大人になるということが、楽しくも嬉しくもないのに笑顔を貼り付けることだというのなら、私は大人になんてなりたくない。
立て付けの悪い引き戸を開けると、畳の上に持ってきたカバンを放り投げた。小さな机と本棚とそれから布団が置かれた狭い部屋。大きな窓が玄関側と反対側に一つずつ。住み慣れた自分の家とは全然違うこの部屋が今日から二週間、私が暮らす場所となる。
「はぁ、つまんない」
放り投げたカバンを枕にして畳の上に寝転がる。小六の修学旅行用に帰ってもらったバッグには『初瀬夢』と私の名前が書かれたネームプレートがついたままになっていた。
天井にある顔のように見えるシミ、小さい頃はあれが怖かったっけ、と思い出す。小学校に上がる前ぐらいまではお母さんの田舎であるこの村によく来ていたけれど、ここ十年ぐらいは一度も来ることがなかった。
「夢ー、それじゃあお母さん帰るからね」
外から私を呼ぶ声が聞こえて部屋の窓を開け顔を出すと、玄関の前からこちらに向かって手を振っているお母さんの姿が見えた。自宅の二階よりも低い場所にある窓から手を振り返すと、お母さんは安心したように頷き車に乗り込む。私の住む街から高速に乗って二時間半。たったそれだけしか離れていないように思うのに、ここは随分と田舎で、それから静かだった。
「静かなのはいいかも」
都会はうるさすぎる。無機質な音も人の声も。興味が無い話題でも友達が話せば楽しげに相づちを打ち、面白くもないのに笑う。クラスの中でもキラキラと輝いている子たちには逆らうことさえできず右に倣えするような日々に、ある日嫌気が差した。
その瞬間、あんなにも輝いていると思っていた子たちが、くすんで見えた。流行のスイーツも砂を噛んでいるように美味しくない。テレビの向こうで手を振るアイドルにも興味が持てなくなった。何もかもが楽しくなくて、全てが嫌になった。
学校に行く意味を見いだせなくなったのもその頃だ。だんだん休みがちになり、気づけば今月に入ってからは一度も登校していない。保健室登校でもいいから、とか何かあったら相談に乗るぞ、なんて言葉をかけられるけれど、そんなの私にとってはなんの意味もなかった。だって学校に行かないことに対して、明確な理由なんて存在していないのだから。
母親の車が見えなくなってからも、私はただボーッと外を眺め続けていた。すると、敷地の外からこちらを覗いている人影が見えた。
「何あれ」
キョロキョロと辺りを見回し、こっそりとこちらを窺うその姿は怪しい以外としか言いようがない。
「まさか、泥棒……?」
こんな田舎で? と、思わなくもなかったけれど、年寄りを狙う詐欺が多いというのはニュースで見て知っていた。であれば、年寄りを狙う泥棒がいてもおかしくはない。
とりあえず家に人がいることがわかれば泥棒も諦めて帰っていくかもしれない。そう思った私は窓から身を乗り出して伸びをした。
「んー、いい天気だなー」
言いながら下を見ると、泥棒(多分)と目が合った。クスッと笑われた気がして、途端に恥ずかしくなる。
慌てて窓を閉めようとして、私は何かが引っかかりもう一度外を見た。あの人、知っている気がする。どこかで見たことがあるような。
「おーい、夢だろ? 俺だよ俺!」
泥棒だと思った人は、私の名前を呼んだ。まさか。
「凉太だよ! 忘れちゃったのか?」
「凉太? 嘘でしょ」
それは小さな頃、ここに来るたび一緒に遊んだ幼馴染みの名前だった。
「懐かしいな。夢ってば全然変わってないからすぐわかったよ」
「そっちも、変わってないね」
「そうか? 身長だいぶ伸びたと思うけど」
大声で名前を呼ばれた私は、慌てて部屋を飛び出すと、おばあちゃんに「ちょっと散歩に行ってくるね」と告げて凉太と一緒に外に出た。久しぶりに会ったというのにまるで昨日も一緒にいたかのように話しかけてくる幼馴染みの名前は、桐山凉太。
一緒に川に行っては頭からびしょ濡れになり、山に行けば遭難しかけ『もうあの子とは遊んじゃ駄目!』と言われたのも一度や二度ではない。
「それでそれで? いつまでこっちにいんの? しばらくいるならまた昔みたいに遊ぼうぜ」
「遊ぼうって……私たちもうちっちゃな子どもじゃないんだよ」
「えー、別に遊ぶのに年齢なんて関係ねえじゃん」
不服そうに唇を尖らせる凉太は、あの頃と変わっていない無邪気なままだ。子どもの頃は同じように素直にいられたのに、今ではまるで生きる種族が違うのではないかと思うぐらいに違っていた。
「とりあえず二週間ぐらいかな。でも退屈だったらもっと早く帰るかも」
「じゃあ、二週間みっちりいられるな」
「だから、退屈だったら帰るって」
私の言葉なんて聞いていなかったかのような凉太の返事に、思わずイラッとした反応を返してしまう。けれど、そんな私の棘なんて気にならないのか「だってさー」と犬歯を見せて笑った。
「退屈なんて思えないぐらい、ここは楽しいこといっぱいだからさ」
自信満々に目を輝かせて話す凉太は、私には眩しすぎて思わず目を逸らした。
「だいたいさ、退屈な日なんてあるわけないんだよ。風の冷たさや強さだって、太陽のあたたかさだって星の位置も木々のざわめきだって、一日たりとも同じ日なんてないんだからさ」
「何それ、新手の宗教?」
「違うわ!」
真剣に言う凉太が恥ずかしくて、私は思わず茶化してしまう。木々や風のざわめきなんて気にしたこともなかった。都会の日々は、毎日がどこか忙しなくて、無機質で、駆け足でついていかなければ置いて行かれてしまう。どうにかしがみついて、脱落しないように必死だった。
