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 僕は結婚する前から仕事人間だった。
 周囲からたびたび飽きられてきたものの、今の妻はそれを承知の上で生涯をともにすることを決めてくれた。というのも、プロポーズは妻からだった。
 ただ傍にいてくれる、たったそれだけでいいと笑うのはただの建前だとわかっていながら、僕はいつもいつも仕事ばかり。
 家事も育児も妻にすべて押し付け、家に帰ると言い争う日々が続いた。
 そのたびに自分のしてきたことを後悔して、離婚を切り出すべきかと悶々としていた頃、高校入試当日に僕のもとを訪れた一人娘が告げた。

「私、高校に入ったら同じバスに乗るから。一緒に帰ろうよ」

 当時、僕は家から職場までの移動手段はバスだった。娘が通う高校は僕と同じ循環バスの路線上の途中で降りた場所にある。偶然、というにはやや違和感があったが、あの子がやけに張り切ってそう宣言してきたのをよく覚えている。
 部活動に入った娘は、僕よりも朝早く家を出る。だから必然的に時間を合わせるとなると、やはり僕が定時に仕事を切り上げる必要があった。
 その日、僕は初めて定時に退社してバスに乗り込んだ。席は普段乗っている時間帯に比べるとかなり空いていた。
 何の気なしに窓側の席に座ってみた。位置なら、あの子が使う停留所がよく見えるだろう。
 バスに揺られてしばらくすると、停留所が見えた。しかし、この日の天気は生憎の雨。外は湿気でじめっとした空気が流れ、バスの車窓は水滴と結露が視界を邪魔している。
 何年も着ているスーツの袖で拭うと、ちょうど停留所に着いたところだった。
 そこには赤い傘を折りたたんで乗り込む娘の姿が見えた。
 車内に入ってすぐ僕の姿を見つけると、隣に座ってすぐ笑ってこう言った。

「おかえりなさい、お父さん」

 その一言にハッとした。
 おかえりなんて、直接言われたのはいつぶりだろうか。
 困惑する僕の私情などお構いなしに、その日にあったことを脈絡なく話し出した。授業や部活の話、最近の妻と話した家やパート先でのこともすべて、内緒話をするようにひそひそと教えてくれた。
 その日を皮切りに、帰りのバスの時間帯を合わせるようになると、あの子は必ずその日にあったことを話してくれるようになった。
 ついには、今まで会話が減っていた妻から「夕飯の材料を買ってきて欲しい」と頼まれるようになり、三人で食卓を囲む日も増えてきた。
 業績を出すことしか能のない、自分の世界はパソコンの画面だけ。――いつの間にこんなに視野を自分で狭めていたのだろうか。
 妻の明るい笑顔も戻ってきた頃、ようやく今までの自分が不甲斐なかったことを謝ると、「お互い踏み込められなかったのね」とどこか納得した様子だった。
 すべてはあの子が繋いでくれたこと。今を諦めないでいられるのは、娘のおかげだった。