彼女は驚いたように目を見開いている。「ごめん」と言って、七生は慌てて手を離した。

「びっくりした~。名前、呼んでくれたの初めてだよね?」

 彼女は七生が『雀』と呼んだことに驚いている様子だ。たしかに、照れくさくてずっと呼ぶのを避けていた。

「急にどうしたの?」
「その、なんか……苦しそうな顔に見えたから」

 彼女はパチパチとまばたきをしてから、クスリと笑う。

「あ、バレた? ちょっとおなか空いちゃって。コンビニでフライドチキン買って帰ろうかな~」

 はぐらかされた。それは理解したけれど、踏み込む勇気は出ない。仕方ないので彼女の嘘を信じたふりをする。

「……夜中に揚げ物は太るぞ」
「若いから大丈夫~」

 ピースサインをしながら、雀は立ちあがった。自分の腕時計に視線を落としながら言う。

「そろそろ帰らなきゃ。じゃあ、バイバイ」

 雀はいつも、七生の母が戻ってくる前に去っていく。まるで会うのを避けているかのように。

「あのさ!」

 華奢な背中に呼びかけると、ふわりとした笑顔が返ってくる。
 握り締めたこぶしも、唇も緊張で震える。告白するのと同じくらいの勇気を振り絞って、七生は言った。

「いつか……俺のスケート、見に来てくれない?」
「え~。どの大会も、ぜんぶ応援に行ってるじゃない!」

 幼なじみ設定を崩さない彼女に、七生は小さく肩を落とす。よほどがっかりした顔になっていたのかもしれない。それを見た彼女が、慌てて言葉を重ねた。

「わ~、ごめん。今のはなし! 七生のスケート……うん、見てみたい。行くね、絶対に」

 ひと言ひと言を噛み締めるように、彼女はうなずいた。口元はほころんでいるのに、どうしてか泣き出しそうな表情にも見えた。

「おやすみ!」

 その様子を七生から隠すように、彼女は踵を返して行ってしまう。

「すず……め」

 とっさに引き止めようと手を伸ばす。が、なにもつかめずに、むなしく宙で指を折った。
 彼女の後ろ姿が闇のなかに消えていく。

(雀はどこへ帰るんだ?)

 ――彼女の行動がだいぶ変なことは、最初から気がついていた。女の子がこんな時間に出歩いて、家族は心配しないのだろうか。
 七生は本当の恋人のように、彼女にあれこれ打ち明けるようになった。スケートの悩みも将来の不安も……。でも彼女は、自分のことはなにひとつ明かさない。

『危ないから家の近くまで送る』

 何度そう言っても、聞き入れてくれなかった。不登校の理由も、選手でもないのに夜中にリンクにやってくる理由も、自分は雀のことをなにも知らない。

(時折見せる悲しい顔は、不登校の理由と関係があるんだろうか)

 気になるけど、どこまで距離を縮めていいものか……。

(本当の恋人だったらな)

 七生はクシャクシャと自分の頭をかき乱した。