私には生きる意味がない。絶望という言葉しか浮かばない。楽しくもなんともない毎日。ただ、息をしているだけの毎日。これって生きている意味はあるの? 生きている価値はあるの? 正直生きることに疲れてしまった。いつから一人のほうが楽だと思えるようになったのだろう。今日も真夜中に旧校舎のグランドピアノの元へ行く。そこだけが深呼吸できる場所だ。でも、ほんの一時間程度。今日も出身中学へ向かう。田舎に住んでいていいと思う瞬間がある。見上げると幾千もの星空の輝きが降り注ぐ。

 自宅は古くて汚いアパート。そこにピアノを置くスペースはない。私は音楽から隔離された生活を余儀なくされた。悪い噂はすぐに広まる。幼少期から、大きなきれいな家に住んでいるだけで、なんとなく人とは違うんだと思って生きていた。でも、違う意味で今は人とは違うということに気づく。父の会社が倒産して自宅を売らなければいけなくなった。つまりお金持ちのお嬢様から貧乏人となったわけだ。全てを失った。地位も友達も家も音楽も――。ただの高校生の私だけど、触れていたい。今だけでも。

 中学校の旧校舎の音楽室には古いグランドピアノが放置されている。新校舎ができた時に、新しいグランドピアノが届いたにも関わらず、処分されずにただ置かれている。ここはなぜか防犯対策をしていない。盗まれてもいいものしかないということもあるし、近々取り壊しになるらしく、防犯カメラや防犯会社のセキュリティーシステムがない。田舎の中学校ということもあり、ピアノを弾いても誰にもばれない山の中だ。旧校舎は校門の外にあり、防犯の対象になっていないのが幸いした。真夜中に不法侵入することが不謹慎だということは重々承知の上だ。窓から降り注ぐ月明かりが心地いい。自分の居場所だと思う。誰にも邪魔されない空間が確かに存在する。空気が昼間よりも澄んでいて深呼吸したくなる時間。

 森が近くにたたずむだけの場所。時折、ふくろうの鳴き声が聞こえる。音を奏でても問題なし。倒産するまではピアノを習っていた。基礎は身についているので、今は独学でも問題はない。習い事や遊びに使うお金もない私は旧校舎のグランドピアノを弾きに行く。音の状態は良く、音色も悪くない。処分するにはもったいないと思われて、旧校舎に保存されたのかもしれない。

 どうして人は群れていないと不安になるのだろう。
 それはとてもとても息苦しい。
 人と違うことをしたら疎まれる。
 自由って何だろう。最近、わからなくなる。
  収入が少ないから自由は手からこぼれているような気がする。
 
 いつも通り不安に囲まれた私の耳に聞きなれない男性の声が届く。
「こんなところで、勝手に弾いていいのかよ? 死にたいなら俺にその命をくれないか」
 なぜか旧校舎の真夜中の音楽室にいるどこか世間に反抗的な見た目をした人。

 見たことがある顔。変わっていない。中学時代に同じクラスだった彼の名前は、流我奏(りゅうがかなで)。たしか、ピアニストの両親を持つ元天才ピアニストと言われていた。見た目がかっこいいし、元天才ピアニストという響きも女子からの人気がある一因だった。でも、彼は何かのアクシデントがあってピアノを辞めたと聞いた。

「あなたは同級生の流我奏くんだよね。こんなところで何をしているの? 死にたいって言うのはどこから得た情報なの?」
 不可解なことを言う人だ。

「ここ、夜の時間つぶしにちょうどいいんだよ。校門の外だから侵入しやすい場所だし、ちょうどいいソファーもあるし、死にたいと願う女もいる」
「死にたいっていうのはたしかだけれど、どうしてあなたが知ってるのよ? ピアノが上手なんでしょ? 弾いてみてよ」
「実は、死を入れ代わってもらうと俺の寿命が延びるっていう情報を得たんだ。だから、死にたい奴を探していた。近所に住んでる。毎晩旧校舎からピアノの音が聞こえてきた。気になって、置いてあった日記を読ませてもらった。

