旅といっても、行き先は決まっている。道中はしばらく馬車を乗り継いでひたすら尻の痛みに耐えるだけのものだ。
乗り合い馬車で色んな人と出会い、たまに魔物が出ると護衛の冒険者に手を貸して、一か月が経った。
「もう、馬車は嫌だ……」
俺は早くも心が折れていた。どんな高難易度の依頼よりもキツい。とにかく暇だし、身体中が凝り固まって悲鳴を上げ続けている。
のんびり旅は良い。そう思っていた時期が、俺にもありました。
合間で立ち寄る街や村で降りようかと何度も考えた。しかし、馬車に乗り続けなければいけない理由がある。
金が無いのだ。
借金と学費の完済に浮かれ、旅費を全く考えていなかった。入国税などはS級冒険者の特権で免除になるものの、わざわざ途中で降りたって宿を取るような余裕はない。一旦、依頼を受けて足しにしようとも考えたが、高らかに宣言してきた手前、恥ずかしくて出来なかった。
ことごとく自分の計画性の無さにうんざりする。
旅は行き当たりばったりがいいんじゃん。全く持って同意だ。でも、お金とは降って来るものではないのだ。
「お兄さん、どちらに向かうんですかい? 次の村で終着ですけれど」
御者の男性が軽く振り返って尋ねる。
随分と遠いところまで来たせいか、馬車にはずっと眠る謎の老人と俺、そして御者しか乗っていなかった。
「都会に疲れちゃいましてね。田舎暮らしでもしようかと」
「はぇ~、まだ若そうなのに苦労してんだねえ。でも、この先の村は人類圏の最南端で、何もありゃしないよ。出てくる魔物も瘴気に当てられて狂暴化しているやつばかりだ。魔族に出会おうもんなら目も当てられねえ。長居はおすすめできないよ」
「ある意味、観光みたいなものですね。すぐにまた別の場所にでも行きますよ」
本当は、そのさらに先が目的地なわけなんだけど。
それからさらに揺られること二日。馬車の終着である村に着いた。
「それじゃ、陽光神様の加護があらんことを」
「ありがとうございました。陽光神様の加護があらんことを」
御者に別れを告げて見送る。一緒に降りた老人は気が付くとどこかへ消えていた。こんな場所まで何の用だったのだろう。
村というから、人が住んでいるのかと思ったが、廃村だった。長い年月でボロボロに風化した居住地に、ほとんど更地に戻った畑。冬の残り香を匂わすからっ風が良く似合う場所だった。
こんな辺鄙な場所でも、年に数人は下馬していくらしい。理由を聞いちゃいけなそうな雰囲気の人がほとんどのようだが。
その点、御者に話しかけられた俺は例外のようなものなのだろう。
「さて、確かこの先か……」
少し歩くと、地面の色が黒ずんできた。魔素が濃くなってきている証拠だ。木々は黒い葉が混じり、空気がもったりと重たく感じる。空を見上げれば一面の青だというのに、進めば進むほど、辺りの色彩が掠れていく。
時折、聞こえてくる鳥の囀りも、いつの間にか魔物特有の空気が震えるようなものに変わっていた。
それもそのはず。既に並みの魔素耐性が無ければ、呼吸もままならない。ここはそういう場所だ。だから、もちろん人気はない。ここで出会う人間すなわち、S級冒険者かそれに相当する者なのだ。
S級の指名依頼では多くがこういった常人には耐えられない地域の素材や、魔物の討伐のため、S級の冒険者にとっては日常茶飯事の景色ではある。
数日、魔素の森を彷徨った。当てがないわけではないのだ。ただ、探している目的地が本当にこの森に実在するのかは不明だ。
以前、知り合いのS級冒険者から聞いたことがあった。遥か南方、魔素の森の奥深くに精霊の宿る聖域を見たと。大袈裟な話だとは思いつつも、冒険者の内では有名な話らしい。わざわざ、そんな噂話のためにこんな南方まで来るようなS級冒険者はいないだろうが。……俺以外。
