「四回転も回りきっての転倒なら、まぁ現時点では及第点ってことにしておくわ」
「明日は、転ばない」

 氷を見据えて、七生はきっぱりと宣言した。

「その調子。得意のサルコウ一本でいいから、東日本までに仕上げましょう」

 次の大きな目標は、来月に開催される東日本フィギュアスケート選手権。
 年末に開催される国内ナンバーワンを決める全日本選手権、その予選会という位置づけの重要な大会だ。七生は今年、競技カテゴリーをジュニアからシニアに移行した。もちろん来シーズンに控えるオリンピックを意識してのことだ。

 生駒七生復活を内外にアピールするための第一歩は、この東日本大会でいい成績を残し、全日本選手権の出場権を獲得することだ。

(〝未来〟は考えすぎない。目の前の試合に集中しよう)

 いい意味で吹っ切れた。

 別に、何者にもなれなくていいじゃないか。オリンピックには出られないかもしれない。このままスケート中心の生活をしていたら、多分いい大学にも行けない。
 なにも得られず、取るに足りない平凡なおじさんになる可能性が高い。

(それでも、最高にかっこいいおじさんだ)

 青春時代を大好きなスポーツに捧げてきた。それは誇れることなのだと、雀が教えてくれたから。だから、もう迷わない。

 明日も明後日も履くことになるスケート靴を、丁寧に脱いで七生はリンクをあとにした。
 ロッカールームで軽いストレッチをしていると、こちらに向かってくるリンク仲間の雑談が聞こえてきた。

「ま、今さらだよなぁ。もう瞬太との差は埋まらないっていうか」
「結局はジャンプだしな。表現がいくらよくなっても、跳べなきゃ意味ない」
「あっ、やべ」

 ロッカールームの扉を開けて、なかに七生がいることに気がついた彼らは、しまったという表情で口を閉ざした。
 その顔を見るまでもなく、自分の話だな、と察しはついていた。

 正論が一番人を傷つける。それは反論できないからだ。

 七生は唇を噛み、聞こえなかったふりをする。そのみじめな背中に、別の声が届いた。

「本気でそう思ってるなら、見る目がなさすぎると思うけど」

 ボソボソと低い声でつぶやく、この喋り方は……。七生は声の主を振り返る。

「――瞬太」

 七生に代わって、クラブのエースの座についた瞬太だった。彼は長くこのクラブに在籍しているにもかかわらず、誰とも親しくしていない。『リンクのなかでしか喋れないんじゃないか?』と冗談半分でネタにされるほど無口な、超がつくマイペース人間だった。実際、七生も彼がロッカールームで口を開くのを初めて見た気がする。

 瞬太は真顔で彼らを見て、もう一度言った。

「七生くんのブラッシュアップしたステップ、足元が音楽を奏でているみたいで……極上だよね。あれに点数を出さないジャッジはいないよ」

 内容というより、瞬太が誰かをかばった事実に……ふたりは驚いたのだろう。戸惑った様子で顔を見合わせている。
 瞬太はお構いなしに続けた。

「間近で見ているのに、武器にならないって本気で思ってるなら……この競技には向いていないと思うな。ほかのスポーツをしてみたら?」

 淡々と、飄々と、彼はひどい言葉を吐く。ふたりは顔を真っ赤にして、わざとガタガタと音を立てながら荷物を取り、出て行った。
 バタンと力強くしまったロッカールームの扉に瞬太がつぶやく。

「行っちゃった。どこで着替えるつもりなんだろう」

 自分のせいで出ていったとは、これっぽっちも考えていないようだ。七生は思わずふっと噴き出す。

「瞬太が俺のステップ練習を見ていたなんて……驚いた」

 眼中にないかと思っていた、という意味の嫌みではない。
 彼はよくも悪くも、他人に興味がない。俗世を捨てた仙人みたいに、自分のスケートだけを追求している。七生の目にはそんなふうに映っていたから。

「見てるよ」

 けれど瞬太は、それをあっさりと否定した。

「去年のも今年のも。七生くんのプログラムは、振りつけを完コピできるくらいには、見てる」
「マジ?」