 日記は誰も来ないと思って書いて旧校舎に置いていた。ちょっとポエム風だったり、悲しい自分の本音の気持ちを書いていたけれど、まさか、こんな奴に読まれてしまうなんて不覚だ。そして、パワーワードが出現する。死を入れ代わると寿命が延びる。一体何を言っているのだろう。
「日記、勝手に読んだんだ? かなりのマイナス思考なのばれちゃったね。ちなみに子犬のワルツは今、練習中だけど、花の歌は得意なんだから」
 恥ずかしくなり、よくわからないマウントを取る。
「ランゲの花の歌か。子犬のワルツは指の運動力が必要になるからな。ショパンの曲は指の小回りが利かないと弾くことが難しいよな。たしかに、弾きやすいのは花の歌のほうだろうな」
「花の歌、弾いてみて」
「この天才に頼むなんて贅沢だぞ。おまえ、死にたいんだろ。ならば、俺の代わりに死んでくれないか?」
 変な提案に体が凍り付く。よく知らない男子に代わりに死んでほしいなんて言われる事実。変な感触だ。
「あなたの代わりに死ぬ? そうすれば、あなたはピアノを弾いてくれるの? 間近できれいな音色を聞いてみたいのは確かだけど……」
 あなたの目的は何? あなたは見た目こそ悪そうだけど、ピアノの腕はたしかなら、彼が奏でる音色を聴いてみたい。発する言葉は気になる言葉ばかりだ。彼の言う死の入れ替わり――どういう意味だろう。
「俺は、こう見えて近々死ぬらしい」
「なんで、そんなことがわかるの?」

 古びたノートを鞄から取り出す。
「俺、不思議な予知ノートを持っているんだ。俺は事故に遭う運命で、長生きはできないって書かれていた。予知ノートは、俺の家に代々受け継がれているんだ。これに毎日生きる意味を書き込むと自分の寿命が延びるって書かれているんだ。自分が生きるためには、誰かに死を交換してもらわなければいけないらしい」
「そんな話、信じられないよ」
「実際、俺の祖父は死を免れたいう話を聞いたんだ。まぁ、そんなの嘘だろうって思ったんだけど、わらにもすがりたい気持ちだろ。生きる意味がある者は、この世界で生きる価値があるということなのかもしれない」
 真剣なまなざしだ。冗談を言ってからかっているわけでもなさそうだ。
「死を交換するってことは、誰かが犠牲になるの?」
「ノートの最初にこのノートの効力が書かれているんだ。見てみるか?」
 彼がノートを開くと、文字が書かれていた。

【あなたは近々事故で死にます。生きる意味を書き続ければ、生きる価値があると判断されて、少しは長く生きられます。死を回避するには、誰かに死を代わってもらってください。】

「あなたが書いたわけじゃないの?」
「ノートの内容は日々変化するんだ。これは未来を予知してくれるアイテムってことだ」
 不思議なノートを見つめる。こんな紙の塊に何ができるのだろう? こんなもので、人を死に追いやることができるのだろうか? その人が生きる意味を書き込むことで、この世界に生き続けられるなんておかしな話だ。

 指を愛おしそうに見つめる。きっとまだもっと弾いていたかったのだろう。
 音を奏でていたかったのだろう。
「あなたの両親は有名なピアニストだよね。やっぱり家族としては、音楽大学に行くのが普通だったりするの?」
「当然だ。我が家では俺はお荷物になっちまった。今は存在価値がない高校生だ」
 クールで目つきが鋭い流我奏はこちらを見つめる。
「私でよかったら、あなたの生きるための犠牲に応じてもいいよ。ちょうど死んでもいいと思っていたから」
「っていうかお前、なんで死にたいんだ? 俺はくだらない毎日でもとりあえず生きる選択を望む選択をするけどな」
「色々嫌になったんだよね。父の会社が倒産して、好きなピアノもこんな夜中に旧校舎でこっそり弾くことしかできない。本当は音楽の仕事に就きたかった。大学に行きたかった。でも、お金がないと厳しいよ」
「人生の栄光はコンクールで優勝した時だったのかもしれないな。全盛期はとっくに過ぎた。俺から音楽を取ったら、何も残らないよな」
 すごくマイナス思考!! なんとか救ってあげないといけないような気がする。

「おまえこそ、旧校舎で自分のノートに辛いってことばっかり書いてるだろ。自分自身の生きる意味を探してみてもいいと思う」
「生きる意味ね。そんな難しいこと考えると疲れちゃう。あなたは生きたい。私は死にたい。私が死を入れ代わってあげるよ。簡単なことでしょ」
「おまえのことをちゃんと知りたい。その上で決める」
 茶色いストレートの髪の毛が月夜に映える。
 漆黒の瞳。肌の色は白い。
 きれいな人だ。一瞬見惚れてしまう。

