「いらっしゃいませ」
 扉を開けると、店員と思しき男の声が聞こえた。
 一重で切れ長の目に、つんと上向きの鼻、ちりちりとパーマがかかった短めの黒髪。細身の体には、白シャツに赤い蝶ネクタイ、黒いスーツを羽織っている。バーテンダーのような服装。

 あと、かなりのなで肩。
 だから、びしっときめているはずのスーツが少し不格好に思える。

「どうぞ。お好きな席へ、どうぞ」

 どうも。お好きな席へ、どうも。

 と、頭の中で韻を踏んで返答したものの、店内を見渡すとまるで想像と違って驚いた。
 昭和のレコードや平成のDVDが沢山並んでいる訳でもなく、本が陳列しているわけでもない。というか、棚なんて一つも無い。

 存在するのは、喫茶店のようなカウンターテーブルに、背もたれの無い5脚の丸椅子、見渡す限りの真白い壁。
 切れ長の目の男は、カウンターテーブルの中で両手を前に繋ぎ、口角を上げながら立っている。あの男の周りだけ、不穏な空気が重く澱んでいる。

「あ、どうも」
 思わず出た声の低さに自分でも驚きながら扉を閉め、言われるがままに私はカウンターテーブルの左端っこにある丸椅子に腰掛けた。

「記憶屋へようこそ」
 切れ長の目の男は私の目をじっとりと見ながら、テーブルの上に水が入ったグラスとコルク調の茶色いコースターを置いた。

「本日はいかがいたしましょう」
「いかがいたしましょう……」
 とは。注文するメニューのことを指しているのか。水も出されたし、メニューということは、ここはカフェなのだろうか。

「すみません。あの、はじめての利用で。メニューを知らないんですけど」

 切れ長の目の男は、「そうでしたね。失礼いたしました」と小さく頭を下げたあと、また一段と口角を上げて私を見つめた。
「メニュー表のご用意はございません」
「え? メニューが無い?」
 例えば紅茶が一杯500円を超える場合、高校生の私には高すぎる。それに、2杯目無料だとしても淹れたてブラックコーヒーの美味しさは分からないから飲みたくないし、冷たいオレンジジュースをごくごく飲むっていう季節でもない。

「メニュー表はありませんが、なんでもありますよ」
「なんでもある?」
 そう言われても。森の中で<この先危険!>と書かれた縄の向こうに自ら立ち入るようなものだ。と警戒したけれど、あれ。記憶屋が既にもう、縄の向こうなのでは。我ながら警戒ポイントが矛盾していると反省しつつ、どちらにせよ今月はもうお小遣いを使い果たしている。支払えるお金は無い。

「このお店では、あなたが見たいと願う記憶を全てご注文いただけるということです。自分の記憶でも、他人の記憶でも、どんな記憶でもご用意いたします」
「え?」
 記憶屋ってそういう記憶屋? 思わず両眉が上がった。

「ご心配には及びません。お代はいただきませんよ」
「い、いや。たしかにさっき料金は心配したけど、今は料金の心配をしたんじゃなくて……。記憶を? 見れるってことですか?」
 もごもごとする私に、男は「はい。試しに上映して差し上げましょう」と言いながら右手で指をぱちんと鳴らした。

 すると、カウンターテーブルの上に大きなスクリーンが出現し、映像が映し出された。
「へっ?」
 思わず出た自分の裏返った声に、両手で口を塞いだ。
 なぜならスクリーンには、あり得ないことに私の家の映像が映し出されているからだ。

 ーーーーーーーーーー

 「だから、どうして分かってくれないの?」
 私は声を張り上げ、リビングにあるピアノの椅子から立ち上がる。楽譜を手に取ると、床に叩きつけた。

 「お父さんは、奏音の夢を応援したいんだ。ピアノが好きなんだろう? ピアニストになりたいんだろう?」
 「お母さんもよ。奏音ちゃんには可能性があるから」
 お父さんが私の肩を掴んで宥め、お母さんが楽譜を拾い上げている。

 「違う! お父さんとお母さんの勝手な夢を押し付けないでよ」
 そんな2人をよそに、怒りのおさまらない私はお父さんの手を振りほどいた。
 「勝手な夢? 奏音の夢は違うのか?」
 お父さんが目を見開く。
 
 「私には可能性なんてないの。才能もないの。私が一番よくそれを知っているの。私がピアニストになりたいと言ったことなんてある?」
 「なりたく、なかったの?」
 お母さんが楽譜をぎゅっと抱きしめた。

 「なりたいと思ったことなんて、一度もない!」
 私はいつの間にか大粒の涙を流したまま、話を続けた。
 「私には弱くて、細い音しか、出せないの。努力を簡単に裏切ってくるピアノが大嫌いなの!」

 「奏音ちゃん、落ち着いて。上手に演奏しようだなんて、そんなこと思う必要は無いの。だからもう一度ピアノを好きと思えるようになるまで、少し休憩しましょう」
 「そうだぞ、奏音。好きと思えればそれで良いんだ」
 お母さんが両手で私の右手を取り、ぎゅっと握った。

 「違うの。そもそもピアノを好きと思ったことなんて一度も無いの!」
 お母さんの手を思い切り振り解く。

 「それは嘘だ!」
 お父さんが声を張り上げた。

 「どうして分かってくれないの? もういい! お父さんもお母さんも大っ嫌い! こんな家、生まれて来なければ良かった」
  
 私はお父さんよりも大きな声を張り上げ、家を飛び出した。

   ーーーーーーーーーー

 映像はそこで止まり、カウンターテーブルの上からスクリーンが消えた。

「待ってください。どうしてこんな映像を持っているんですか? これは私のさっきの……」
 開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。

「1時間ほど前の記憶ですね。あなたが家を飛び出して、記憶屋に来る前の」

 どうして、この男が私の家の映像を持っているのだろう。どうして、ついさっきの出来事を知っているのだろう。
 どうして、どうして、どうして……。視界がくらくらとして目が回り、両手でこめかみをきゅっと押した。
 この男は何者か。私のファンかストーカーか何かだろうか。とにかくまずはこのお店から出よう。そう思い、音を立てないようにゆっくりと椅子から立ち上がろうとお尻を浮かした時、男が声を発した。

「私は、あなたが奏でる優しい音色が大好きですよ」
 ぎょっとして男を見上げた。浮かしていたお尻をつき、椅子ごと後ずさりをする。
「は?」

 音色って、まるで私のピアノを聴いたことがあるような言いぐさじゃない。やっぱり、私のストーカーなのでしょうか。気持ちが悪い。ここは、この男は、あまりに不気味すぎる。
 くらくらとする頭を何とか垂直に保ち、出口へゆっくりと後退りした。

 男は「あら、お帰りですか」と言って頭を下げ、下を向いたままこう言った。

「私はあなたの胸の痛みを知っています。あなたの味方です。いつでも戻ってきてください。ここでお待ちしていますね」

 私はいよいよ後ろを向き、男の声を背中で弾いて扉を開け、ダッシュで階段を下りた。