「見ようとしないから見えないだけのものがたくさんあるって話だよ」
「見ようとしないから」
空を見上げると、雲がゆっくりと動いている。鳥が鳴き、どこからかおいしそうな匂いがする。私が見ようとしなかったものは、この中にあるのだろうか。
その日から、私はお昼ご飯を食べると凉太と一緒に出かけるようになった。というか、お昼が終わったころを見計らうかのように、凉太が呼びに来るのだ。今日は山に行こうとか、川に行こうとか、誰々さんの家の軒下に燕が巣を作ったとか。どうでもいいといえばどうでもいいことを、毎日楽しそうに話しにくる。
おばあちゃんには「凉太と出かけてくるね」と伝えてあるのに、何度言っても「一人で遠くまで行っちゃいけないよ」と言われる。耳も遠くなったし、少しボケてしまっているのかもしれないと思うと寂しい気持ちになる。もしかしたらいつか、私のことも忘れてしまうのだろうか。
それにしても。
「よくも毎日、そんないろんなことを見つけられるね」
「んー、俺からすればよくもそんなに周りに対して無関心でいられるなって思うけど」
「は?」
嫌み、だと思った。けれど、凉太は素直にそう思っているようで、不思議そうに私を見つめてくる。
「だってさ、こんなにもいろんなことが毎日起こってるんだよ? 一日だって昨日と同じ日なんてないんだから、気にかけていかなきゃ見落としちゃうよ」
そんな考えは、私にはなかった。毎日というのは同じ日々の繰り返しだと思っていた。でも。
「ほら、思いっきり息を吸い込んでみてよ。夢が来たときよりも、風の匂いが冬に近づいてるのがわかるから」
凉太に促され、私は深呼吸をするように鼻から息を吸い込んだ。少しだけ冷たさを含んだ空気は、たしかに冬の訪れを感じさせる。
「ね、わかるでしょ」
「言われてみれば」
「音もさ、季節によって違うよ。鳥の鳴き声とか虫の声とか葉の擦れあう音とか」
耳を澄ましてみるけれど、それは私にはわからない。でも、きっと凉太にはわかるんだろうなと思うと、少しだけ凉太が羨ましく思えた。
「ねえ、夢の住んでいるところの話も聞かせてよ」
凉太は川べりに寝転がりながら私に話しかける。先ほどまでどちらが遠くまで石を投げられるか、という勝負をしていたせいでお互いに薄らと汗をかいていた。ちなみに私の石がボチャンと川の中に落ちてしまったのに比べて、凉太の投げた石は水面を跳ね、川の向こう岸手前までたどり着いていた。
「私の? うーん、なんにも話すこととかないよ」
「そんなことないでしょ。普段どこで遊んでるとか、こういう場所があるとか色々あると思うけど」
「えー……。都会なんて何でもあるけど、何にもない。退屈なところだよ。ここの方がよっぽどいろんなものがあっていいよ」
実際、凉太に連れ回されていろんなところに行くたびに、今までにはない発見があった。それは木々に成る果実だったり、素手で捕まえる魚であったり、都会では経験のできないことばかりだ。そう言う私に対して、凉太は笑った。
「都会から来たからそう言えるんだよ」
「どういうこと?」
まるで私が何もわかってないと言わんばかりの態度に、思わず尋ね返す。凉太は私の方を見ず、空を見上げたまま口を開く。
「こっちには何でもあるけど何にもない。都会にはあるはずの大きな病院もないしね」
「それは、たしかに」
「だからさ、俺高校を卒業したら夢の住むところにいきたいんだよね」
「ここが退屈だってこと?」
いじわるく言う私に、凉太は微笑みを浮かべた。
「俺、医者になりたいんだ。地方の医療は都会に比べるとどうしても劣ってたりできないことがおおかったりするから。都会で勉強して医者になって戻ってきたい。それで、今まで世話になったじいちゃんやばあちゃんたちを少しでも助けてやりたいんだ」
「凉太……」
同い年のはずなのに、私よりもずっと先を見つめている凉太に恥ずかしくなる。今を退屈だ退屈だと不平を言う私とは全然違う。
「そっか、それが凉太の夢なんだね」
私の夢は、なんだろう。何になりたいのだろう。
「夢じゃない」
凉太はハッキリとした声で言った。
「これは、俺の描く未来だ」
「未来……」
「そう。夢にはないの? なりたいこととかやりたいこととか」
「私は、そんなの全然……」
まっすぐな視線を向けられて、私は視線を逸らしてしまう。幼い頃は思い描いていた未来も夢もあったように思う。でもいつの間にか今を生きることに精一杯で夢を見ることなんてしなくなった。
今の私は明日を生きることさえ億劫で、退屈な日々を過ごしている。
「ただいま」
台所にいるおばあちゃんに声をかけるけれど、すっかり耳が遠くなってしまったのか聞こえているのかいないのかわからない。
小さな頃は、外から帰るとおばあちゃんが作ってくれたホットケーキを食べるのが好きだった。ここに来てから、幼い頃のことをよく思い出す。まだ私が無邪気で、夢見ることを諦めていなかったころのことを。
「あれ? これって」
居間に置かれた箪笥の上には、子どもの頃の私がおばあちゃんに送った年賀状が飾ってあった。
「懐かしい。たしか小学校一年生のころの宿題だ」
祖父母に年賀状を出しましょう、みたいなものだった記憶がある。でも、何を書いたのか全く覚えていない。丁寧に飾られたそれをフレームから取り出すと、裏面を向けた。そこには拙い字で、こう書かれていた。