「じゃあ、私にピアノを教えてくれる? 接していれば、私の人柄が分かるでしょ」
「別にかまわねーけど、最近ちゃんと弾いてないからな」
 流我奏は自身の指を見つめる。
「完璧なプロに習いたいわけじゃないの。私はただ、上手になりたいだけだから。交渉成立だね」
 じっとこちらを見られる。視線が痛い。
「ただ上手になりたいだけか……。いつからそんな気持ちを忘れてしまったんだろうな。俺はコンクールで優勝するために、将来はプロになるためにピアノを弾いてきたような気がする」

「生きる意味がない人間っているのかな?」
 生きる意味――深くて難しい問題だ。
 生きる意味がない人、価値がない人なんているのだろうか?
 死刑制度は人から生きることを奪う極刑だ。
 それがあるから、思いとどまる人間がいると想定している制度。
 合法的に人を殺めることができる制度が事実、存在する。
 生きる意味があるとかないとかより、私の場合、生きたくないと思ってるだけなのかもしれない。
 意味を探すことから逃げているだけなのかもしれない。
 毎日の辛さから逃げ出す自分が嫌い。基本的に自分自身が大嫌い。

「俺たちって、今日はじめてちゃんと話すよな? 中学生だった時には会話もしたことなかっただろ」

 旧校舎が残っていてよかった。流我奏と会話ができたことで、新しい扉が開けたような気がする。
 人生なんてそんなものなのかもしれない。小さなことが大きなことにつながる。小さな傷が大きな傷になるというたとえが分かりやすいかもしれない。小さな幸せが人生を大きく変えることもある。同窓会にもずっといかなかったのにこんな形で再会できた。
「ちょっと弾かせろ」
 指は細くて長い。細かい音色を指をくぐらせながら奏でる。
 よくもまぁこんなに指が動くものだ。
 子犬のワルツを弾いてくれた。本当に目の前で子犬が駆けているかのようだ。
 どうやったらこんなにも繊細でリズムが整った軽快な音になるのだろうか。
 子犬のワルツは可愛らしく繊細で美しい。
 本当にケガをしているのだろうか?
「どんなもんだ?」
「本当にケガしてるの?」
「長時間、このテンポで弾くことが難しいんだ。元々指の練習はしてるから、細かい音もリズムも何でも弾けるんだけどな。プロの壁は甘くない」
「先生って呼んでいい?」
「先生呼びは苦手だ。奏と呼んでくれ」
「呼び捨てで呼んでいいの?」
「かまわない。だって、俺の代わりに死のうと申し出てくれた人だしな」
 やっぱり近くで見ると一段と美形だと感じる。薄暗い電気の下でピアノを奏でる美形。天才肌なのも人気がある一因だろう。彼には華がある。
「俺の代わりに死ぬ価値があるか見極めたい。いい場所を見つけた。これから夜中にここで落ち合うぞ」
「うん」
 一人ぼっちの夜は二人きりの夜に変わった。
 薄暗くなる夜は人を不安に掻き立てる。いつも一人でいることに耐えきれなくなって外に飛び出した。
 田舎町では繁華街なんてないし、若い人が集える場所もない。

「なぁ。死ぬのを代わってくれないか?」
「無価値で無気力な私に価値を見出したいという神々しい理由をつけるなんて、あなた、見た目よりもずっと人としてちゃんとしてるのね」
「無価値なんて自分でいう人間に生きていてよかったって言わせてみたいっていう天邪鬼な性格が災いしているらしい」
「早めに死ねるほうがいい。いつ死ぬかわからないなんて、その方がずっと嫌だから」
「そちらの事情も理解した。これから、よろしくな。織川美音(おりかわみおと)。美しい音と俺の奏でるという名前は合わせるといい感じになるな」

「生きる意味、ノートに書かないとな。織川美音にピアノを教える」
 ノートにペンで書いている。

 夜風がきもちいい。背伸びをする。
「送ってくよ。女一人でこんな真夜中に歩いてたら危ないだろ」
「ありがと。案外優しいんだね。案外でもないか。名誉の負傷を負うくらいだしね」
 つい笑顔になる。ずっと誰かと話がしたかったんだ。正直、誰もいない夜道はずっと心細かった。
「また明日」
 同時に言葉が出る。自宅の前で奏と別れる。
 見た目に反して案外優しくて話しやすい人だ。

