ピピ、ピピ、ピピ。
規則的に鳴る電子音がいつも耳に響いていた。
耳を塞いだって、頭の中で正確に再生することができるその音は、私をこの場所にがんじがらめに縛りつける。チューブに繋がれた鼻と口、皮膚が薄くなって角ばった喉仏、しわがれた手を、順番に見つめる。一時間、いや一日中、同じことをしているので身体がそうするように勝手に動いてしまうのだ。電子音とベッドに横たわる老爺はいつもセットだった。電子音が聞こえてくれば老爺の姿が目に浮かぶし、老爺を目にすれば電子音が自然と流れてくる。鬱陶しいとか、頭がおかしくなるとか、そんな負の感情は浮かばない。私は今、とても愛しい気持ちでこの場所に四六時中居座っていた。

「ねえ、知ってる? 201号室の……。植物状態なのに、ずっとお見舞いの人が来てるんだって」

「あ、あの高校生の女の子よね? 確かお孫さんだって聞いたけど」

「そうそう。大変よね。息子さんや娘さんらしい人は一向に来ないんだって。なんか、不憫というか。でもお孫さんが来てくれるなら浮かばれるかもね」

病室の扉の向こうで、看護師なのか研修医なのか実習生なのか分からない人たちの、ヒソヒソと囁き合う声が聞こえる。電子音しか響かない、この静寂に包まれた病室では、廊下で話をする人の声なんて全部すり抜けて聞こえてしまう。
噂話なんかどうでもいい。私はただ、この人と最後に同じ時を過ごしていることを、噛み締めたいだけなんだ。

気分転換に椅子から立ち上がり窓を開けると、ほの暖かい春風が優しく吹き込んできた。あの時と同じだ。私がまだ、高校1年生になったばかりの教室と、同じ。怖くて震えていた、情けない自分に吐き気がして、この先の未来に絶望しかけていたあの日、春風と共に、あの人が私の前に現れたのだ。

**

二宮夕映(にのみやゆえ)です。母が亡くなったばかりで、今はどうしていいか分かりません」

高校1年生の春、まだどこかよそよそしい空気の流れる教室で、担任の今田先生が「自己紹介をしよう」と言い出した。知らない人ばかりのクラスだから、当然の流れだった。
みんなが壇上で口々に出身中学校や趣味、入りたい部活などを話していく中で、私の番が回ってきた。

母親が亡くなったという強烈な自己紹介を聞いたクラスメイトたちの顔が、一瞬にして凍りついたのが分かった。名前もまだ覚えきれていない男子や女子たちが、私に憐れみの視線を向ける。一番前に座っている子たちは、どう反応すればいいか分からない、というふうにみな一様に俯いた。

「えー、二宮。辛い時に、ごめんな。もしよかったら、何か好きなこととか教えてやってくれ」

この教室の中で一番焦っているであろう先生が、一瞬にして重たくなった教室の空気をどうにか和ませようと、私に話題を振ってくれた。

「好きなこと……は、映画鑑賞、です。それぐらいです」

数秒の空白のあと、まばらな拍手が響き渡った。拍手をしている人としていない人は、半々くらいだ。しかしその中で、一際大きく拍手をしてくれている人がいて、私はふと視線をその人に向けた。
教室の一番後ろの窓際の席に座っている男子生徒だ。確か名前は——そうだ、渡井紘(わたらいひろ)。中学の時はバレー部のキャプテンをしていたんだって、女子が噂で話していた。入学してから今まで話したことはない。背は高く、肌も白い方で爽やかなイケメンだとみんな頬を赤くして話していた。

渡井くんは、私と目が合うと、食い入るように私を見つめ返してきた。他のクラスメイトのように俯いたりしない。どうしてなんだろう、と私は不思議だった。教室の中を流れる時間が止まったみたいだ。彼と私が無言で対話をする時間が一秒、二秒、と長く感じられた。
渡井くんが窓をそっと開けると、暖かい風が吹き込んでくる。春だ、と反射的に身体が反応した。凍りついていた教室の空気が、春風に溶けて、みんなほっとした様子で顔を上げる。私が自分の席に戻り、次の順番の浜崎さんが話し出す頃には、教室の雰囲気はすっかり和やかなものに戻っていた。



「二宮さん」

放課後、机の上で突っ伏していると誰かに肩を叩かれてクラスが解散していることに気づいた。ここ数週間、シングルマザーだった母が亡くなり親戚の家に厄介になり始めてからというもの、私は家でも気が休まらなかった。夜眠れないことが多く、病院で睡眠導入剤を処方してもらっている。

「ああ、ごめんなさい」

誰に謝っているのかも分からないまま、私は席を立ち上がった。

「ちょっと待って。あのさ、一緒に部活動見学に行かない?」

「え?」

明白に自分に興味を持って話しかけられていると知って、私は声のする方に顔を向けた。その人は紛れもなく、あの渡井紘だった。昼間の自己紹介の記憶がフラッシュバックする。私の自己紹介を聞いて、唯一大きな拍手をしてくれた人。暗い気持ちでいる私を、引かずに見ていてくれた人。
でもなぜ、突然部活見学に?
訳が分からなくて、私はその場で固まってしまった。

「えーっと、今、新歓やってるじゃん。俺、まだ入りたい部活決まってないんだよね。二宮さんもほら、さっきの自己紹介で部活のことは話してなかったから」

渡井くんは、頭の後ろを掻きながらそう話した。確かにこの時期、上級生たちが部活の新歓をやっているけれど、どうして私を誘うのだろう。太陽みたいな笑顔を周りに振り撒く彼は、入学早々多くの友達に囲まれていた。だからこそ疑問だったのだ。日陰者の私みたいな人間に、どうして彼が部活見学に一緒に行こうだなんて誘うのか。