『いつかぱてぃしえになっておばあちゃんにおいしいおかしをたべさせてあげたいです』
「そういえば、こんなこと書いた気がする。
将来の夢はパティシエ。テレビで見るみたいな豪華でキラキラしているケーキを作りたい、たしかにそう思っていた。
でも大きくなるにつれ、周りのみんなが現実的な夢を描き出すと、いつまでも子どもみたいなことを言ってないでちゃんと考えた方がいいよ、なんて言われるようになった。私自身も子どもっぽい夢を持っていることは恥ずかしくて、いつの間にか蓋をしてなかったことにしてしまっていた。
「ねえ、おばあちゃん。あとでキッチン使ってもいい?」
「んー? いいよ。夢ちゃんはお菓子を作るのが上手だもんねえ」
「おばあちゃん、覚えててくれたんだ」
ニコニコと笑うおばあちゃんの優しい視線が妙に照れくさくて、私はへへっと笑った。
おばあちゃんちのキッチンにオーブンなんてものはなくて、電子レンジだけ。ハンドミキサーもないから生クリームはお玉で必死にかき混ぜて作った。お菓子を作るのも久しぶりだし、材料もきちんとしたものは揃えられず、できあがったのはホットケーキミックスで作るなんちゃってチョコケーキだった。それでも久しぶりにするお菓子作りは楽しかった。
「これ、よければ食べてほしいんだけど」
ラッピングなんてあるわけないので、タッパーに入れて持ってきたチョコケーキを、寂れた公園のブランコに乗る凉太に差し出した。
「え、何これ。ケーキ? 夢が作ったの?」
「うん……。でも久しぶりに作ったし、そもそも美味しくないかもだし、だから、えっと」
「いただきます!」
凉太はケーキを手づかみにすると、半分ほど口の中に入れた。黙ったまま咀嚼する間の時間が、まるで永遠のようにさえ感じられる。ドキドキと心臓の音がうるさい。味見もしたし不味くはないと思うけど、でも……。
「美味い!」
「ホント……?」
「うん、これめっちゃ美味い! すげえな、夢! こんなの作れるんだな」
「お、大げさだよ。でも美味しかったならよかったぁ」
ホッとして気が抜ける。パクパクと隣で食べ続ける凉太につい視線を向けてしまう。いつか私がパティシエになったとき、こうやってまた凉太に食べてほしいな。そんな夢を――未来を思い描きながら。
自宅にいた頃は一週間どころか、一日さえもなかなか経たずただ繰り返すだけの日々を退屈に過ごしていた。けれど、こちらに来てからの毎日は凉太のおかげで楽しくて充実していて、気付けば自宅に帰る二日前になっていた。
「帰りたくないなぁ」
ポツリと呟けば、今日も隣に座る凉太が「もうそんな時期か」と言いながら釣り糸を川に垂らした。餌はさっきその辺で捕まえたミミズらしい。それで釣れるのかという心配と釣ったところで食べられないのではという不安がある。凉太曰く、釣るのが楽しいだけだから無闇に殺したりせずまた川の中に戻す、らしいけれど。
「二週間あっという間だった」
「だね。そっか、帰るのかぁ」
「うん……」
帰りたくない。でも帰らなくてはいけない。いつまでもここにいるわけにいかないのはわかっている。今の私は現実から逃げているだけだから。でも、もう少しだけこっちで凉太と一緒に過ごしたいと思ってしまう。
「凉太さ、大学はうちの方に来るって言ってたよね」
「うん、そのつもりだよ」
「じゃあ、そのときは私がいろんなところ連れて行くよ。カフェとか大きな本屋さんとか。凉太が行きたいところ全部」
「ホント? あ、でも俺が行きたいところじゃなくて、夢が連れて行きたいところに連れいてってほしい」
「私が?」
凉太の不思議な提案に思わず首を傾げた。
「そう。夢が俺を連れて行きたいって思うぐらい楽しいところをいっぱい見つけといてよ。ここ連れてきたら喜ぶだろうな、とかこういうの好きそうだな、とか」
「何それ」
思わず笑ってしまった私に、凉太は真剣な表情を見せた。
「そしたらさ、帰っても俺のこと忘れないでいてくれるでしょ」
「凉太……」
その言葉があまりにもまっすぐで、目を逸らしたくなる。
「糸、引いてるよ」
「……うん」
誤魔化すように、釣り糸に視線を向ける。でも、凉太の目はジッと私を見つめたままだ。
「……私、帰っても、凉太のこと、忘れないよ」
「……ありがと」
そう言って笑う凉太の表情が、なぜかとても寂しそうに見えた。
「ゴホッ……ゴホッ……」
煙たさに目を覚ましたのは、自宅に帰る前夜だった。目を開けると、真っ暗なはずの室内にはなぜか煙が充満していた。
「何、これ……」
何が起きているのか、理解できなかった。ただ息を吸う旅に、煙が肺の中に充満して息苦しさから涙目になる。
「まさか、火事……?」
回らない頭で必死に考える。たしか、火事の時は窓を開けると余計に火の勢いが強くなるから開けちゃ駄目なはず。とにかく部屋を出て一階に行かなくちゃ。そう思った私は、部屋の扉を開けた。
「嘘でしょ……」
一階はすでに煙が充満していて、階段の下まで火が来ているのが見えた。これじゃあ逃げることなんてできない。
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
おばあちゃんは避難できているのだろうか。今この瞬間も、一階で火に襲われていたりしないだろうか。
「なんで、こんなことに……」
帰りたくないと、思ってしまったから。ここにこのままいられたらいいのにと願ってしまった罰なのだろうか。
「助けて……凉太……」
「夢!」
「え……?」
「夢! こっちだ!」