「この前借りたハノンの練習してみたよ。やぱりテンポを決めて早く弾くと指がもつれるんだよね」
「じゃあ、今日は出だしのところをレッスンしてやる」
「相変わらず俺様な態度だなぁ。ピアノを奏でている時は王子様みたいに見えたのに」
「王子様に見えたかぁ。惚れるなよ」
「惚れませんけど」
 つい頬がピンク色に染まってしまう。この人は、恥ずかしくなるセリフを簡単に言う。
 アイドルみたいな童顔で整った顔立ちだから、外見だけで好きになるという女子がいることは納得だ。
「満天の星空の下にいると、何か思い出さないか?」
 練習後、一緒に帰っていると質問された。
「毎日一人でここに来ていた時のことは思い出すけどね」
 一瞬残念な顔をされる。何か期待されていたのだろうか? 何て答えればよかったのだろうか。
 奏は実はとても繊細な性格なのだろうと一緒にいて感じることが多々あった。

「星空の下を一緒に歩いている。星空を美しいと感じ、想いを馳せる。これ、生きる意味になるよな。ノートに書いておくよ。これで俺の寿命は延びるってことだ」
 いつも楽しそうにしている。ピアノを以前のように弾けないにもかかわらず、なぜそんなに楽しそうにしているのだろう?
 次の日も、また次の日も。晴れの日も雨の日も。私たちは旧校舎でピアノを奏でた。空は漆黒の真夜中。
 本当は不気味なことが起きそうな時間帯だったけれど、私たちにとってはとても自由で、その時間だけは生きていることを実感する。どこまでも美しい時間帯だったと思う。私のピアノの腕前はあがったし、二人の距離は近くなっていた。
「これならば、俺の代わりに死んでもらってもいいかもしれないな」
 最初の約束を十日後には快諾してくれた。
「奏の代わりにならば、私は死んでも構わないよ。もし、大人に見つかってしまって、この時間を取り上げられてしまったら、私は生きている意味を感じないから」
「大丈夫だよ。スマホがあるだろ。俺たちは、いつでもメッセージでつながることができる。形が変わってもこの時間は永遠だ」

 この言葉を交わしたその日――。虫のしらせだったのかもしれない。
 見通しが悪い細い道路を歩いていた私たち。歩道がきっちり整備されていない田舎道で想定できるような事態が起きた。歩行者と運転者の信頼関係で成り立っているような細い道路。でも、こんなことを想像してもいなかった。人は最悪な事態を想像できないものなのかもしれない。
 自動車が私たちめがけて走ってきた。このあたりは高齢者が多い。
 紅葉マークがついた自動車はブレーキとアクセルを間違ったのか急発進して私たちの目の前に飛び込んできた。
 車が道のない森に向かって飛び込んでくる。
 もしかして、予知ノートの効果は本物なのかもしれない。
 本当に事故を予知していて、入れ替わった私は死ぬのかもしれない。
 死ぬのはやっぱり怖い。私たちはどうなってしまうの?
 もっと一緒にこの時間を過ごしたかった。思わず体が固まって動けない。目をつぶってしまう。
 人は逃げなければいけない事態に陥った時に、体が動かないものらしい。
 私の目の前に奏が現れて、私を森のほうへ押した。
 つまり、彼は犠牲になった。
 目の前で倒れている彼のことがとても心配になる。
 どうしたらいいのかわからない。腰がぬけてしまったらしい。うまく体が動かない。
 車から高齢の男性が出てきた。
「大丈夫か? 救急車呼ぶから。あとは、警察に電話する」
 男性は持っていた携帯電話を使い、手を震わせながら番号を押していた。
 通報すらできない自分がどうしようもなく嫌になる。
 あぁ、自分なんかのせいで奏が事故に遭う。
 私なんかが無傷で生きてる。
 私は生きる価値なんてないのに――。
 ごめんね、奏――。
 無力な自分に対して、涙が流れた。
 その後、救急車で奏は運ばれた。思ったほど出血はない様子だ。
 警察が来て事情聴取が始まる。
 私たちの至福の時間は終わってしまった。

 奏は大丈夫だろうか。
 警察の人からの一報を待つ。
「流我奏くんは、命に別状はないとのことだ。念のため検査入院することになった」
 その言葉に温かな涙が頬を伝う。
「加害者の男性は高齢ドライバーで、暗がりに人がいるとは思わず、ぶつかりそうになり、驚いた拍子にブレーキではなくアクセルを踏んだらしい。でも、流我くんは君をかばって、自分自身も横に逸れて受け身を取ったから一大事を防ぐことができた」
 警察の人の言葉をなんとか呑み込み、理解を促す。
 普通の日本語が入ってこないくらいパニック状態に陥っていた。
 頭は真っ白で、かろうじて言葉が入ってくるというところだろうか。
 
