「お帰りなさいませ。お戻りが早かったですね」
 嵐のように去り、すぐに舞い戻った私を見て、男はけたけたと笑った。私は小さく「すみません」と口をとがらせ、首を前に突き出した。

「早速ですが、どんな記憶をご覧になりますか」
どんな記憶って言われても……。
「難しいです。逆におすすめはありますか」

「おすすめですか。そうですね」
 男は手を顎に当て、しばらく考え込んだあと、閃いたようにパチンッと指を鳴らした。

「さて、こんな記憶はどうでしょう」
 指の合図に合わせ、記憶の上映がはじまった。

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 映し出されたのは、商店街を歩くお父さんとお母さんだった。随分若く見える。

 お腹の大きなお母さんと、お母さんの背に手を添えて歩くお父さん、その間には見知らぬ男の子の姿がある。
 賑やかな商店街を歩く3人の顔は、オレンジ色の夕陽に照らされている。溶けるような幸せな空気が、私の体を柔らかく包み込んだ。
 
 商店街の中心部にあるストリートピアノでは、花柄のワンピースを着た女性がパッヘルベルのカノンを演奏していた。

 「あら!今、赤ちゃんがお腹を蹴ったわ」  
 お母さんが、大きく膨らんだお腹をふんわりとさする。
 「赤ちゃん、ピアノが好きなんだね」
 真ん中にいる男の子が、お母さんの顔を覗き込んで笑った。

 「おお、そうか。カノンが好きなのか。天才児かもしれんぞ!」
 お父さんが大きな口を開け、空を見上げて笑った。
 「そうね。私たちにとってもカノンは大切な曲だものね」
 「大切な曲なの?」
 お母さんが男の子の頭を撫でながら微笑んだ。

 「そうよ。2人が出会ったのは高校の卒業式。クラスが多かったからお互いの存在を知らなかったんだけど、お父さんが式典でカノンを弾いてくれたから出会えたの」
 「弾いたと言っても、緊張で倒れて途中退場したんだがな」
 お父さんがまた、空を見上げてげらげらと笑った。

 「そう。それで保健委員だった私が介抱して。"途中までだったけど、あなたが奏でるピアノの音色が大好きでした"って言ったの」
 お母さんがうっとりとした顔でお父さんを見つめた。
 「あの時、音楽はそれで良いんだって思えたんだ。何も背負うことは無い。ただ純粋に、音や空間を楽しめれば良い。そうすればきっと、どこかの誰かに思いが伝わるんだって」
 お父さんが2人の体を思い切り抱きしめた。

 「ねえねえ! それじゃあ、赤ちゃんの名前は、カノンにしよう! カノンちゃん、みんなカノンちゃんに会えるのを待ってるよ。大好きだよ」  
 男の子が、お母さんのお腹にキスをした。

 「ふふふ、大好きよ」
 「パパとママとお兄ちゃんの宝物だ」
 「生まれてくるのが楽しみね」

 まるで家族3人を祝福するように、ソメイヨシノの花びらがはらりと宙を舞っていた。

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 映像が終わり、目の前に男の顔が現れた。

「私、この景色、覚えている気がします」
「はい。これは、あなた自身の記憶ですから」
「私……自身の記憶」
「そうです。きっと、あなたが覚えている一番最初の記憶です」

 その言葉を聞いた私は、椅子から素早く立ち上がった。

 そうだ。私はこの日、お腹の中から聞いた家族3人の声を鮮明に覚えている。
 どうしてかなんて理屈は知らない。デジャブかもしれない。でも、そんなのどうだって良い。

 いつの間にか頬を伝っていた涙を拭いながら、店の扉を開けて階段を駆け下り、一目散に家へと走り出す。

 喧嘩をしたまま家を飛び出し、突然息を切らして帰る娘に、お父さんとお母さんは何と言うだろうか。もしもまだ怒っていたとしたら、一言目は何と言おう。何を話そう。
 あれやこれやと考えあぐねていたら、あっという間に門の前に到着した。

「奏音ちゃん! 奏音ちゃん、ごめんね。コートも着ずに、寒かったでしょう」
 そんな私が馬鹿らしくなるほど、お母さんは優しく温かい笑顔で迎えてくれた。

「怒っていないの……?」
「怒るだなんて。ママ、奏音ちゃんの気持ちも知らずにごめんなさい。無事で安心したわ」
「ううん。私こそごめんなさい。客観的にみると、強く言い過ぎてるなって反省したよ」
 私は食卓の映像を思い出して恥ずかしくなり、はにかんだ。

「客観的って?」
「あっううん。大丈夫。こっちの話」
 頭に浮かんだ映像を手でささっと払い、「お父さんはどこ?」と話題を変えた。
「お父さんは、奏音ちゃんを探しに出て行ったわよ」
「帰ってきたら謝らないとだね」
「そうね」
 こんな風に、邪気のない心でお母さんと微笑みあったのはいつ以来だろう。今こそ、記憶のことを聞かないと。

「変なことを聞くんだけど……、もしかして、私にはお兄ちゃんがいた?」
 すると、母が目を見開いた。
「そうね。敢えて話題にしなかったのだけど、もうあなたも大人だから話した方が良いわね」

 2人で家の中に入ったあと、母は「よっこらしょ」と言いながら引き出しから大きなアルバムを取り出した。

「お兄ちゃんは、奏音ちゃんが1歳の時に亡くなったの。6歳だったわ。とにかく奏音ちゃんのことが大好きで、お腹にいる時から"赤ちゃん、待ってるよ"って。体が辛いはずなのに、最期まで、奏音ちゃんが心配だ奏音ちゃんをよろしくって気にかけてた。きっと今も、天国から見守っているわ」

 母が「この子よ」と言って指差した写真には、見覚えのある男の子が赤ん坊の私を抱っこしていた。

 白シャツに赤い蝶ネクタイ。黒いスーツを羽織った切れ長の目の男。
 そう、かなりのなで肩の。

 「写真スタジオで撮影したの。お兄ちゃん、カッコ良いスーツを着られて嬉しいってとても喜んでいたのよ」
 「うん。お兄ちゃん、似合ってるよ。似合ってる」

 だって私、目の前で見たから。
 でもね、なで肩だから、びしっときめているはずのスーツ、少しだけ不格好なんだよ。

 家族に背負わされたと思っていたピアニストの夢。
 それは、家族みんなの、いや、私が人生で一番最初に味わった幸福の瞬間だったんだ。

「お母さん、ごめん。ちょっと会いに行かなきゃ!」
 私はアルバムに目を落としたまま、その場に立ち上がった。
「あら、どこに?」
「今度はすぐに戻るから大丈夫! 待っていて!」