しゃん、しゃん、と錫杖が鳴っている。
陽光を遮り白く霞む空とだらだらと続く畦道の間に、規則正しく張り詰めた清らかな音が一定の間隔で刻まれていく。
遠目に見てものどかな里山の風景を、錫杖の音と共にゆっくりと進む黒い塊──それは荷を背負った墨染の僧侶だった。
見知った顔ではないその出で立ちに、村人達は野良作業の手を止め、遠巻きにその道中を窺っていた。
しかし、僧侶は村人達とすれ違うたびに立ち止まり、微笑んで会釈をしている。母親の傍で泥団子を作っている童にすら目線を合わせて頷いているようだ。その内、村人の強ばりも徐々にほどけ、村は日常を取り戻していく。
──…………♪、……♪♪……
しゃん、しゃん、と鳴る錫杖に音が割り込んだ。
人の世の理では割り切れぬ音律の歌声だ。
村人達は解いた緊張の糸を張り直す。
僧侶は会釈した姿勢のまま、首を傾げて辺りを見渡した。
あっという間に村人は皆顔を見合わせ、親は子を屋内に連れて入っていく。
蜘蛛の子を散らすように消えていった村人の緊張をよそに、取り残された僧侶はぽかんと口を開けている。歌声の主を探すように顔を上げて、きょろきょろと辺りを見渡すだけだ。
残念なことに、彼の疑問に答える者はいない。
見渡す限りの無人の風景に、彼は気を取り直してまた足を進める。やがて、腰掛けるのに良い大きさの石を見つけて腰を下ろした。
網代笠をくいと持ち上げ、懐から取り出した手ぬぐいで汗を拭っているようだ。
その間も、歌声は途切れることなく村を静かに揺らしている。
人の耳には言葉として呑み込めない歌詞。
人の腹の底を騒がせる音階の旋律。
不意に、僧侶は足元に茂る草を摘んで口に押し当てた。
ピィと甲高い草笛の音が白い空を横切った。
やがてそれは歌声にたどり着く。
歌声は旋回し、笛の音に絡みついては連れ去ろうとする。
振り払おうというのか、草笛は大きくふるりと身を捩り、空へ溶けんばかりに余韻を残して長い長い尾を引く。
歌声と草笛は互いに反発し、寄り添い、平行線のまま空に音色を刻んでいく。
灰色がかった雲の彼方を見つめながら、僧侶は葉をそっと唇から離した。
もう歌声は聞こえない。
再び訪れた静寂は土の下から滾々と湧き出で、村の空気に染み入っていく。
惚けたように彼方を見つめる僧侶をひとり残して、雲はゆったりと流れていく。
空と土の境に馴染む墨染は、風景に塗り込められていくように風と呼吸を同じくしていた。
いつしか日輪が徐々に傾き始める。
村人はもう家から出てこないようだ。
木々がざわめく。
森の一部である樹木の一本一本が、人の目には見えずともしなってたわんで、導きの回廊を成す。
僧侶は再び葉を口元に運ぶ──が。
「もし、旅のお方」
古老が、声をかけた。
僧侶は草笛を離す。
わずかな空気の振動が、音になりきれなかったまま地に沈んでいった。
「──はい」
網代笠を上げた僧侶は古老を見つめる。
座る僧侶と目線の高さが同じくらいの、小柄な老人だ。
シミの目立つ、古木の皮のような沈んだ色の肌。後れ毛の目立つ丸髷は粉を吹いたように白い。
膜を隔てたようにくぐもって聞こえるしわがれた声を聞き漏らすことのないように、僧侶は体ごとそちらを向いた。
僧侶の頬や鼻の周りには、あばたが多く残っていた。
成熟した青年の見た目に糊塗されず主張するその痕に、古老は僅かに眉根を寄せる。
その視線が本来意味するものは皺に埋もれて僧侶に伝わることはなかったろうが、それでも古老はそれから目を逸らさなかった。
「悪いことは言わん。あの歌声はそっとしておきなされ」
「言い表せぬ程に霊妙な好い声でした。あれはどなたが?」
僧侶は、その姿勢通りにはっきりとした発音で問いを発したが、それに答えはなかった。代わりに古老は日の沈む方角を向く。僧侶もそれに倣えば、そう遠くない視線の先に、鬱蒼とした木々の集まり──森が、葉を静かにそよがせていた。
「この森の奥には池がある。その草笛にも池のヌシが呼び寄せられるやもしれん。万が一にも願いが叶うことあらば……ああ、口にするのも恐ろしい」
ぶるりと大袈裟に身を震わせ、己の肩を引っ掻くように抱く古老に、僧侶は首を傾げた。
「水場は彼岸と此岸の境目。人ならぬモノが音色に惹かれるとはよく聞く話です。魅入られるとも祟られるとも……しかし、願いが叶うとは初めて聞きました。霊験あらたかな、由緒ある御方が祀られた御手洗池なのでしょうか」
「いいやちっとも!」
しわがれ声で言い切った古老は、大きく息をついて肩で息をした。
僧侶は素早く自分が腰掛けていた石に古老を座らせる。己は地に膝をつけて、荷から竹筒を取り出すが古老は固辞した。
「枯れ木の年寄りの昔語りよ」
「未だ生気を失わぬ枝葉やもしれません。よろしければ、この愚僧にお聞かせ願えませんか」
僧侶は古老の皺に縁取られた目を見つめる。
ちかりとそこに宿る光に、話すつもりがあるのを見て取り、促すように頷いた。