荒れた森を進むと、前方にぽやっと明るさが浮かんで見えた。一瞬、魔物の警戒をしたが、どうやら違うらしい。
近づくにつれて、空気が湿り気を帯びてきた。心做しか周囲の気温も高く感じる。水場か魔力溜まりでも近くにあるのだろう。
木々を抜け、視界が開ける。一目見て、悟った。ここが噂の聖域とやらなのだろう。
陰鬱な森にぽっかり存在する平原。足を撫でる草が緑々と敷かれ、宙をふわっと漂う雲花の赤い花弁。なにより目を惹いたのは、聖域の中央にある大きな魔力溜まりだ。ぼんやりと明るさを放ち、ゆらりと湯気が立ち込めていて、まるでそこだけ霧がかっているようだ。
「温度が高い魔力溜まりか。珍しいな」
独り言ちて一歩を踏み出した刹那、
「――誰!?」
霧の中から声が聞こえた。ぴりっとした気配を感じ、とっさに二本指を立て構える。
「……小鬼を逃がせば?」
黙っていると、霧の向こうからさらに言葉が投げかけられる。
「村一つ」
冒険者の間で使われる、互いに魔族ではないと確認する典型的な諺だ。
「よかった、人間なのね」
肌を刺す殺気が消えた。それを感じて俺も同じように放った気を緩める。むろん、魔法はいつでも発動できるようにしているが。
「冒険者一人だ。そちらは?」
「同じよ」
この環境下で一人の冒険者。つまり、俺と同じようなソロのS級冒険者だろう。
「まさかこんな場所で人に出会うとは思わなかったわ」
「……俺もだ」
「あ、まだこっちに来ないで。ちょっと待っ――」
運良くか、運悪くか、強い木枯らしが吹いた。立ち込める湯気が逃げ場を経て霧散する。鮮蒼な大きな魔力溜まりの中に、少女が立っていた。
むろん、白磁の肌を晒した一糸まとわぬ姿で。
「……えっ? 精霊?」
ついさっき人間だと確認し合ったというのに、俺は無意識で口に出していた。
まるで御伽噺に出てくる水の精霊を思わせる美少女だ。
くっきりとした大きな翡翠の瞳に、鼻が高いはっきりとした顔立ち。ほんのりと染まった頬は、鮮麗な顔立ちにどこか年相応の柔らかさを残しているように思えた。濡れた長い銀髪の先が華奢な身体に大きな存在感を見せていた胸元に張り付いている。妹と同じ雰囲気を感じるから、十七、八くらいだろうか。
しばらく、周囲に沈黙が流れる。
なんだろう、この状況。
「……す」
うつむいた少女が小さく呟いた。握った拳がぷるぷると震えているように見えるのは気のせいだろうか。
「何だって?」
ゆっくり魔力溜まりから上がった少女は、そばに置いてあった荷物から刀身の細い剣を手に取る。
「……ろす。……殺してやる!」
刹那、肌を焼くような殺気に自然と身体が動いた。
距離を取るために大きく飛びのいた途端、視界から少女の姿が消える。次の瞬間には、少女は目の前にいた。そして、既に突き出された細い剣先が、未だ宙にいる俺の喉元に迫っていた。
速すぎんだろ……っ!
空中で無理矢理身体を捩じる。地面に足が付くと同時に頬を少女の剣が掠めた。息をつく間もなく、次いで、下からえぐるような蹴りが飛んでくる。細い足だというのに、どうしてかまともに受け止めては駄目だと本能が警鐘をかき鳴らす。
かざした左手に少女の足が触れた瞬間、俺は心の中で唱えると同時に右手首を振り下ろした。
――『固定』
瞬間、俺の左腕と少女の右足が衝撃もなく、ぴたっとくっ付く。
「えっ……!?」
少女から戸惑いの声が漏れる。
すぐさま、今度は彼女の左足となぞる若草に向けて『固定』を発動した。剣を引き戻そうとする少女の右手首を掴む。少し、静電気のような痛みを感じた。
「ちょっと、何の魔法よ、これ!」
「お、落ち着いてくれ。その、揺れてるから……!」
それはもう、水の入った風船のごとく。
しかし、少女には何のことか伝わっていないらしい。掴んだ手首から伝わる電気の強さが増した。
あれ? 触れたままだと……まずいっ!