玄関とは真逆の、裏庭に面した窓の向こうから凉太の声が聞こえた気がした。窓を開けても大丈夫だろうか、と不安に思ったけれど、気づけば私は声を頼りに部屋の窓を開けていた。
「凉太!」
「夢! 大丈夫か?」
「大丈夫、じゃないけど……。でも私よりおばあちゃんが!」
「ばあちゃんは大丈夫だ! さっき裏の家の鈴木さんが助け出してくれた!」
「よかったぁ」
ホッとしたら気が抜けて、その場に座り込んでしまう。けれど、凉太の怒鳴り声はまだ続いていた。
「大丈夫じゃねえよ! 夢! そこから飛び降りろ!」
「む、無理だよ! そんなことしたら死んじゃう!」
いくら屋根が低いとはいえ、二階から飛び降りるなんてことできるわけがない。りょつあの言葉を否定する私に、凉太は怒ったように言った。
「無理じゃねえよ! 俺が受け止めてやるから! そのままそこにいたら焼け死んじまうんだぞ!」
「それは、そうだけど」
「絶対に大丈夫だから! 俺を信じろ!」
たしかに凉太の言う通り、このままここにいても待つのは炎と死だけだ。それなら、でも。たくさんのでもとだってが頭の中でごちゃごちゃになる。
「夢!」
「だって、怖いよ」
「怖くない。大丈夫。絶対に俺が助けてやる」
「凉太……」
私は――覚悟を決めた。
窓を出て、屋根の上をそろそろと降りていく。屋根の一番低いところから下を見ると、凉太の姿が見えた。
「来い!」
怖いことに変わりはない。でも、その声は私に勇気をくれた。
凉太の腕に飛び込むようにして、私は屋根から飛び降りた。
目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。
「夢!」
「夢ちゃん!」
「あれ……わた、し」
何が起きたのかよくわからない。ただベッドの周りで両親が泣いているのが見えた。
そうだ、私、火事で……。
「おばあちゃんは!?」
慌てて起き上がろうとした私を看護師さんが手で制した。
「まだ安静にしていてください。頭を打ってるかもしれないのです」
「そんなことよりおばあちゃん……!」
「おばあちゃんなら無事よ。ほら」
涙を拭いながら言う母親の視線の先には、私と同じようにベッドに寝かされたおばあちゃんの姿があった。
「煙を吸っていたから少し安静にしてもらってるけど、命に別状はないわ」
「よかったぁ……」
ホッとして、それから周りを見回すと凉太の姿がないことに気づいた。
「ねえ、おか――」
「よかったはこっちのセリフよ。あなたが無事で本当によかった。二階から飛び降りるなんて無茶して……」
「だって、そうしないと助からないって凉太が」
「凉太くんって……」
私の言葉に、お母さんが口を押さえ、それから「そんなわけない」と首を振った。
「あなたは一人で倒れてたのよ」
「違うよ! 凉太が助けてくれたんだよ! 絶対に大丈夫だから飛び降りろって言って、受け止めてくれて」
「夢、あなたはきっと意識が朦朧としてたから……」
「なんで? 凉太が助けてくれたらおかしいの? 凉太は私の命の恩人なのにどうして……! こっちにきて毎日退屈だった私を連れ出してくれたのは凉太だよ! 同じような日々にも変化はあって、だから楽しいんだって気づかせてくれたのは凉太だよ!」
「……凉太君は、もういないの」
母親の言った言葉の意味が、私には理解できなかった。
「は……? どういう意味……? だって私、今日も昨日も、こっちに来てから毎日凉太と一緒に遊んでたよ……?」
「火事のせいで記憶が混濁してるのね。……あのね、夢。凉太君は去年の冬になくなったの」
「え……?」
「川で溺れた小さな子どもを助けようとして、それで」
「そんな、こと……あるわけ……」
じゃあ、昨日まで私が一緒に遊んでいたのはいったい誰だったと言うのか。私に日々の移り変わりを教えてくれて、未来を語って、来年一緒にいろんなところに出かけようと約束したのは、いったい……。
「あなたは毎日ひとりで楽しそうに出かけてるっておばあちゃんは言ってたわ。少しずつ明るさを取り戻してきたから安心してるって」
「ひとりで……って、嘘……」
「今はゆっくり休みなさい。落ち着いたら一緒に帰りましょ」
「お母さん、私……!」
「大丈夫だから。ね」
その言葉を最後に、私の意識は再び途切れた。
結局、私が退院できたのはそれから三日が経ってからだった。すっかり身体がよくなった今となっては、もしかしたら凉太と過ごした日々が幻だったのかもしれないとさえ思えてくる。
でも。
大きく息を吸い込むと、冬の匂いに溢れた空気が肺の中いっぱいに広がる。
空を見上げると、秋から冬へと移り変わった雲が、形を変えて進んでいく。
私の中には凉太と過ごした日々がたしかに残っていた。何一つ形にすら残っていないけれど、思い出としてきちんと私の中に息づいている。
誰に話してもきっと信じてもらえない。でも、それでいい。彼が私を変えてくれた過去は変わらない。背中を押してくれた言葉は、今でも胸の中に残っている。
「よし、帰るかな」
自宅に帰って、彼と一緒に行きたい場所をたくさん見つけよう。彼が喜ぶ場所を、私が楽しいと思うところをたくさんたくさん探そう。
私が生きる明日は、彼が生きたかった未来だ。
退屈だなんて、もう言わない。暇だなんて思わない。
だってこれからまだまだたくさんの道が私には待っている。
未来を思い描いていた彼の分まで、そして彼と一緒に歩く未来を描いたあの日の私の分も、前を向いて生きていく。