 そして、中学校の方からは旧校舎に勝手に出入りできないように鍵を掛けられてしまい、セキュリティー会社と契約をされてしまった。半年もしないうちにあの校舎は取り壊されるらしい。そして、グランドピアノは駅に寄付されることとなったらしい。前々から寄付の話があり、旧校舎にとりあえず置いていたとのことだ。古いけれど、大切に使われていたせいか傷も少なく破損もない。状態が良くまだまだ使えると判断されたらしい。


 奏はたいしたケガはなく主に打撲や擦り傷だったらしい。
 私の命を助けてくれたということもあって、親も命の恩人だと奏のことは良く思っているようだった。


「助けてくれてありがとう」
「目の前の人間を助けるのに価値や理由なんていらないからな」
 本当にイケメンなセリフを言う人だ。親切で優しい命の恩人。

「実は、音楽制作をしようと思ってさ」
 私と奏は別な形で音楽活動を始めた。
 歌ってほしいと言われ、声を出したり、ピアノを弾いたり、配信の内容は多岐にわたる。

 そんな時、奏は想い出を話し始めた。
「美音は覚えていないかもしれないけどさ。俺がこの地域で投身自殺で有名な岬に行った時、美音に会ったんだ。まだ、美音の親の会社が倒産する前で、家族で旅行に来ていたよな」
「そんな時もあったね」
 小学生最後の夏休みの家族旅行を思い出す。あれから、あっという間に人生が変わった。
 毎年近場にキャンプに行っていた。美しい空はお金では買えないと良く聞かされた記憶がある。
「星がきれいな夜で、親が別な場所にいたらしく、美音は一人で散歩してたよな」
「もしかして、あの時の男子?」
 まだ小学六年生だった時に、出会った美しい男の子。印象深い暗闇での出会い。
 でも、ロマンチックな出会いじゃなかった。
 なぜならば満天の星空の下で彼は絶望していた。
 あの時、奏は既にケガをしていたのだろうか。
 中学に入る前に進路に悩んでいたのだろうか。
「音楽大学付属中学に入るか、地元の公立に入るかすごく悩んだ。公立中学に行ったら今までやってきたことが無駄になるかもしれない。俺が崖から身を投げ出そうとしたとき、価値がない人間なんていないから、とりあえず飛び降りないでほしい。ここで出会ったのも何かの縁だから、生きていたらまた会えるかもっていわれてさ」
 そんなこと、言ったかもしれない。正直あの時は目の前で死にそうになっている人間を助けるために、パニックになりながら、とりあえず言葉を並べた。
 おせっかいな性格が発動して、目の前の人が生きられるような言葉を探した。
 知らない人だけれど、死んでほしくないと幸せの中にいた私は願った。
 自らが死にたいなんて思うことはないとその時は確信していた。
 だからきれいなセリフを並べて優等生面していたように思う。
 いつの間にか、今の奏と私は当時とは逆の立場になっていて、彼なりに私を助けようと模索してくれたのだろうか。
「ずっと命の恩人を探していた。あの時は、美音の全身からオーラが溢れていた。光を纏ったすごい女子がいるもんだと感心したんだよ。地元の公立中学に入って、探していた織川美音を見つけた。でも、声をかけられなかった。今度は美音のほうが、光を放ってなかった。偶然二十歳になって、夜中に旧校舎にいることを知って話しかけたんだよ」
「予知ノートなんていうのも俺が作った嘘だ。もう一度、美音に輝いてほしかったからさ。まさか本当に交通事故に遭うなんて思いもしなかったけどな」
「たしかに。一瞬本物の未来予知ノートなのかと思ったよ。でも、あの時は、本当にありがとう。一生命の恩人だと思って感謝するよ」
「未来予知ノートならば、願望を書いてみたらかなうよな?」
【流我奏と織川美音は両思いになって共に音楽を通してずっと愛し合う】
 ものすごく恥ずかしい。この願望は私のことを好きだという証なんだよね?
 半信半疑な気持ちになる。
 しっかり私の目を見つめる奏。
「俺が今生きる目的は、あの時の少女に会って、気持ちをちゃんと伝えることに変わった。だから、おまえの内面を知ってもっと好きだと思った。本物の恋人になってほしい」
 いきなりの告白に頭の中はパニック状態になる。

