月が、今日も綺麗だった。
 冬の残滓を宿した風が頬をかすり、夜の闇へと吹き抜けていく。
 2月も半ばをすぎ、暦の上ではとっくに春だ。けれど、うららかで生命の息吹を感じさせる陽気の気配はまるでない。
 私のそばにあるのは、肌を刺す容赦のない冷気に、月明かりを微かに反射させる舗装したてのガードレール。縁石で仕切られ、車一台の影すら見えない県道が、田舎町らしく遥か彼方、地平の先まで長く伸びている。
 もっとも、こんな何もない一本道を延々と歩くのはごめんだ。どうせなら、もう少し景色が変わる道を歩きたい。私は、途中にある脇道へと逸れ、住宅街へのほうへと進路を変えた。
 誰もいない歩道に、私の足音ばかりが響く。遠目に見える家々の窓は暗く、近づかずともひっそり静まり返っているのがわかった。
 当たり前だ。
 時間は午前2時を少し過ぎたころ。丑三つ時で、草木もすっかり夢の中だ。
 でも、人間の私は厚手のコートにマフラーを巻き、帽子とブーツも装備という防寒対策完璧な装いで外に出ている。夢遊病というわけではない。意識ははっきりと、鮮明かつ冷静に物事を考えることができる。きっと、高校で授業を受けている時よりも頭の回転は早い。
 私は今、真夜中のお散歩の真っ最中なのだ。

 思い返せば、いったいいつから私は真夜中にあちこちを徘徊、もといお散歩をするようになったのだろう。
 あれは確か、半年ほど前。秋だったはずだ。いつも通り勉強にまったく集中できなくて、自室の窓から見える見事な銀杏並木に誘われるように、夜の10時頃に外へ出たのだ。そして無我夢中に歩き回り、気が済んで帰ったら夜中の3時だった。両親は既に寝ていたから、鍵を持って出ていなかったら人生初の野宿をするところだった。
 ただ、今思えば、そのほうが良かったのかもしれない。
 締め出されていたほうが、もう少し自分を許せていたのかもしれないと、あの日ベッドに潜り込んでから思った。

 なぜ私ばかりが、自由を許されているのか。
 どうして私だけが、好きにしていいのか。

 心の中で自問自答してみるも、答えはひとつだ。

 兄が、私を守ってくれたから。
 兄が、私の代わりに親の期待を背負ってくれたから。
 兄が、あらゆる呪縛から私を解放してくれたから。

 いろいろと言い換えることはできるけれど、要するに私の実の兄、雪城陽斗のおかげなのだ。
 優秀で優しい兄の人生を犠牲に、私という出来損ないの妹は一切の干渉なく青春生活を謳歌できる。交友関係も、学校の成績の良し悪しも、恋愛も、アルバイトも、夜中の徘徊すらも、すべて自由に選択することが可能だ。
 一方の兄は、大学生になった今も、交友関係を縛られ、医師になるための勉強に明け暮れ、恋愛もアルバイトも禁止された毎日を過ごしているというのに。

「あーあ。最低だな、私……」

 いつ思い出しても、自己嫌悪が薄れる気配はなく心に漂っている。
 ノートを開けば、幼い頃に幾度となく浴びせられた怒号が蘇る。テストの点が悪い時は叩かれることもあった。
 その度に、兄は私を庇ってくれた。父を説得し、母を宥め、懇切丁寧にわからないところを教えてくれた。兄の教え方は上手だったけれど、両親が怖かった私は勉強に集中できず、成績はほとんど上がらなかった。
 両親のため息を、何度聞いたかわからない。
 軽蔑した眼差しで、「陽斗はあんなにできるのに、どうしてあなたは……」と、何度比べられたかわからない。
 そんな毎日が続いた小学6年生のある日、私はたまらなくなって家を飛び出した。勉強時間として割り当てられていた時間を過ぎ、夕食時を過ぎても帰る気にはならなかった。ひとりで公園のベンチに腰掛け、ひたすらに鼻をすすり上げていた。私はただ、穏やかに毎日を過ごしたかった。
 いつまでそうしていたのか。気がつくと、柔らかな微笑みを浮かべた兄が横に座っていた。

「もう大丈夫だよ、月乃。一緒に帰ろう」

 落ち着いた口調で話しかけ、兄はそっと私の手をとった。帰りたくなかったけれど、好きな兄を困らせたくなくて、私は何も言わずになされるがまま手を引かれていた。
 そして家に帰ると、両親は玄関に仁王立ちしていて、私を見下ろした。
 叩かれる……!
 思わず頭を庇ったけれど、拳は降ってこなかった。