涙を拭って、顔を上げると、私は一歩踏み出した。
まだ見ぬ、新しい未来へ。
立て付けの悪い引き戸を開けると、畳の上に持ってきたカバンを放り投げた。小さな机と本棚とそれから布団が置かれた狭い部屋。大きな窓が玄関側と反対側に一つずつ。住み慣れた自分の家とは全然違うこの部屋が今日から二週間、私が暮らす場所となる。
「はぁ、つまんない」
放り投げたカバンを枕にして畳の上に寝転がる。小六の修学旅行用に帰ってもらったバッグには『初瀬夢』と私の名前が書かれたネームプレートがついたままになっていた。
天井にある顔のように見えるシミ、小さい頃はあれが怖かったっけ、と思い出す。小学校に上がる前ぐらいまではお母さんの田舎であるこの村によく来ていたけれど、ここ十年ぐらいは一度も来ることがなかった。
「夢ー、それじゃあお母さん帰るからね」
外から私を呼ぶ声が聞こえて部屋の窓を開け顔を出すと、玄関の前からこちらに向かって手を振っているお母さんの姿が見えた。自宅の二階よりも低い場所にある窓から手を振り返すと、お母さんは安心したように頷き車に乗り込む。私の住む街から高速に乗って二時間半。たったそれだけしか離れていないように思うのに、ここは随分と田舎で、それから静かだった。
「静かなのはいいかも」
都会はうるさすぎる。無機質な音も人の声も。興味が無い話題でも友達が話せば楽しげに相づちを打ち、面白くもないのに笑う。クラスの中でもキラキラと輝いている子たちには逆らうことさえできず右に倣えするような日々に、ある日嫌気が差した。
その瞬間、あんなにも輝いていると思っていた子たちが、くすんで見えた。流行のスイーツも砂を噛んでいるように美味しくない。テレビの向こうで手を振るアイドルにも興味が持てなくなった。何もかもが楽しくなくて、全てが嫌になった。
学校に行く意味を見いだせなくなったのもその頃だ。だんだん休みがちになり、気づけば今月に入ってからは一度も登校していない。保健室登校でもいいから、とか何かあったら相談に乗るぞ、なんて言葉をかけられるけれど、そんなの私にとってはなんの意味もなかった。だって学校に行かないことに対して、明確な理由なんて存在していないのだから。
母親の車が見えなくなってからも、私はただボーッと外を眺め続けていた。すると、敷地の外からこちらを覗いている人影が見えた。
「何あれ」
キョロキョロと辺りを見回し、こっそりとこちらを窺うその姿は怪しい以外としか言いようがない。
「まさか、泥棒……?」
こんな田舎で? と、思わなくもなかったけれど、年寄りを狙う詐欺が多いというのはニュースで見て知っていた。であれば、年寄りを狙う泥棒がいてもおかしくはない。
とりあえず家に人がいることがわかれば泥棒も諦めて帰っていくかもしれない。そう思った私は窓から身を乗り出して伸びをした。
「んー、いい天気だなー」
言いながら下を見ると、泥棒(多分)と目が合った。クスッと笑われた気がして、途端に恥ずかしくなる。
慌てて窓を閉めようとして、私は何かが引っかかりもう一度外を見た。あの人、知っている気がする。どこかで見たことがあるような。
「おーい、夢だろ? 俺だよ俺!」
泥棒だと思った人は、私の名前を呼んだ。まさか。
「凉太だよ! 忘れちゃったのか?」
「凉太? 嘘でしょ」
それは小さな頃、ここに来るたび一緒に遊んだ幼馴染みの名前だった。
「懐かしいな。夢ってば全然変わってないからすぐわかったよ」
「そっちも、変わってないね」
「そうか? 身長だいぶ伸びたと思うけど」
大声で名前を呼ばれた私は、慌てて部屋を飛び出すと、おばあちゃんに「ちょっと散歩に行ってくるね」と告げて凉太と一緒に外に出た。久しぶりに会ったというのにまるで昨日も一緒にいたかのように話しかけてくる幼馴染みの名前は、桐山凉太。
一緒に川に行っては頭からびしょ濡れになり、山に行けば遭難しかけ『もうあの子とは遊んじゃ駄目!』と言われたのも一度や二度ではない。
「それでそれで? いつまでこっちにいんの? しばらくいるならまた昔みたいに遊ぼうぜ」
「遊ぼうって……私たちもうちっちゃな子どもじゃないんだよ」
「えー、別に遊ぶのに年齢なんて関係ねえじゃん」
不服そうに唇を尖らせる凉太は、あの頃と変わっていない無邪気なままだ。子どもの頃は同じように素直にいられたのに、今ではまるで生きる種族が違うのではないかと思うぐらいに違っていた。
「とりあえず二週間ぐらいかな。でも退屈だったらもっと早く帰るかも」
「じゃあ、二週間みっちりいられるな」
「だから、退屈だったら帰るって」
私の言葉なんて聞いていなかったかのような凉太の返事に、思わずイラッとした反応を返してしまう。けれど、そんな私の棘なんて気にならないのか「だってさー」と犬歯を見せて笑った。
「退屈なんて思えないぐらい、ここは楽しいこといっぱいだからさ」
自信満々に目を輝かせて話す凉太は、私には眩しすぎて思わず目を逸らした。
「だいたいさ、退屈な日なんてあるわけないんだよ。風の冷たさや強さだって、太陽のあたたかさだって星の位置も木々のざわめきだって、一日たりとも同じ日なんてないんだからさ」
「何それ、新手の宗教?」
「違うわ!」
真剣に言う凉太が恥ずかしくて、私は思わず茶化してしまう。木々や風のざわめきなんて気にしたこともなかった。都会の日々は、毎日がどこか忙しなくて、無機質で、駆け足でついていかなければ置いて行かれてしまう。どうにかしがみついて、脱落しないように必死だった。
