『遅くないよ。今や人生百年時代だもん。大学だって就職だって、いつからだってできるよ』
『この夜の間だけ、私たちは恋人同士。一緒に青春しようよ、七生!』
あの言葉も、あの言葉も、彼女はどんな思いで口したのだろう。
七生はリンクを素通りして、まっすぐに駐車場に向かう。雀はもう来ないとわかっているけれど、わずかな可能性にすがるしかなかったから。
夕方の、茜色の空があっという間に漆黒に染まっていく。いつもはリンクで練習している一時間半が過ぎて、雀と会う時間になった。
だけど当然……彼女は現れなかった。
『私の存在を逃げ道に使わないで。一緒にしないでよ』
そのとおりだ。
自分が情けなくて、ちっぽけで……涙すら出てこない。
リンクが閉まる時間になり、最後の練習をしている女子シングルの選手たちがお喋りをしながらこちらに向かってきた。少し遅れてコーチの姿も……。
「七生。来てたのね」
練習に出ないの? 東日本大会はどうするの?
そう聞きたいはずだろうけど、彼女はなにも言わなかった。七生の出す答えを待ってくれている。
七生はコーチに向かって、頭をさげた。
「明日からまた、練習させてください。もう、二度と泣き言は言いません」
見に来てくれると約束した。多分無効になってしまったと思うけど、七生に残された可能性はそれしかなかった。
(もう一度、もう一度だけでいいから……雀に会いたい)
十一月。東日本大会。
男子シングル、フリープログラムが始まろうとしていた。
会場はガヤガヤと騒がしい。選手の家族、有名選手のファン、観客席はそれなりに埋まっている。ローカル大会とはいえ毎年、TVカメラも入るのだ。
フィギュアスケートシングルは、六人ずつのグループごとに滑っていく。あとになればなるほど強い選手が増える仕組みになっている。七生は一昨日のショートプログラムをミスなくこなして三位につけたので、最終グループに入ることができた。
「本当に四回転を入れるの? 捻挫、完治したわけじゃないんだからね」
ウォームアップエリア。ストレッチをする七生の横で、コーチはげんなりと頭を抱えた。
「ごめん。コーチの言いたいことはよくわかってる」
重要なのは、全日本選手権に出場すること。そしてオリンピックのある来シーズンだ。この大会で無理をする意味はない。七生だって理解している。
「でも」
七生は強い目で前を見据えた。
「この大会はきっと、俺のスケート人生の転機になる。ここで優勝することが大事なんだ」
根拠はないけれど、確信していた。誰の人生にも、きっとそういう瞬間はあると思う。七生にとってのその瞬間は、このフリープログラムの四分間なのだ。
ふぅという、コーチのため息が落ちる。
「わかった。七生のスケートは七生のものだから、あなたの決断を尊重する」
母としても、コーチとしても、不本意なのをどうにか我慢してくれているようだった。
「ありがと」
自分の名前がコールされ、七生はゆっくりとリンクの中央に向かう。
一昨日のショートプログラムに雀は来てくれなかった。それでも七生は、今日も彼女を捜して観客席を見渡す。
この位置から観客性は、向こうが思っている以上によく見えるものだ。
「七生くん、がんば~」
リンクメイトの女子選手たちが声をあげてくれている。そして――。
「七生! がんばれ、がんばれっ」
その声ははっきりと七生の耳に届いた。観客席のちょうど真ん中に、一番星の笑顔があった。
七生がスタートのポーズを取るとすぐに、音楽が流れ出す。
最初のジャンプは四回転サルコウだ。その軌道に入る前に七生は観客席の雀を見た。錯覚だろうけれど、目が合った気がした。
(一生、忘れられなくなる演技。今日、その夢を叶えてみせる)
高く、高く、舞いあがる。
(だから、見ていて雀。瞬きなんかせずに、最後の一秒まで全部――)
『この夜の間だけ、私たちは恋人同士。一緒に青春しようよ、七生!』
あの言葉も、あの言葉も、彼女はどんな思いで口したのだろう。
七生はリンクを素通りして、まっすぐに駐車場に向かう。雀はもう来ないとわかっているけれど、わずかな可能性にすがるしかなかったから。
夕方の、茜色の空があっという間に漆黒に染まっていく。いつもはリンクで練習している一時間半が過ぎて、雀と会う時間になった。
だけど当然……彼女は現れなかった。
『私の存在を逃げ道に使わないで。一緒にしないでよ』
そのとおりだ。
自分が情けなくて、ちっぽけで……涙すら出てこない。
リンクが閉まる時間になり、最後の練習をしている女子シングルの選手たちがお喋りをしながらこちらに向かってきた。少し遅れてコーチの姿も……。
「七生。来てたのね」
練習に出ないの? 東日本大会はどうするの?
そう聞きたいはずだろうけど、彼女はなにも言わなかった。七生の出す答えを待ってくれている。
七生はコーチに向かって、頭をさげた。
「明日からまた、練習させてください。もう、二度と泣き言は言いません」
見に来てくれると約束した。多分無効になってしまったと思うけど、七生に残された可能性はそれしかなかった。
(もう一度、もう一度だけでいいから……雀に会いたい)
十一月。東日本大会。
男子シングル、フリープログラムが始まろうとしていた。
会場はガヤガヤと騒がしい。選手の家族、有名選手のファン、観客席はそれなりに埋まっている。ローカル大会とはいえ毎年、TVカメラも入るのだ。
フィギュアスケートシングルは、六人ずつのグループごとに滑っていく。あとになればなるほど強い選手が増える仕組みになっている。七生は一昨日のショートプログラムをミスなくこなして三位につけたので、最終グループに入ることができた。
「本当に四回転を入れるの? 捻挫、完治したわけじゃないんだからね」
ウォームアップエリア。ストレッチをする七生の横で、コーチはげんなりと頭を抱えた。
「ごめん。コーチの言いたいことはよくわかってる」
重要なのは、全日本選手権に出場すること。そしてオリンピックのある来シーズンだ。この大会で無理をする意味はない。七生だって理解している。
「でも」
七生は強い目で前を見据えた。
「この大会はきっと、俺のスケート人生の転機になる。ここで優勝することが大事なんだ」
根拠はないけれど、確信していた。誰の人生にも、きっとそういう瞬間はあると思う。七生にとってのその瞬間は、このフリープログラムの四分間なのだ。
ふぅという、コーチのため息が落ちる。
「わかった。七生のスケートは七生のものだから、あなたの決断を尊重する」
母としても、コーチとしても、不本意なのをどうにか我慢してくれているようだった。
「ありがと」
自分の名前がコールされ、七生はゆっくりとリンクの中央に向かう。
一昨日のショートプログラムに雀は来てくれなかった。それでも七生は、今日も彼女を捜して観客席を見渡す。
この位置から観客性は、向こうが思っている以上によく見えるものだ。
「七生くん、がんば~」
リンクメイトの女子選手たちが声をあげてくれている。そして――。
「七生! がんばれ、がんばれっ」
その声ははっきりと七生の耳に届いた。観客席のちょうど真ん中に、一番星の笑顔があった。
七生がスタートのポーズを取るとすぐに、音楽が流れ出す。
最初のジャンプは四回転サルコウだ。その軌道に入る前に七生は観客席の雀を見た。錯覚だろうけれど、目が合った気がした。
(一生、忘れられなくなる演技。今日、その夢を叶えてみせる)
高く、高く、舞いあがる。
(だから、見ていて雀。瞬きなんかせずに、最後の一秒まで全部――)