清らかな声が夜の闇に溶けていく。

「私、七生のクラスメートじゃない。……嘘を、ついた」

 思いがけない告白に、七生は思わず振り向きそうになる。その背中に彼女の声がかぶさった。

「振り向かないで! お願い、そのまま聞いて」

 切羽詰まった、苦しげな声。七生は彼女の言うとおりにした。

「嘘ばっかりついた、ごめん。でも、ひとつだけ本当のことも言ったよ」
「それは……なに?」

 七生の声はかすかに震えている。

「私、七生のスケート好きだよ」
「オリンピックでも、そうでない舞台でも、七生のスケートが一番好き」

 いつかと同じ台詞を、彼女はもう一度口にした。あのときはキラキラと輝く笑顔で七生を虜にしたけれど……今の彼女はきっと泣きそうな顔をしている。見ていないけど、そんな気がした。

(やっぱり嘘ばっかりじゃないか。俺のスケート、一度も見ていないくせに)
 
 その日を最後に七生はリンクに行かなくなった。
 学校には通っている。友達もいないから楽しくはないけれど、少し賢くなったかもしれない。

 安静期間の一週間は過ぎたけれど、コーチはなにも言わなかった。おそらく、これは七生が自分で決めるべき問題だからだろう。
 スケートも雀への思いも、まだ宙ぶらりんで結論は出ない。
 ホームルームの終了を告げるベルが教室に響く。七生は席を立ち、教壇のほうへ歩いていった。気がついた担任が声をかけてくれる。

「どうかしたか、生駒」

 彼はいまどき珍しい熱血タイプの教師で、学校生活にやる気のない生徒ばかりが集まるこの学校はあきらかに向いていなさそうだ。

「先生にちょっと聞きたいんですけど。このクラスに森川雀って女子、いないですよね?」

 雀はクラスメートというのは嘘だと言った。でも、彼女とは何度か学校の話をしたことがあった。どれも間違った情報じゃなかったし、まったくの部外者とは思えない。

(案外、本当にクラスメートの可能性も……)

 なにが嘘で、なにが嘘じゃないのか、疑わしい。

 担任は困惑したような様子で目を瞬いた。

「生駒。森川と知り合いだったのか?」
「え? じゃあ、やっぱりこのE組に?」

 七生の問いに、彼は首を横に振った。

「いや。彼女は去年の、2年E組の生徒だ」

 思いがけない答えだった。

(年上だったのか……)

「じゃあ! 今は三年のクラスに?」

 担任はもう一度首を振る。

「彼女は休学中のはずだよ」

 その後に続いた彼の話に、七生は呆然とするしかなかった。

 学校を出るとすぐに、リンクへ向かった。もう二度と行かないかも……と思っていたその場所に。

『難しい病気で入退院を繰り返していた。もともと学校へはほとんど通えていなかったと聞いている。この春、三年にあがるタイミングで休学届を出したはずだけど』

 担任の言葉がグルグルと七生の頭を回り続ける。

(不登校の理由は、病気?)

 そういえば彼女の肌は驚くほどに白かった。思わずつかんだ腕は、筋肉も脂肪もついていなくて折れそうに細かったことも覚えている。不自然なほどにゆったりとした動作も、病気のせいだったのだろうか。

 入退院を繰り返し、学校に通えなくなるほどの病。雀はどんな毎日を送っていたのだろう。想像するだけでも、胸がギリギリと締めつけられるように痛む。

(雀は、逃げてなんかいなかった)

 七生と会っていたあの日も、あの日も、ずっと闘っていたのかもしれない。

 彼女の声が耳に蘇る。

『不安って、起きる〝かもしれない〟ことを心配してるだけなんだよ。起きてから、悩めば十分じゃない?』