『アイスクリスタル千葉』

 千葉県習志野市にあるアイススケート場だ。

「はぁ、急に寒くなってきたな」

 生駒七生(いこまなお)は黒いリュックにまとめた荷物を持って外に出る。

 十月初旬、少し前まで生ぬるかったはずの夜風がすっかり冷たくなっていた。
 七生は羽織っていたジャージのファスナーを首元まであげながら、空を仰ぐ。星の見えない、紺一色で塗りつぶしたような夜空だった。半年前まで暮らしていたカナダでは、もっともっと星が綺麗に見えた。スケートリンク以外にはなにもない田舎街だったので、当然といえば当然だが。

 七生は男子シングルのフィギュアスケーターだ。もっとも、今は〝終わった、元天才少年〟などと呼ばれている状況で、未来はこの夜空と同じくらい真っ暗だったが。

「十七歳で〝終わって〟、ここからなにすりゃいいんだよ」

 七生は自分の進路を邪魔していた小石を足先で蹴りあげた。軽く、ちっぽけな小石は音もなく転がっていく。

(今の俺は、あの小石くらいの価値しかないのかな)

 自虐のつもりで投げかけた言葉が、想像以上に鋭いナイフとなって七生の心臓をえぐる。
 スケートにすべてを懸けてきたから、学校なんかほとんど行ってない。友達も恋人も青春も、七生の手はまだなにもつかんでいなかった。

「あーあ」

 やるせないため息とともに、自分の分身のような小石の行く末を目で追った。それは誰かの白いスニーカーにぶつかり、止まった。

「え?」

 七生が顔をあげると、そこに見慣れない少女が立っていた。外灯の光が彼女を照らす。
 白い肌に、色素の薄い栗色の瞳。瞳と同じ色のふんわりした髪は腰まで届きそうな長さだ。

 白いパーカーにデニムジャケット、下は細身の黒いパンツというファッションだ。年齢は七生と同じ、高校生くらいだろう。

(新しく移籍してきた選手か)

 あまり悩まず、自分と同じスケーターだろうと推測した。だって、ここはスケート場だ。しかも競技レベルの選手がリンクを貸し切りで使う夜間帯。スケートと無関係な人間は、こんな時間にこんな場所には来ないだろう。
 ジャージではなく私服なので、見学なのかもしれない。

「こんばんは」

 清らかな、美しい声だった。

「どうも」

 短く答えて、顔を下に向ける。同世代のスケーターとはあまり交流したくない。みんな自分を知っていて、憧れと哀みが半分ずつといった目をするからだ。
 足早に彼女の横を通りすぎてから、七生はふと振り返った。

「あのさ。迎えを待ってるなら、ここじゃなくてあっち」

 駐車場の方角を視線で示した。夜間の練習は、どの選手も親が送迎する。彼女もきっとそうだろうと思ったのだ。七生は母親がここでコーチをしているので、最後の生徒の練習が終わるまでいつも車のなかで待っていた。あまり通えていない高校から出される課題を、この時間に終わらせるのが習慣だ。

 七生の後ろを彼女がついてくる。とくに会話もなく、駐車場までの道のりを歩いただけだが彼女がスケーターという自分の予想は間違いだったと気づく。

(歩くのおそっ)

 身のこなしがアスリートのそれではない。それに……彼女は、例の哀れみめいた眼差しを自分に送ってこない。きっと、七生のことなど知らないのだろう。
 フィギュアスケートはファンにとっては人気競技だが、興味のない人間にとってはただのマイナースポーツだ。

 彼女はきっと自分を知らない。
 その事実にホッとする。と同時に、少し焦る。結局、自分は何者にもなれていない。それを思い知らされた気分だった。

(世間一般から見れば、『元天才少年』ですらないんだよな)

 七生はくるりと後ろを振り返る。

「なぁ」

 のんびり、ゆっくりと歩いていた彼女が立ち止まり、弾かれたようにこちらを向く。
 七生はまっすぐに彼女を見つめた。

「あんた、誰?」

 現在の時刻は午後十一時。
 練習に来ている選手でないならば、少女がひとり、こんなところでいったいなにをしているのだろう?
 七生は鋭い目で彼女を見据えた。だが、彼女はそんな眼差しをふんわりと受け止め、笑みを浮かべる。
 思わず息をのむ、綺麗で優しい笑顔だった。

森川雀(もりかわすずめ)。生駒七生くん、あなたのクラスメートだよ」