「早く入りなさい。ご飯、できてるから」

「先に手を洗うんだぞ」

 意外なほど落ち着いた声だった。あれほど厳しかった父も、あんなに感情的だった母も、私を怒鳴りつけることはしなかった。
 しかも、その日以降、2人は私のしていることに対して何も言わなくなった。成績が悪かろうと良かろうと、遊んでいようと勉強していようと、いっさい干渉してこなくなった。兄に尋ねても、笑って首を傾げるだけだった。
 不思議に思い、盗み聞きした両親の深夜会議で、兄が両親と交渉した結果だと知った。
 父も母も目指して叶わなかった、医師の夢。
 その夢を、兄が必ず実現してみせる。その代わり、妹の私には強制することなく自由にさせる。私が嫌がるような過干渉をすれば、兄は医師にならない。
 そんな交換条件を、私が家出した日に取り付けたらしい。
 どこまでも妹に甘く、優しすぎる兄だった。
 そんな自己犠牲なんて、やめてほしかった。私のせいで、兄の人生が狭まってしまうなんて嫌だった。
 けれど、両親が怖くて、またあの憂鬱で怯えた日々に戻るのが辛くて、私は言い出すことができなかった。
 気がつくと、こうして高校3年生の手前になるまで、私は自由に生きてきた。
 ずっと後ろめたさがあった。罪悪感があった。
 そんな負の感情を少しでも紛らわしたくて、私は半年ほど前から夜中にお散歩をするようになったのだ。
 ……いや。正しくは、もうひとつほど理由があるか。もっとも、それこそ私の人生においては無縁としたいものなのだけれど。

 消したくても消せない記憶に浸っていると、いつの間にか住宅街の奥まったところにある公園の前まで来ていた。くだんの、私が最初で最後の家出をした時に、兄が迎えに来てくれた公園だ。

「はぁー……寒いな」

 隅にポツンと置かれたベンチに腰掛け、肺に溜まった空気を吐き出す。大気中に広がった白い息は、瞬く間に夜の暗闇へと溶けて見えなくなった。どうせなら、私のこの憂鬱な気持ちも一緒に消えてくれればいいのに。
 ふぅーっと、もう一度息を吐く。
 深呼吸をするみたいに、今度は細く、長く。
 頭の中が冷静になるように、なるべく心の熱が冷めるように。

「あれ? もしかして、雪城か?」

「ひゃっ!?」

 反射的に肩が跳ねた。驚いて、私は振り返る。

「ごめんごめん。驚かすつもりはなかったんだ」

「え……た、小鳥遊、くん?」

 公園の入り口に立つ街灯の下で、一人の男子がひらひらと手を振っていた。
 短く切り揃えられた黒髪に、子供っぽい大きな瞳。未だに濃い冬の気配を吹き飛ばすような、爽やかで快活な笑顔が印象的だ。

「こんばんは。雪城月乃さん」

 穏やかな口調で夜の挨拶をする小鳥遊くんを、私は何も返せずにただ呆然と見つめていた。言葉が出てこなかった。確かにコミュニケーションはそんなに得意じゃないけれど、それとこれとは話が別。だって……
 
「あ、あの……本当に、小鳥遊くん……? クラスメイトの、小鳥遊涼くん?」

「そうだけど、はははっ、なにその反応! 雪城、もしかして寝ぼけてる?」

「いや、だって、あまりにもクラスの時と雰囲気が違うから」

 小鳥遊涼くんは、私と同じクラスの男子だ。席が右斜め前で、板書をする時や先生の話を聞く時、また休み時間の時にもどうしても視界に入る。
 そんな視界の端で見る彼は、爽やかで快活な笑顔とは正反対の、とにかく無口で無愛想な感じの人だったはずだ。少なくとも、クラスで友達と笑い合っているところは見たことがない。というか、友達と話しているのすら見たことがない。

「あーまぁ、確かにそうかも。でも俺、そんなに笑ってないかな?」

「う、うん。悪いけど、私は見たことないかな……あ、でも、一度……」

 校舎裏で野良猫を撫でていた時に小さく笑っていたっけ……。
 言いかけて、私はハッとした。開きかけていた口を慌てて塞ぎ、記憶を振り払うべく首を横に振る。

「あははっ! 今度の反応はなに?」

「な、なんでもない! 一度……そう! 一度も見たことがない、のです!」

「のですって、あはははっ!」

 あけすけに笑う彼の顔をもう一度凝視する。
 ……間違いない。
 雰囲気が全然違うけど、目の前にいるのは、同じクラスの小鳥遊涼くんだ。

「も、もう。私のことはいいでしょ。それより、なんでこんなところにいるの?」

 少し笑いすぎだと思いながら、私は話題を変えようと尋ねた。

「ああ、いや、ただの散歩だよ。雪城は?」

「わ、私も」

「へぇー意外だ。雪城って、クラスじゃ大人しくて真面目そうなのに、案外不良なんだな」

「た、たまたまだよ。たまたま、眠れなくて……」

 声がすぼむ。もうひとつの理由に思い当たって、ほとんど無意識のうちに。

「ふーん? でも女子高生がこんな夜中にひとりで出歩いてたら危なくないか? あと補導されるだろ」

「ほ、補導は小鳥遊くんもでしょ」

「はははっ、違いない」

 その日は、そんな他愛のない話だけしてすぐに解散した。
 夜も遅かったし、気温も低くて寒かったから。

 ……もっとも、私の胸の内はさらに熱くなってしまったのだけれど。