やがて──かさついた唇が開かれた。
陽光を遮り白く霞む空とだらだらと続く畦道の間に、規則正しく張り詰めた清らかな音が一定の間隔で刻まれていく。
遠目に見てものどかな里山の風景を、錫杖の音と共にゆっくりと進む黒い塊──それは荷を背負った墨染の僧侶だった。
見知った顔ではないその出で立ちに、村人達は野良作業の手を止め、遠巻きにその道中を窺っていた。
しかし、僧侶は村人達とすれ違うたびに立ち止まり、微笑んで会釈をしている。母親の傍で泥団子を作っている童にすら目線を合わせて頷いているようだ。その内、村人の強ばりも徐々にほどけ、村は日常を取り戻していく。
──…………♪、……♪♪……
しゃん、しゃん、と鳴る錫杖に音が割り込んだ。
人の世の理では割り切れぬ音律の歌声だ。
村人達は解いた緊張の糸を張り直す。
僧侶は会釈した姿勢のまま、首を傾げて辺りを見渡した。
あっという間に村人は皆顔を見合わせ、親は子を屋内に連れて入っていく。
蜘蛛の子を散らすように消えていった村人の緊張をよそに、取り残された僧侶はぽかんと口を開けている。歌声の主を探すように顔を上げて、きょろきょろと辺りを見渡すだけだ。
残念なことに、彼の疑問に答える者はいない。
見渡す限りの無人の風景に、彼は気を取り直してまた足を進める。やがて、腰掛けるのに良い大きさの石を見つけて腰を下ろした。
網代笠をくいと持ち上げ、懐から取り出した手ぬぐいで汗を拭っているようだ。
その間も、歌声は途切れることなく村を静かに揺らしている。
人の耳には言葉として呑み込めない歌詞。
人の腹の底を騒がせる音階の旋律。
不意に、僧侶は足元に茂る草を摘んで口に押し当てた。
ピィと甲高い草笛の音が白い空を横切った。
やがてそれは歌声にたどり着く。
歌声は旋回し、笛の音に絡みついては連れ去ろうとする。
振り払おうというのか、草笛は大きくふるりと身を捩り、空へ溶けんばかりに余韻を残して長い長い尾を引く。
歌声と草笛は互いに反発し、寄り添い、平行線のまま空に音色を刻んでいく。
灰色がかった雲の彼方を見つめながら、僧侶は葉をそっと唇から離した。
もう歌声は聞こえない。
再び訪れた静寂は土の下から滾々と湧き出で、村の空気に染み入っていく。
惚けたように彼方を見つめる僧侶をひとり残して、雲はゆったりと流れていく。
空と土の境に馴染む墨染は、風景に塗り込められていくように風と呼吸を同じくしていた。
いつしか日輪が徐々に傾き始める。
村人はもう家から出てこないようだ。
木々がざわめく。
森の一部である樹木の一本一本が、人の目には見えずともしなってたわんで、導きの回廊を成す。
僧侶は再び葉を口元に運ぶ──が。
「もし、旅のお方」
古老が、声をかけた。
僧侶は草笛を離す。
わずかな空気の振動が、音になりきれなかったまま地に沈んでいった。
「──はい」
網代笠を上げた僧侶は古老を見つめる。
座る僧侶と目線の高さが同じくらいの、小柄な老人だ。
シミの目立つ、古木の皮のような沈んだ色の肌。後れ毛の目立つ丸髷は粉を吹いたように白い。
膜を隔てたようにくぐもって聞こえるしわがれた声を聞き漏らすことのないように、僧侶は体ごとそちらを向いた。
僧侶の頬や鼻の周りには、あばたが多く残っていた。
成熟した青年の見た目に糊塗されず主張するその痕に、古老は僅かに眉根を寄せる。
その視線が本来意味するものは皺に埋もれて僧侶に伝わることはなかったろうが、それでも古老はそれから目を逸らさなかった。
「悪いことは言わん。あの歌声はそっとしておきなされ」
「言い表せぬ程に霊妙な好い声でした。あれはどなたが?」
僧侶は、その姿勢通りにはっきりとした発音で問いを発したが、それに答えはなかった。代わりに古老は日の沈む方角を向く。僧侶もそれに倣えば、そう遠くない視線の先に、鬱蒼とした木々の集まり──森が、葉を静かにそよがせていた。
「この森の奥には池がある。その草笛にも池のヌシが呼び寄せられるやもしれん。万が一にも願いが叶うことあらば……ああ、口にするのも恐ろしい」
ぶるりと大袈裟に身を震わせ、己の肩を引っ掻くように抱く古老に、僧侶は首を傾げた。
「水場は彼岸と此岸の境目。人ならぬモノが音色に惹かれるとはよく聞く話です。魅入られるとも祟られるとも……しかし、願いが叶うとは初めて聞きました。霊験あらたかな、由緒ある御方が祀られた御手洗池なのでしょうか」
「いいやちっとも!」
しわがれ声で言い切った古老は、大きく息をついて肩で息をした。
僧侶は素早く自分が腰掛けていた石に古老を座らせる。己は地に膝をつけて、荷から竹筒を取り出すが古老は固辞した。
「枯れ木の年寄りの昔語りよ」
「未だ生気を失わぬ枝葉やもしれません。よろしければ、この愚僧にお聞かせ願えませんか」
僧侶は古老の皺に縁取られた目を見つめる。
ちかりとそこに宿る光に、話すつもりがあるのを見て取り、促すように頷いた。
やがて──かさついた唇が開かれた。