練習を終え、リンクをあとにした七生は休憩スペースのベンチに座ってスケート靴を脱ぐ。このところ、スケート靴を脱ぐたびに「もう履かなくていいんじゃないか」という声がどこかから聞こえてくる。

 何者にもなれない自分を、受け入れろと。

 七生は物心がついた頃には、もう氷の上に立っていた。
 母はオリンピック出場こそ逃したものの、全日本選手権で三度も表彰状台にのったことのある女子シングルの元選手。才能と環境に恵まれたサラブレッドである七生は早くから頭角を現し、すっかりフィギュア大国となった日本でも存在感を示していた。

 十三歳でカナダに拠点を移し、得意のジャンプに磨きをかけ抜群の成功率を誇る四回転ジャンプという武器を手に入れた。
 そして三年前、十四歳で出場した世界ジュニア選手権で銀メダルを獲得し、次期エースの座を確実なものにした。
 おまけに七生は小さな顔に長い手足という、氷上で映える恵まれたスタイルも持っている。顔立ちも端整で華があった。世界ジュニアの銀メダルをきっかけに大手企業がスポンサーにつき、メディアへの露出もファンも増えた。

 思ったことをあまり深く考えずに発言してしまうため、『生意気』『傲慢』と言われることも多かったが、結果を出している時期は『天才ゆえ』とそれすら好意的に受け止められた。
 順風満帆、十八歳で迎えることになるオリンピック出場は確実、うまくすれば金メダルだって夢じゃない。誰もが、もちろん七生自身も、そう信じて疑っていなかった。

 ところが、銀メダルを獲得した世界ジュニアの次に出場したローカル大会で七生は大怪我を負った。
 数か月間も氷に乗ることすらできず、ジャンプの練習は丸一年近く禁じられた。一年間を丸々棒にふり、昨シーズンから大会に復帰したがこれまでにない散々な結果だった。
 ジャンプを跳ぼうとすると怪我への恐怖が頭をよぎってしまい三回転すら失敗するようになった。一度歯車が狂うと立て直すのは難しい。カナダ人コーチともうまくいかなくなり、半年前に日本に帰国。

 今は最初のコーチであった母のもとで再起を目指しているが……正直なところ、来季のオリンピック出場は絶望的だ。ファンも、スケート連盟も、そして自分自身すらも復活を信じられずにいる。
 フィギュアスポーツは他競技に比べて旬が短い。おまけに現在の日本は有力選手がひしめいている状態だ。七生が棒にふった十五歳、十六歳のシーズンはあまりにも貴重な時間だった。

 自分の練習は終わったが、母はこのあともう一時間シニアの女子選手の指導がある。七生はいつものように車のなかで待つつもりで駐車場へと向かう。

 今日も、星のない暗い夜だった。
 うつむきかけた七生の顔が、彼女を見つけてぴたりと止まる。

「今日もいるし……」
「ここ、うちの近所なんだもん。散歩コースなの」

 本当なのか嘘なのか、七生には判断がつかない。天真爛漫な彼女の笑みは、すごく素直そうにも、大嘘つきにも見える。

「散歩なら昼間にしろよ。若い女の子が危ないだろ」
「言ったでしょ。私、不登校の引きこもりだから。昼間は部屋から一歩も出ないの」

 彼女、森川雀は七生のクラスメート……らしい。断言できないのは、七生が数えるほどしか高校に通っていないからだ。
 拠点がカナダだったこともあり、スポーツに理解があって融通のきく私立高校を選んだ。今は日本にいるので時々は顔を出すが、シーズン中なこともあってクラスメートと交流する余裕はない。おまけに雀も雀で、不登校でほとんど教室に姿を見せないらしい。なので自分たちは、おそらく昨日ここで会ったのが初対面だ。