「見ようとしないから見えないだけのものがたくさんあるって話だよ」
「見ようとしないから」
空を見上げると、雲がゆっくりと動いている。鳥が鳴き、どこからかおいしそうな匂いがする。私が見ようとしなかったものは、この中にあるのだろうか。
その日から、私はお昼ご飯を食べると凉太と一緒に出かけるようになった。というか、お昼が終わったころを見計らうかのように、凉太が呼びに来るのだ。今日は山に行こうとか、川に行こうとか、誰々さんの家の軒下に燕が巣を作ったとか。どうでもいいといえばどうでもいいことを、毎日楽しそうに話しにくる。
おばあちゃんには「凉太と出かけてくるね」と伝えてあるのに、何度言っても「一人で遠くまで行っちゃいけないよ」と言われる。耳も遠くなったし、少しボケてしまっているのかもしれないと思うと寂しい気持ちになる。もしかしたらいつか、私のことも忘れてしまうのだろうか。
それにしても。
「よくも毎日、そんないろんなことを見つけられるね」
「んー、俺からすればよくもそんなに周りに対して無関心でいられるなって思うけど」
「は?」
嫌み、だと思った。けれど、凉太は素直にそう思っているようで、不思議そうに私を見つめてくる。
「だってさ、こんなにもいろんなことが毎日起こってるんだよ? 一日だって昨日と同じ日なんてないんだから、気にかけていかなきゃ見落としちゃうよ」
そんな考えは、私にはなかった。毎日というのは同じ日々の繰り返しだと思っていた。でも。
「ほら、思いっきり息を吸い込んでみてよ。夢が来たときよりも、風の匂いが冬に近づいてるのがわかるから」
凉太に促され、私は深呼吸をするように鼻から息を吸い込んだ。少しだけ冷たさを含んだ空気は、たしかに冬の訪れを感じさせる。
「ね、わかるでしょ」
「言われてみれば」
「音もさ、季節によって違うよ。鳥の鳴き声とか虫の声とか葉の擦れあう音とか」
耳を澄ましてみるけれど、それは私にはわからない。でも、きっと凉太にはわかるんだろうなと思うと、少しだけ凉太が羨ましく思えた。
「ねえ、夢の住んでいるところの話も聞かせてよ」
凉太は川べりに寝転がりながら私に話しかける。先ほどまでどちらが遠くまで石を投げられるか、という勝負をしていたせいでお互いに薄らと汗をかいていた。ちなみに私の石がボチャンと川の中に落ちてしまったのに比べて、凉太の投げた石は水面を跳ね、川の向こう岸手前までたどり着いていた。
「私の? うーん、なんにも話すこととかないよ」
「そんなことないでしょ。普段どこで遊んでるとか、こういう場所があるとか色々あると思うけど」
「えー……。都会なんて何でもあるけど、何にもない。退屈なところだよ。ここの方がよっぽどいろんなものがあっていいよ」
実際、凉太に連れ回されていろんなところに行くたびに、今までにはない発見があった。それは木々に成る果実だったり、素手で捕まえる魚であったり、都会では経験のできないことばかりだ。そう言う私に対して、凉太は笑った。
「都会から来たからそう言えるんだよ」
「どういうこと?」
まるで私が何もわかってないと言わんばかりの態度に、思わず尋ね返す。凉太は私の方を見ず、空を見上げたまま口を開く。
「こっちには何でもあるけど何にもない。都会にはあるはずの大きな病院もないしね」
「それは、たしかに」
「だからさ、俺高校を卒業したら夢の住むところにいきたいんだよね」
「ここが退屈だってこと?」
いじわるく言う私に、凉太は微笑みを浮かべた。
「俺、医者になりたいんだ。地方の医療は都会に比べるとどうしても劣ってたりできないことがおおかったりするから。都会で勉強して医者になって戻ってきたい。それで、今まで世話になったじいちゃんやばあちゃんたちを少しでも助けてやりたいんだ」
「凉太……」
同い年のはずなのに、私よりもずっと先を見つめている凉太に恥ずかしくなる。今を退屈だ退屈だと不平を言う私とは全然違う。
「そっか、それが凉太の夢なんだね」
私の夢は、なんだろう。何になりたいのだろう。
「夢じゃない」
凉太はハッキリとした声で言った。
「これは、俺の描く未来だ」
「未来……」
「そう。夢にはないの? なりたいこととかやりたいこととか」
「私は、そんなの全然……」
まっすぐな視線を向けられて、私は視線を逸らしてしまう。幼い頃は思い描いていた未来も夢もあったように思う。でもいつの間にか今を生きることに精一杯で夢を見ることなんてしなくなった。
今の私は明日を生きることさえ億劫で、退屈な日々を過ごしている。
「ただいま」
台所にいるおばあちゃんに声をかけるけれど、すっかり耳が遠くなってしまったのか聞こえているのかいないのかわからない。
小さな頃は、外から帰るとおばあちゃんが作ってくれたホットケーキを食べるのが好きだった。ここに来てから、幼い頃のことをよく思い出す。まだ私が無邪気で、夢見ることを諦めていなかったころのことを。
「あれ? これって」
居間に置かれた箪笥の上には、子どもの頃の私がおばあちゃんに送った年賀状が飾ってあった。
「懐かしい。たしか小学校一年生のころの宿題だ」
祖父母に年賀状を出しましょう、みたいなものだった記憶がある。でも、何を書いたのか全く覚えていない。丁寧に飾られたそれをフレームから取り出すと、裏面を向けた。そこには拙い字で、こう書かれていた。
『いつかぱてぃしえになっておばあちゃんにおいしいおかしをたべさせてあげたいです』
