翌日の練習。七生はリンクの上でコーチに頭をさげた。

「え、振りつけの変更? 今季はジャンプを取り戻すのに集中するからって話だったじゃない」

 彼女の言うとおりだ。できるだけジャンプの練習に時間を費やす。そのためにジャンプ以外の要素、氷上で回転するスピンや複雑に足を動かすステップはあまり難しくないもので構成していた。
 フィギュアスケートの点数はジャンプだけでは決まらない。高得点を狙うために大事な要素はほかにもたくさんあり、トップ選手はすべてを高水準で揃えてくる。
 それでも、やはり一番比重が大きいのはジャンプだ。そこが成功しないと、ほかがどれだけ素晴らしくても勝てない競技なのだ。

 コーチはやや困惑した顔で言葉を続けた。

「ジャンプに集中する。戦略としては、間違っていないと思うわよ。今季はそれで復活を印象づけて、オリンピックのある来季に最高のプログラムを用意する。私もそれがベストと思っていたけど……」

(ジャンプがないと勝てない。ジャンプが失敗したらなんの意味もない……ここ何年かは、ずっとそんなふうに自分で自分を追いつめてた。だけど――)

 七生は顔をあげ、話し出す。コーチに、自分の思いを伝えたい。

「たとえジャンプに失敗しても、ボロボロでも、それでも最後まで見たいって思ってもらえる選手になりたいんです」

 七生は必死で訴えた。

「もちろんジャンプを諦めるわけじゃありません。今の練習メニューはしっかりこなします。そのうえで、振りつけのブラッシュアップをお願いします」

 驚きに見開かれていた彼女の目が、ゆっくりと細められる。「ははっ」と笑ったその顔は、コーチではなく母のものだった。もちろん、すぐに厳しいコーチの表情に戻ってしまったけれど。

「うん、いいんじゃない。私ね『生駒七生はジャンプだけ』って言われるの、実は我慢ならなかったの。あんたの武器はジャンプだけじゃない。それを世界に見せつけてやろう」

 世界に。コーチは今も七生を諦めていない。考えてみれば、致命的と言われた大怪我を負ったあとも彼女だけは諦めていなかった。
 ほんの少し、目頭が熱くなる。

「すぐに振りつけの先生に連絡を取るわ。今季は日本人に頼んであってラッキーだったわね」

 七生はもう一度、深々と頭をさげた。

「ありがとうございます!」

 やっと前を向くことができたように思う。もう氷の上で迷うことはなくなって、七生はひたすら練習に打ち込んだ。
 気持ちの変化はジャンプにもいい影響を与え……なんて、都合のいいことはもちろん起こらない。怪我した足を無意識にかばってしまう癖はそう簡単には直せず、四回転ジャンプの成功率はあいかわらずよろしくない。けれど、復活の兆しは見えてきていた。

「いいね! 感情をのせるの、すごくうまくなった。別人みたいよ」

 今季のフリープログラム『白鳥の湖』の通し練習を終えた七生に、コーチは満足げに拍手を送った。
 フィギュアスケートは技術と芸術の両立を目指す競技だ。点数の面ではどうしても前者が重要になってくるのだが、よりファンがつきやすいのは後者が得意な選手だと思う。雀の好きな白雪依子などはまさに両立を体現したような選手で、なるべくしてスターになった人だ。
 七生はもともと天才的に音感がよく、ダンスも得意なほうだった。なので決して芸術性の低い選手ではなかったのだが、演技はどうにも苦手だった。役になりきって、喜んだり悲しんだりするのが気恥ずかしかったのだ。

 けれど、ついにその殻を破れた実感があった。
 今の七生はリンクの上で王子さまになれる。悪女である黒鳥に翻弄された結果、恋を失い嘆き悲しむ悲劇の王子。彼の絶望が自分の手足を動かしている、そんなふうに感じるまでに、世界を作りあげることができていた。