こくりと、彼はうなずく。それから、スケート靴を置いて七生と同じようにストレッチを始めた。数年前まで彼は身体の硬さが弱点だとコーチが嘆いていたのを覚えているけれど、今の彼は背中も腕もしなやかだ。

 いつもは眠そうにぼんやりしている彼の目が、まっすぐに強く七生を貫く。

「ひとつ年上の天才、生駒七生。ずっと邪魔だなって思ってたけど、いざ見えなくなると、ものすごくつまらなかった。早く戻ってきてよ」
「見えなくなるって……前から思ってたけど、お前結構いい性格してるよな」
「じゃなきゃ、オリンピアンにはなれないでしょう?」

 ははっと楽しそうに瞬太は笑う。

「なぁ、瞬太の夢ってなに? やっぱりオリンピックの金メダル?」

 今の七生にはだいぶ重い夢になってしまったけれど、四回転アクセルを跳べる彼なら堂々と口にできる目標だろう。しかし意外にも、瞬太はけろりと首を横に振った。

「金メダルも欲しいけど、僕の夢はもっと実現困難かも」
「もったいぶらないで教えろよ」

 誇らしげに彼は笑う。

「五回転。科学的には人間が成功できる限界値って言われてるらしいんだけど、それを僕が達成したい」

 四回転半は、目の前の瞬太をはじめとして成功させている人間がいる。だが、そこに加えてあと半回転がどれだけ果てしない道のりか……この競技をしている者ならみんな知っている。

「お。おぉ、そりゃあたしかに。五輪金より難しいかもな」
「別にオリンピックみたいに華々しい舞台でなくてもいいんだ。誰もいない真夜中のリンクでもいい。まだ誰も見たことのない景色を、僕が最初に見る。それが夢かな」

 ワクワクと目を輝かせて、彼は言う。我が道を行く、瞬太らしい夢だと思った。

「七生くんは?」

 聞かれて、七生は考える。

(今の俺の夢は……)

「一生、忘れられなくなるような演技。かな?」
「ふぅん」

 含みのある笑い方をして、瞬太が問いかけてくる。

「誰に?」
「へ?」
「誰に、忘れてほしくないの?」

 核心を突かれたような気がして、七生はおおいに焦る。

「そ、そりゃ観客の……」

 それが嘘だと自分でもわかっていた。

(違う。雀だ。雀の記憶に一生残るような、そんな演技がしたい)

 七生はひとつの大きな決心をした。

(雀に告白する)

『ごっこ』じゃない、本物の恋人になりたい。そして、あの悲しげな瞳の理由を聞く。七生は雀のおかげで希望を取り戻すことができたから、今度は自分が力になりたいのだ。

「どうしたの~? 怖い顔して」

 いつものように彼女は優しく笑う。

「雀。次の大会、応援に来てくれないか? 来月で、昼間……なんだけど」

 彼女は夜しか出歩かないと言っていた。昼間、それなりに人が集まるところに来るのは勇気がいることかもしれない。でも、この頼みだけは断られたくない。七生はそんな思いで言葉を重ねた。

「絶対に優勝するから!」

 最大のライバルである瞬太がシニアのカテゴリーに移ってくるのは来季だ。とはいえ東日本大会には、国際大会の表彰台常連の年上選手たちが何人も出場する。決して簡単な目標ではない。でも、だからこそ意味がある。

「わかった。必ず、見に行くね」

 雀はしっかりとうなずいてくれた。

「金メダルとるから……そうしたら雀に聞いてほしい話があって」

 雀がふいに距離を詰めてきた。下からのぞくように七生の顔を見て、ふふっと小悪魔めいた笑みを見せる。

「告白?」
「え、あ、いや」

 図星を突かれ、七生には返す言葉もない。そんな自分を見て、彼女はケラケラと笑い声をあげる。

「そんなに笑うことないだろっ」
「だって、あんまりベタだから」