「そういえば、こんなこと書いた気がする。
将来の夢はパティシエ。テレビで見るみたいな豪華でキラキラしているケーキを作りたい、たしかにそう思っていた。
でも大きくなるにつれ、周りのみんなが現実的な夢を描き出すと、いつまでも子どもみたいなことを言ってないでちゃんと考えた方がいいよ、なんて言われるようになった。私自身も子どもっぽい夢を持っていることは恥ずかしくて、いつの間にか蓋をしてなかったことにしてしまっていた。
「ねえ、おばあちゃん。あとでキッチン使ってもいい?」
「んー? いいよ。夢ちゃんはお菓子を作るのが上手だもんねえ」
「おばあちゃん、覚えててくれたんだ」
ニコニコと笑うおばあちゃんの優しい視線が妙に照れくさくて、私はへへっと笑った。
おばあちゃんちのキッチンにオーブンなんてものはなくて、電子レンジだけ。ハンドミキサーもないから生クリームはお玉で必死にかき混ぜて作った。お菓子を作るのも久しぶりだし、材料もきちんとしたものは揃えられず、できあがったのはホットケーキミックスで作るなんちゃってチョコケーキだった。それでも久しぶりにするお菓子作りは楽しかった。
「これ、よければ食べてほしいんだけど」
ラッピングなんてあるわけないので、タッパーに入れて持ってきたチョコケーキを、寂れた公園のブランコに乗る凉太に差し出した。
「え、何これ。ケーキ? 夢が作ったの?」
「うん……。でも久しぶりに作ったし、そもそも美味しくないかもだし、だから、えっと」
「いただきます!」
凉太はケーキを手づかみにすると、半分ほど口の中に入れた。黙ったまま咀嚼する間の時間が、まるで永遠のようにさえ感じられる。ドキドキと心臓の音がうるさい。味見もしたし不味くはないと思うけど、でも……。
「美味い!」
「ホント……?」
「うん、これめっちゃ美味い! すげえな、夢! こんなの作れるんだな」
「お、大げさだよ。でも美味しかったならよかったぁ」
ホッとして気が抜ける。パクパクと隣で食べ続ける凉太につい視線を向けてしまう。いつか私がパティシエになったとき、こうやってまた凉太に食べてほしいな。そんな夢を――未来を思い描きながら。
自宅にいた頃は一週間どころか、一日さえもなかなか経たずただ繰り返すだけの日々を退屈に過ごしていた。けれど、こちらに来てからの毎日は凉太のおかげで楽しくて充実していて、気付けば自宅に帰る二日前になっていた。
「帰りたくないなぁ」
ポツリと呟けば、今日も隣に座る凉太が「もうそんな時期か」と言いながら釣り糸を川に垂らした。餌はさっきその辺で捕まえたミミズらしい。それで釣れるのかという心配と釣ったところで食べられないのではという不安がある。凉太曰く、釣るのが楽しいだけだから無闇に殺したりせずまた川の中に戻す、らしいけれど。
「二週間あっという間だった」
「だね。そっか、帰るのかぁ」
「うん……」
帰りたくない。でも帰らなくてはいけない。いつまでもここにいるわけにいかないのはわかっている。今の私は現実から逃げているだけだから。でも、もう少しだけこっちで凉太と一緒に過ごしたいと思ってしまう。
「凉太さ、大学はうちの方に来るって言ってたよね」
「うん、そのつもりだよ」
「じゃあ、そのときは私がいろんなところ連れて行くよ。カフェとか大きな本屋さんとか。凉太が行きたいところ全部」
「ホント? あ、でも俺が行きたいところじゃなくて、夢が連れて行きたいところに連れいてってほしい」
「私が?」
凉太の不思議な提案に思わず首を傾げた。
「そう。夢が俺を連れて行きたいって思うぐらい楽しいところをいっぱい見つけといてよ。ここ連れてきたら喜ぶだろうな、とかこういうの好きそうだな、とか」
「何それ」
思わず笑ってしまった私に、凉太は真剣な表情を見せた。
「そしたらさ、帰っても俺のこと忘れないでいてくれるでしょ」
「凉太……」
その言葉があまりにもまっすぐで、目を逸らしたくなる。
「糸、引いてるよ」
「……うん」
誤魔化すように、釣り糸に視線を向ける。でも、凉太の目はジッと私を見つめたままだ。
「……私、帰っても、凉太のこと、忘れないよ」
「……ありがと」
そう言って笑う凉太の表情が、なぜかとても寂しそうに見えた。
「ゴホッ……ゴホッ……」
煙たさに目を覚ましたのは、自宅に帰る前夜だった。目を開けると、真っ暗なはずの室内にはなぜか煙が充満していた。
「何、これ……」
何が起きているのか、理解できなかった。ただ息を吸う旅に、煙が肺の中に充満して息苦しさから涙目になる。
「まさか、火事……?」
回らない頭で必死に考える。たしか、火事の時は窓を開けると余計に火の勢いが強くなるから開けちゃ駄目なはず。とにかく部屋を出て一階に行かなくちゃ。そう思った私は、部屋の扉を開けた。
「嘘でしょ……」
一階はすでに煙が充満していて、階段の下まで火が来ているのが見えた。これじゃあ逃げることなんてできない。
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
おばあちゃんは避難できているのだろうか。今この瞬間も、一階で火に襲われていたりしないだろうか。
「なんで、こんなことに……」
帰りたくないと、思ってしまったから。ここにこのままいられたらいいのにと願ってしまった罰なのだろうか。
「助けて……凉太……」
「夢!」
「え……?」
「夢! こっちだ!」
