよく開けた。


「ねえ、春瀬。本当に大丈夫? 落ち着いて。俺がいるから」


駆け寄ってきた煌雅はベッドのはしっこの方に浅く腰掛け、布団越しに私の頭を撫でた。


「………こんなに辛い思いするくらいなら、死んだ方がましなのに。なんで、なんでちょっとの夢も見させてくれないのっ?」

「っ、! 春瀬………! 死んだ方がましだなんて言わないで」

「なんで、なんで煌雅はずっと追いかけてくるのっ? だって、私、何回も拒絶した」



ガラガラと、そしてボロボロに。
幸せは崩れ落ちていく。


「俺は、春瀬が好きだから………っ」


君のその優しい一言が、さらに私の心を抉っていく。



ガラガラと、そしてボロボロに。
そして、幸せは瓦解する。
教室で話していたら、春瀬の目からこぼれ落ちたのは涙だった。


「保健室行く?」


心配になって春瀬に向かって手を伸ばすと、避けられてしまった。


「っ、ごめんっ」


そう言って、春瀬は教室を飛び出していった。

これは、明らかな拒絶だ。



俺は、すぐに春瀬を追って教室を出る。


追い付くと、春瀬に歩み寄る。


「っ、春瀬。本当に大丈夫? 俺が何かしたなら謝る。だから、なにがあったのか教えて」

「なにもない。大丈夫」


俺の言葉に答えた春瀬は無理矢理笑っているように見えた。


「ね、大丈夫じゃないよね。そんな顔して」


伸ばした手が頬に触れそうになった瞬間、春瀬が顔をあげた。

目が合って、そして、大粒の涙がこぼれ落ちるのが見えた。


「大丈夫。何があっても朝霧くんには関係ない。もういいから、ほっといて」


さすがに、二回も拒絶されたら傷付く。


俺の横をすり抜けていった春瀬は振り返ることなく、階段を駆けおりる。


向かう先は、どうせ保健室。

解らないけど、分かる。


保健室まで行くと、ちょうど先生が出てきたタイミングだった。


「先生、春瀬来ましたか?」

「朝霧か。もしかして、泣かせたのお前か?」

「……はい、多分そうです」

「おいおい、多分ってなぁ………。何があったのかは知らないけどちゃんと話し合えよ」


先生は俺の頭を軽く小突くとその場から立ち去っていった。


保健室に入ろうとして扉に手をかけると、聞こえてきたのは嗚咽。

扉に背中を預けて、俺は座り込む。


「ぁ、はあ、はあ………? どうして? なんで? こんな夢なら終わってよ!」


次第にその嗚咽は粗くなっていく。


俺は、つい保健室に飛び込んだ。


ねえ、春瀬。こっち見て笑ってよ。
そんな声で泣かないで。


「ねえ、春瀬。本当に大丈夫? 落ち着いて。俺がいるから」


布越しに春瀬の頭を撫でる。


「………こんなに辛い思いするくらいなら、死んだ方がましなのに。なんで、なんでちょっとの夢も見させてくれないのっ?」


この子は何と闘っているのだろう。
わからない。
俺にはまるでわからない。


「死んだ方がましだなんて言わないで」


君だけの命じゃない。
俺にとっても大切だ。
きっと、狩谷やお母さんにとっても。


「なんで、なんで煌雅はずっと追いかけてくるのっ? だって、私、何回も拒絶した」


俺は、言ってもいいのかな。
君に、今ここで。


「俺は、春瀬が好きだから………っ」


その声はあまりにも震えていた。

でも、それ以上に震える春瀬を見て俺が守ってあげたくなった。

そっと、抱き寄せる。






俺には君しかいないから。

こんなに惹かれるのは君が初めてだから。

君の痛みは俺がもらってあげる。

君が苦しむ必要はない。








なにも見たくない。聞きたくない。

私が知らないみんなを見つけるのが怖い。

辛い。痛い。


負の感情がどくどくと溢れだす。


私のことを力強く抱いてくれる、この温かい腕でさえ、振りほどいて逃げたくなってしまう。


でも、ここでそうしてしまったら、それは3回目の拒絶。

それだけは、絶対にしたくない。


私に“好き”と伝えた声は震えていた。


前は、もっと明るく言ってくれた。

“俺は、春瀬のことが好きだよ”って。

なのに、今回はすごく悲しそうに声を震わせていた。


なにがいけないの?


時間?煌雅?私?それ以外のなにか?


煌雅のあんな悲しそうな声なんて聞きたくない。


「朝霧くん、ごめんね」


ここから更に、私は煌雅を傷付ける。


ごめんね、もう君とは付き合えないや。

私の我儘だけど、どうか許してね、って。


心の中で呟いて煌雅を見る。


「那古ちゃんにも言っておいてもらえるかな。“ごめんね”って」


涙が頬を伝う。

もう、いいの。


こんな世界、いらないんだ。


「それ、どういう………っ」

「お願い。お願い、煌雅。私からの最後のお願い」

「最後って!!」


私は黙ったまま、煌雅に歪な笑みを向ける。


「ねぇ、春瀬!! 何する気」


緩んだ煌雅の腕の中から抜け出す。


学校を飛び出して、走った。



走って、走って、ずっと走った。

待ち合わせ場所の交差点。

ここから全てが始まった。





これが、私からの最後のお願い。

何があっても、君はずっと笑顔でいて。

ぼっち症候群

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