ほとんど反射的に左手の『固定』を解除して、彼女から身体を離す。その刹那、空気が震えるほどの稲妻が彼女を包み込んだ。
「ふんっ! くだらない時間稼ぎはおしまいよ! さっさと串刺しにしてあげる!」
少女は肩の上で細剣を引き絞り、右足を後ろへと下げる。そして、先ほどのように彼女が一瞬にして視界から消え――ることはなかった。
棒のように固まった左足にもつれ、盛大に顔から地面に落ちる。まるで、びたーんという効果音でも聞こえてきそうだ。代わりに聞こえてきたのは彼女から漏れたであろう「ふぎゅっ!」という鳴き声だった。
彼女の身体を纏っていた稲妻がすっと空気に溶けてなくなる。
そっと、彼女の左足にかけた『固定』を解除した。
ようやく、辺りに静けさが戻った。全裸で地面にへばりつく少女と、それを意味もなく眺めて突っ立つ俺。自警団さん、こっちです。
この後、結局話を聞いてもらえず、同じようなことを半刻程繰り返すことになった。
とりあえず、服を着てくれ。
徐々に涙目になりつつある少女を見て、そう思わざるおえなかった。
乗り合い馬車で色んな人と出会い、たまに魔物が出ると護衛の冒険者に手を貸して、一か月が経った。
「もう、馬車は嫌だ……」
俺は早くも心が折れていた。どんな高難易度の依頼よりもキツい。とにかく暇だし、身体中が凝り固まって悲鳴を上げ続けている。
のんびり旅は良い。そう思っていた時期が、俺にもありました。
合間で立ち寄る街や村で降りようかと何度も考えた。しかし、馬車に乗り続けなければいけない理由がある。
金が無いのだ。
借金と学費の完済に浮かれ、旅費を全く考えていなかった。入国税などはS級冒険者の特権で免除になるものの、わざわざ途中で降りたって宿を取るような余裕はない。一旦、依頼を受けて足しにしようとも考えたが、高らかに宣言してきた手前、恥ずかしくて出来なかった。
ことごとく自分の計画性の無さにうんざりする。
旅は行き当たりばったりがいいんじゃん。全く持って同意だ。でも、お金とは降って来るものではないのだ。
「お兄さん、どちらに向かうんですかい? 次の村で終着ですけれど」
御者の男性が軽く振り返って尋ねる。
随分と遠いところまで来たせいか、馬車にはずっと眠る謎の老人と俺、そして御者しか乗っていなかった。
「都会に疲れちゃいましてね。田舎暮らしでもしようかと」
「はぇ~、まだ若そうなのに苦労してんだねえ。でも、この先の村は人類圏の最南端で、何もありゃしないよ。出てくる魔物も瘴気に当てられて狂暴化しているやつばかりだ。魔族に出会おうもんなら目も当てられねえ。長居はおすすめできないよ」
「ある意味、観光みたいなものですね。すぐにまた別の場所にでも行きますよ」
本当は、そのさらに先が目的地なわけなんだけど。
それからさらに揺られること二日。馬車の終着である村に着いた。
「それじゃ、陽光神様の加護があらんことを」
「ありがとうございました。陽光神様の加護があらんことを」
御者に別れを告げて見送る。一緒に降りた老人は気が付くとどこかへ消えていた。こんな場所まで何の用だったのだろう。
村というから、人が住んでいるのかと思ったが、廃村だった。長い年月でボロボロに風化した居住地に、ほとんど更地に戻った畑。冬の残り香を匂わすからっ風が良く似合う場所だった。
こんな辺鄙な場所でも、年に数人は下馬していくらしい。理由を聞いちゃいけなそうな雰囲気の人がほとんどのようだが。
その点、御者に話しかけられた俺は例外のようなものなのだろう。
「さて、確かこの先か……」
少し歩くと、地面の色が黒ずんできた。魔素が濃くなってきている証拠だ。木々は黒い葉が混じり、空気がもったりと重たく感じる。空を見上げれば一面の青だというのに、進めば進むほど、辺りの色彩が掠れていく。
時折、聞こえてくる鳥の囀りも、いつの間にか魔物特有の空気が震えるようなものに変わっていた。
それもそのはず。既に並みの魔素耐性が無ければ、呼吸もままならない。ここはそういう場所だ。だから、もちろん人気はない。ここで出会う人間すなわち、S級冒険者かそれに相当する者なのだ。
S級の指名依頼では多くがこういった常人には耐えられない地域の素材や、魔物の討伐のため、S級の冒険者にとっては日常茶飯事の景色ではある。
数日、魔素の森を彷徨った。当てがないわけではないのだ。ただ、探している目的地が本当にこの森に実在するのかは不明だ。
以前、知り合いのS級冒険者から聞いたことがあった。遥か南方、魔素の森の奥深くに精霊の宿る聖域を見たと。大袈裟な話だとは思いつつも、冒険者の内では有名な話らしい。わざわざ、そんな噂話のためにこんな南方まで来るようなS級冒険者はいないだろうが。……俺以外。
荒れた森を進むと、前方にぽやっと明るさが浮かんで見えた。一瞬、魔物の警戒をしたが、どうやら違うらしい。
