「叶愛」

 あれから一年経った僕は、今も変わらず彼女の名前を呼んでいる。
その僕の声に、変わらない笑顔を向けてくれる彼女がいる。

「想君」

 優しくて、暖かくて、そんな彼女に名前を呼ばれながら自然と微笑んでいる僕自身が日常になった。

「叶愛、忘れ物はない?」

「大丈夫、想君は大丈夫?」

「僕も大丈夫だよ」

「じゃあ行こうか」

 少しだけ主張の強い青空の下を汽車で走っていく。
粗い線路の上を揺られながら、僕達はある場所へ向かう。
初めて旅行へ行った時の新幹線内を思い出す、彼女の声で特別に変わっていく景色が脳裏に浮かぶ。
そしてまた今日も、切り取られていく車窓からの風景が僕達の中で忘れられない特別へ変わっていく。
降車して肌に触れた生ぬるさも、少し湿気っぽい海風も、その全てが心地いい。

「綺麗な海だね」

「人も少なくて景色も良くて、話をするには最適だよね」

 彼女が纏っているスカートの裾が風に揺れる。
砂浜には二人の足跡が残っていく、僕より少し小さい足と歩幅。可愛らしさは残っているけれど、一年前に比べて彼女は遥かに大人になった。砂浜を少し歩き、ちょうどよく窪んだ岩に並んで腰掛ける。

「ねぇ想君」

「何?」

「あれから一年なんて早すぎると思わない?」

「すごく圧倒いう間だった、お互い受験で忙しかったこともあって数えるのも間に合わないくらい早く時間が過ぎていったよね」

 僕達が卒業するまでの数ヶ月は奇妙な程に早かった。
彼女の秘密と僕の過去が重なって、そして僕達は新しく愛をみつけた。
また教室で隣の席に座って、くだらない話を数えきれないほどして、卒業式でツーショットを撮って、それを思い出として交わして。
流れゆく瞬間を切り取ると、そこには十分すぎるほどの大切が詰まっている。

「ねぇ想君」

「どうしたの?」

「ちょうど一年前に私が想君に伝えたこと覚えてる?」

「忘れられるわけないよ、ちゃんと覚えてる」

「あの話を聴いた時、正直どう思った?」

 避け続けていた兄の最期の真相を知った時の衝撃は忘れることができない。
感情の焦点すらわからなくなってしまうほど、あれほど堅く決めていた覚悟が崩れてしまいそうになる程の衝撃。
それでも僕はその全てを受け入れて、今、彼女の隣にいることを選んでいる。
その選択をした理由は明確で、今でも鮮明に覚えている。

「正直……少し怖かった、でもそれ以上に安心したのかもしれない」

「安心か……」

「いつも笑ってて僕なんかとは釣り合わないって思っていた叶愛と僕に似てるところがあって、もっと僕達は分かり合える何かがあるのかもしれないって嬉しかったのかも」

「……そうだったんだ」

「叶愛は?」

「え?」

「僕にあの話をした時、どんな気持ちになったの」

 僕の問いに、久しぶりに難しそうな表情をする彼女。
懐かしい雰囲気だなとその沈黙に浸りながら、彼女の言葉を待つ。

「私は……話した瞬間はすごく怖かった、人生で一番鼓動が早くなってた気がする」

「そうだよね、それくらい怖いことだったよね」

「でも、想君が受け入れてくれてから……その怖さが暖かさに変わったんだ、話せてよかったって思えるようになったの」

「叶愛がそう思えているなら本当によかった」

「私も想君に本当のことを話せてよかった、話せないままだったら今もまだずっと苦しいままだったと思うから」

 一年前、僕達はお互いに全てを明かしたと思っていた。
それでも僕達が一年前に知ったことは、二人の過去に秘めていた真実だけだったということを知った。
そして今、僕達は一年越しにお互いの当時の感情を明かしあっている。
僕達はまた時間を重ねていく度に、秘密を重ねていくのだろう。それをまた笑いながら二人で包んで次の秘密をつくっていく。
全てを知らないことが、僕達の永遠なのかもしれない。

「ねぇ想君」

「ん?」

「付き合ってもう一年が経つけどさ、これから二人でどんなことをしたい?」

「どんなことか……旅行にも行きたいし、お揃いの服を着て出かけたりもしたい、一緒に美味しいものを食べて『美味しいね』って笑ってたい」

「絶対全部叶えようね、今から楽しみ」

「叶愛は?」

「え?」

「叶愛は一緒にどんなことをしたいの?」

「まだまだ話し足りたいこともたくさんあるだろうから……時間が許す限りお話がしたいな、何年経ってもくだらないことで笑える仲でいたいし、お互いの写真を溢れるくらい撮りたい」

「絶対幸せだね、叶愛のそういう少しロマンチックなところ好きだよ」

「ロマンチックか……あんまり自覚はしてないけど、ありがとう」

 あの日、彼女からの着信を断っていたら、こんなにも明るい未来は訪れていなかったと思う。
隣で笑う彼女の顔も、心地いい高さの声も、想像力豊かな未来の話も聴けぬまま、重苦しいもどかしさを抱えていたかもしれないと考えると言い表せない恐怖心に襲われる。

「僕ね、叶愛と出逢えていなかった自分を想像するとすごく怖くなるんだ」

「そうなの……?」

「きっとそれなりに生きてはいられていると思うんだけど、どこか空っぽで虚しいような気がして」

「私もその感覚わかるかも」

「叶愛も……?」

「想君に出逢ってから、私は新しい私に出逢えた気がしてるんだよね」

 彼女は照れ臭そうに笑いながら、爪先(つまさき)で海の水面を蹴る。
恥ずかしさを誤魔化しながら『出逢ってくれてありがとう』と呟く。
それは僕のセリフだよと思いながら、今はただ頷くだけという選択肢をとった。今の感情を僕の秘密にした。
またここへ二人で来た時に、彼女へ伝えられるように。

「叶愛、そろそろ行こうか」

「私が行って本当にいいの?」

「叶愛だから一緒に来てほしいんだ」

 熱すぎる太陽に照らされながら、石段を登っていく。
夏の終わりを知らせる蜩の声を掻き分けるように進む。

「ここがお兄さんの今の居場所なんだね」

「もう十一回目の夏になるね……」

 今日は兄に、僕の大切な人の話をする。
囚われ続けた過去から僕自身の足で踏み出したことを、そしてその時に僕の手を繋ぎ止めてくれた人が彼女だということを兄に伝えたい。
友達と呼べる存在すらいなかった当時の僕の隣にいてくれた兄へ。

「お兄ちゃん、僕はやっと僕の『愛』をみつけることができたよ」

「初めまして、想君とお付き合いさせていただいている楪 叶愛です」

 数分前まで少し緊張した表情を浮かべていた彼女の顔には笑みが溢れていた。そして頬には綺麗な滴が伝っている。
僕達が隠し、抱えていた『秘密』を『愛』と呼べるまでに、お互いを失いそうになる瞬間は数えきれないほどあった。
傷ついたことも、傷つけことも、救われたことも、救ったことも全てを超えて今の僕と彼女がいる。
一年前の僕へ、そして一年前の彼女へ。
恐れていた全てを明かした後の世界は、想像以上に明るく希望に満ちていると伝えたい。

 君の『秘密』を僕が『愛』と呼ぶまで、僕の『秘密』を君が『愛』と呼ぶまで。
僕達は手を離さないでいたい。