玄関とは真逆の、裏庭に面した窓の向こうから凉太の声が聞こえた気がした。窓を開けても大丈夫だろうか、と不安に思ったけれど、気づけば私は声を頼りに部屋の窓を開けていた。
「凉太!」
「夢! 大丈夫か?」
「大丈夫、じゃないけど……。でも私よりおばあちゃんが!」
「ばあちゃんは大丈夫だ! さっき裏の家の鈴木さんが助け出してくれた!」
「よかったぁ」
ホッとしたら気が抜けて、その場に座り込んでしまう。けれど、凉太の怒鳴り声はまだ続いていた。
「大丈夫じゃねえよ! 夢! そこから飛び降りろ!」
「む、無理だよ! そんなことしたら死んじゃう!」
いくら屋根が低いとはいえ、二階から飛び降りるなんてことできるわけがない。りょつあの言葉を否定する私に、凉太は怒ったように言った。
「無理じゃねえよ! 俺が受け止めてやるから! そのままそこにいたら焼け死んじまうんだぞ!」
「それは、そうだけど」
「絶対に大丈夫だから! 俺を信じろ!」
たしかに凉太の言う通り、このままここにいても待つのは炎と死だけだ。それなら、でも。たくさんのでもとだってが頭の中でごちゃごちゃになる。
「夢!」
「だって、怖いよ」
「怖くない。大丈夫。絶対に俺が助けてやる」
「凉太……」
私は――覚悟を決めた。
窓を出て、屋根の上をそろそろと降りていく。屋根の一番低いところから下を見ると、凉太の姿が見えた。
「来い!」
怖いことに変わりはない。でも、その声は私に勇気をくれた。
凉太の腕に飛び込むようにして、私は屋根から飛び降りた。
目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。
「夢!」
「夢ちゃん!」
「あれ……わた、し」
何が起きたのかよくわからない。ただベッドの周りで両親が泣いているのが見えた。
そうだ、私、火事で……。
「おばあちゃんは!?」
慌てて起き上がろうとした私を看護師さんが手で制した。
「まだ安静にしていてください。頭を打ってるかもしれないのです」
「そんなことよりおばあちゃん……!」
「おばあちゃんなら無事よ。ほら」
涙を拭いながら言う母親の視線の先には、私と同じようにベッドに寝かされたおばあちゃんの姿があった。
「煙を吸っていたから少し安静にしてもらってるけど、命に別状はないわ」
「よかったぁ……」
ホッとして、それから周りを見回すと凉太の姿がないことに気づいた。
「ねえ、おか――」
「よかったはこっちのセリフよ。あなたが無事で本当によかった。二階から飛び降りるなんて無茶して……」
「だって、そうしないと助からないって凉太が」
「凉太くんって……」
私の言葉に、お母さんが口を押さえ、それから「そんなわけない」と首を振った。
「あなたは一人で倒れてたのよ」
「違うよ! 凉太が助けてくれたんだよ! 絶対に大丈夫だから飛び降りろって言って、受け止めてくれて」
「夢、あなたはきっと意識が朦朧としてたから……」
「なんで? 凉太が助けてくれたらおかしいの? 凉太は私の命の恩人なのにどうして……! こっちにきて毎日退屈だった私を連れ出してくれたのは凉太だよ! 同じような日々にも変化はあって、だから楽しいんだって気づかせてくれたのは凉太だよ!」
「……凉太君は、もういないの」
母親の言った言葉の意味が、私には理解できなかった。
「は……? どういう意味……? だって私、今日も昨日も、こっちに来てから毎日凉太と一緒に遊んでたよ……?」
「火事のせいで記憶が混濁してるのね。……あのね、夢。凉太君は去年の冬になくなったの」
「え……?」
「川で溺れた小さな子どもを助けようとして、それで」
「そんな、こと……あるわけ……」
じゃあ、昨日まで私が一緒に遊んでいたのはいったい誰だったと言うのか。私に日々の移り変わりを教えてくれて、未来を語って、来年一緒にいろんなところに出かけようと約束したのは、いったい……。
「あなたは毎日ひとりで楽しそうに出かけてるっておばあちゃんは言ってたわ。少しずつ明るさを取り戻してきたから安心してるって」
「ひとりで……って、嘘……」
「今はゆっくり休みなさい。落ち着いたら一緒に帰りましょ」
「お母さん、私……!」
「大丈夫だから。ね」
その言葉を最後に、私の意識は再び途切れた。
結局、私が退院できたのはそれから三日が経ってからだった。すっかり身体がよくなった今となっては、もしかしたら凉太と過ごした日々が幻だったのかもしれないとさえ思えてくる。
でも。
大きく息を吸い込むと、冬の匂いに溢れた空気が肺の中いっぱいに広がる。
空を見上げると、秋から冬へと移り変わった雲が、形を変えて進んでいく。
私の中には凉太と過ごした日々がたしかに残っていた。何一つ形にすら残っていないけれど、思い出としてきちんと私の中に息づいている。
誰に話してもきっと信じてもらえない。でも、それでいい。彼が私を変えてくれた過去は変わらない。背中を押してくれた言葉は、今でも胸の中に残っている。
「よし、帰るかな」
自宅に帰って、彼と一緒に行きたい場所をたくさん見つけよう。彼が喜ぶ場所を、私が楽しいと思うところをたくさんたくさん探そう。
私が生きる明日は、彼が生きたかった未来だ。
退屈だなんて、もう言わない。暇だなんて思わない。
だってこれからまだまだたくさんの道が私には待っている。
未来を思い描いていた彼の分まで、そして彼と一緒に歩く未来を描いたあの日の私の分も、前を向いて生きていく。
涙を拭って、顔を上げると、私は一歩踏み出した。
まだ見ぬ、新しい未来へ。