 赤面が止まらない。嬉しいし、びっくりする。
 無意識に行った親切がこんなにも人の人生を変えるものなの?
 パニックになる。
「今すぐ付き合うって言ってくれなかったら、この告白無効ってことにしようかな」
「え? だめだよ、私も好きなのに!!」
 しまった。つい、無意識に言葉が出る。
「人は思ってることを今すぐ決めないとダメになると即決断できるものなんだよな。無意識な親切ってのは本来の人柄が出るものだ。だから、知らない人に一生懸命生きるように説得した美音は絶対性格いい奴だって思った」
 優しげな瞳は嘘偽りがない。
「私でよければ、よろしくおねがいします」
 お辞儀をする。
「美音じゃないとダメなんだよ。俺は、指をケガしたおかげで美音に出会えた。これは代償なのかもしれない。人は全てほしいものが手に入るわけじゃないから、俺は美音と付き合えるならこれ以上の幸福はない」
 これ以上の幸福はないのは私の方だ。
 
「私なんかでいいのかな?」
「美音しかダメなんだよ。私なんか、なんて自己肯定感の低いことを言うなよ」

 この人の声は落ち着く。はじめは鋭い目つきだと思っていたけど、気づけばいつも優しいまなざしを向けてくれる。
 そばにいると心が温まる人だ。何より、私を想ってくれるのは最高に嬉しい。
 大きな手に包まれる。ケガをしたという細くて長い指は私の髪の毛をそっと撫でてくれる。
 この人は自分の身を挺して人を助けられる人なんだな。
 私のことを無意識の親切心から助けられる勇気ある行動ができる人。

「俺、今すぐにできることから始めるよ。退院してから音楽の動画配信を始めたんだよ。クラシックじゃなくて、十代の普通の人がすぐに馴染める音楽を創作してる。パソコン使うの元々好きなんだよな。イラスト書くのも好きだし、今まで描いたものを動画に使うことにした。音楽は生活の中のふとした瞬間に自然とあるべきだと思うんだ。今はネット発の小説家とかミュージシャンとか、ネットでお金を稼いでる人間もいる。自宅からプロになることは充分可能な時代だ。人に聞いてもらえるチャンスは自分で作ることができる。世界に発信できる今の環境は平等の時代だと思ってる」
 もうすでに奏は行動している。理想的な生き方だ。
「一緒に生きていこう。もし、死にたくなったら俺がいるから立ち止まれ」
「奏がいたら、死ぬ選択肢はないよ」
「ずっと俺たちは一緒だ」
 私たちはまだまだ未熟で青いのかもしれない。考え方が甘いのかもしれない。
 でも、一緒にいれるだけで私たちは幸せなんだ。音楽で私達は繋がった。
 
【ずっと一緒にいられますように】
 願望をペンでノートに書く。
 私たちはこれからやりたいことをノートに書くのが習慣となった。
 書くと願望が本当になるような気がしたからだ。
 絶望して、死にたかった奏に生きるように説得した私。
 絶望して、死にたくなった私に生きる勇気をくれた奏。
 実はお互いがおせっかいな性格で、無意識に親切なことをしてしまう。
 本当に笑えるくらい似た者同士だということにも気づいた。
 その過程には音楽があった。
 私達は音楽を奏でるために生きていく。
 プロにならなくとも音楽は平等に存在する。奏でるピアノの美しい音色に今日も生きている幸せを感じる。
 私のかたわらには笑顔がまぶしい奏がいるのだから。

 お互いがいなければ、今、欠けていたかもしれない命。
 生きる価値も意味もなんとなくしかわからない。
 でも、死ぬかと思った瞬間はとてもこわかった。
 奏を失うかもしれないと思った瞬間のほうがずっとこわかった。
 きっと無意識に私は生きていたいと思っていたんだ。
 生死を自分で選択するなんて贅沢な話だと思う。
 いつか必ず人は死ぬ。
 そんなことはわかりきってるのに、人はどうして生き急ごうとするのだろうか。
 人という字は支え合って成り立つという話を小学生の時の授業で習った。
 その話はあながち間違ってはいないと思う。
 実際、一人の人間に助けられて今がある。

 もし、本当に予知ノートがあっても、内容を知らないほうが幸せなのかもしれない。
 なぜならば、必ずしも幸せな結末とは限らないから。
 知らないからこそ、人は希望を持って明日を迎えることができるのかもしれないと思う。

 今日も奏と音楽活動をする。
 ずっと一緒に音を奏でる。