近づくにつれて、空気が湿り気を帯びてきた。心做しか周囲の気温も高く感じる。水場か魔力溜まりでも近くにあるのだろう。
木々を抜け、視界が開ける。一目見て、悟った。ここが噂の聖域とやらなのだろう。
陰鬱な森にぽっかり存在する平原。足を撫でる草が緑々と敷かれ、宙をふわっと漂う雲花の赤い花弁。なにより目を惹いたのは、聖域の中央にある大きな魔力溜まりだ。ぼんやりと明るさを放ち、ゆらりと湯気が立ち込めていて、まるでそこだけ霧がかっているようだ。
「温度が高い魔力溜まりか。珍しいな」
独り言ちて一歩を踏み出した刹那、
「――誰!?」
霧の中から声が聞こえた。ぴりっとした気配を感じ、とっさに二本指を立て構える。
「……小鬼を逃がせば?」
黙っていると、霧の向こうからさらに言葉が投げかけられる。
「村一つ」
冒険者の間で使われる、互いに魔族ではないと確認する典型的な諺だ。
「よかった、人間なのね」
肌を刺す殺気が消えた。それを感じて俺も同じように放った気を緩める。むろん、魔法はいつでも発動できるようにしているが。
「冒険者一人だ。そちらは?」
「同じよ」
この環境下で一人の冒険者。つまり、俺と同じようなソロのS級冒険者だろう。
「まさかこんな場所で人に出会うとは思わなかったわ」
「……俺もだ」
「あ、まだこっちに来ないで。ちょっと待っ――」
運良くか、運悪くか、強い木枯らしが吹いた。立ち込める湯気が逃げ場を経て霧散する。鮮蒼な大きな魔力溜まりの中に、少女が立っていた。
むろん、白磁の肌を晒した一糸まとわぬ姿で。
「……えっ? 精霊?」
ついさっき人間だと確認し合ったというのに、俺は無意識で口に出していた。
まるで御伽噺に出てくる水の精霊を思わせる美少女だ。
くっきりとした大きな翡翠の瞳に、鼻が高いはっきりとした顔立ち。ほんのりと染まった頬は、鮮麗な顔立ちにどこか年相応の柔らかさを残しているように思えた。濡れた長い銀髪の先が華奢な身体に大きな存在感を見せていた胸元に張り付いている。妹と同じ雰囲気を感じるから、十七、八くらいだろうか。
しばらく、周囲に沈黙が流れる。
なんだろう、この状況。
「……す」
うつむいた少女が小さく呟いた。握った拳がぷるぷると震えているように見えるのは気のせいだろうか。
「何だって?」
ゆっくり魔力溜まりから上がった少女は、そばに置いてあった荷物から刀身の細い剣を手に取る。
「……ろす。……殺してやる!」
刹那、肌を焼くような殺気に自然と身体が動いた。
距離を取るために大きく飛びのいた途端、視界から少女の姿が消える。次の瞬間には、少女は目の前にいた。そして、既に突き出された細い剣先が、未だ宙にいる俺の喉元に迫っていた。
速すぎんだろ……っ!
空中で無理矢理身体を捩じる。地面に足が付くと同時に頬を少女の剣が掠めた。息をつく間もなく、次いで、下からえぐるような蹴りが飛んでくる。細い足だというのに、どうしてかまともに受け止めては駄目だと本能が警鐘をかき鳴らす。
かざした左手に少女の足が触れた瞬間、俺は心の中で唱えると同時に右手首を振り下ろした。
――『固定』
瞬間、俺の左腕と少女の右足が衝撃もなく、ぴたっとくっ付く。
「えっ……!?」
少女から戸惑いの声が漏れる。
すぐさま、今度は彼女の左足となぞる若草に向けて『固定』を発動した。剣を引き戻そうとする少女の右手首を掴む。少し、静電気のような痛みを感じた。
「ちょっと、何の魔法よ、これ!」
「お、落ち着いてくれ。その、揺れてるから……!」
それはもう、水の入った風船のごとく。
しかし、少女には何のことか伝わっていないらしい。掴んだ手首から伝わる電気の強さが増した。
あれ? 触れたままだと……まずいっ!
ほとんど反射的に左手の『固定』を解除して、彼女から身体を離す。その刹那、空気が震えるほどの稲妻が彼女を包み込んだ。
「ふんっ! くだらない時間稼ぎはおしまいよ! さっさと串刺しにしてあげる!」
少女は肩の上で細剣を引き絞り、右足を後ろへと下げる。そして、先ほどのように彼女が一瞬にして視界から消え――ることはなかった。
棒のように固まった左足にもつれ、盛大に顔から地面に落ちる。まるで、びたーんという効果音でも聞こえてきそうだ。代わりに聞こえてきたのは彼女から漏れたであろう「ふぎゅっ!」という鳴き声だった。
彼女の身体を纏っていた稲妻がすっと空気に溶けてなくなる。
そっと、彼女の左足にかけた『固定』を解除した。
ようやく、辺りに静けさが戻った。全裸で地面にへばりつく少女と、それを意味もなく眺めて突っ立つ俺。自警団さん、こっちです。
この後、結局話を聞いてもらえず、同じようなことを半刻程繰り返すことになった。
とりあえず、服を着てくれ。
徐々に涙目になりつつある少女を見て、そう思わざるおえなかった。