「私、多分部活には入らないよ」

「そうかーでもいいじゃん。見るだけだし」

「はあ」

部活動には入るつもりはなかった。それなりにお金だってかかるのに、親戚の叔母さんに迷惑をかけるわけにはいかない。叔母さんは私を引き取ってくれたけれど、たぶん本当は引き取りたいなんて思ってなかったはずだ。叔母さんのうちに子供がいなかったのが救いだが、それでも私は家の中を漂うよそよそしい空気に、いつも泣きたくなっている。

「それじゃあ、行こうか」

「え、今日?」

「当たり前じゃん。新歓はすぐに終わっちゃうんだから」

グイグイと話を引っ張っていく渡井くんに、私は半ば強引に教室から連れ出された。私たちの様子を見ていたクラスメイトたちが、「何あれ」と囁く声が聞こえたけど耳に蓋をした。目の前を駆けるようにして歩く、たった一人の男の子の背中を見つめていると、私はどうしてか心が凪いだ海のように落ち着いていたのだ。

「二宮さんは興味のある部活とかある?」

「いや、ないよ」

「わー最初からノリ悪っ。じゃあ俺の興味あるとこでいい?」

「どうぞ」

私は、渡井くんの問いかけに対して常にぶっきらぼうに答えていた。そもそもまだ入学して3日しか経っていないし、彼と話したのは今日が初めてだ。いきなり強引に新歓に連れて行かれただけで親しげに話せるはずがない。
でも心では、誰かと心を通わせてみたいと思っていた。

渡井くんは、そんな私の心のうちを知ってか知らずか、中学の時は何をしていたの、とか、好きな食べ物とか、どうでもいいことから私のパーソナリティの核心をつく質問までぽんぽん投げかけてきた。私はその一つ一つの質問に、途切れながらもなんとか答えを出していった。渡井くんは「へえ」とか「俺もカレーが好き」とか、適当な相槌を打ってきて、コミュニケーションが上手な人なんだとすぐに分かった。
サッカー部やバスケ部、彼が中学時代にキャプテンをしていたというバレー部に見学に行った。どの部活でも、先輩たちは子犬みたいに笑って話しかけていく渡井くんを歓迎した。私は彼の後ろで身を縮こませて、どうか自分には勧誘が来ませんようにと祈る。渡井くんはいろんな部活のいろんな先輩たちから勧誘を受けていたが、「また考えます!」と明るく笑ってうまくかわしていた。

その日は結局運動部を軒並み見に行って、気がつけば2時間ほど経っていた。下駄箱から出て、校門のそばで夕闇に沈む山を眺めながら渡井くんは「疲れたー!」と大きく伸びをする。私も、気がつけば身体が緊張でガチガチになっていたことに気づく。肩を小さく回すと、滞っていた血液が少しずつ流れていくような心地がした。

「あのさ、一つ聞いてもいい?」

「なに?」

一つ、と言うところで渡井くんは間を置いたが、一つどころか今日彼の質問攻撃に遭ったのは今さら確認するまでもない。だが彼にとって、これまでの質問は前座に過ぎなかったようだ。渡井くんの表情が、今日一番に真剣なものに変わっていた。

「お母さんが亡くなったのって、いつ?」

どくん、と脈拍が速くなるのを感じた。私の方をまっすぐに見つめる彼の目を見ていると、とてもじゃないが嘘をつこうとは思えない。彼には、本当のことを話しても良いと思ってしまう。

「1ヶ月前。心臓が悪くて、もう持たないかもって覚悟してたから、突然のことじゃなかった。でも私の家、お父さんがいなかったから。お母さんがいなくなって、私はひとりぼっちになっちゃったんだ」

亡くなったのはいつ、としか聞かれていないのに、気がつけば胸のうちを吐露してしまっていた。喋りすぎたと気づいてはっと口をつぐんで渡井くんの方を見る。彼はとても真剣なまなざして、私の口元に注目していた。その表情が、「辛かったね」と私の気持ちに共感してくれているようで、痛かった。

「本当は、心臓の移植をすれば治るかもしれないって言われてたの。でもドナーが現れなくて。そりゃそうだよね。心臓がないまま、棺に入れる人なんてなかなかいないよ。分かってた。分かってたんだけど……やっぱり悔しかった」

話しているうちに溢れ出した涙が、頬を滑り落ちて地面に落下した。私は、母が亡くなってからまともに泣いていなかったことに気づく。「大変だったね」「辛かったね」と親戚たちから言われるたびに、私の今のこの悔しい気持ちや悲しい気持ち、母のことを恋しいと思う気持ちは、そんな一言では済ませられないのだと痛感した。そのあとは親戚たちの間で私の身の寄せる場所を決める押し付け合いが始まって、とてもじゃないが見ていられなかった。

「ごめんね渡井くん。突然こんな暗い話して」

図らずも人前で泣いてしまったことに罪悪感を覚えつつ、私はゴシゴシと目を擦った。鏡で見なくてもわかるくらい、私の目は充血している。でもふと、目の前にいる彼の目も赤くなっていることに気づいた。

「紘でいいよ」

「え?」

「名前。紘って呼んで。俺も夕映って呼ぶから」

紘の横顔が、夕陽で赤く染まっていく。夕映え、という自分の名前が昔から好きだった。あまり聞き馴染みがない名前ではあるが、お母さんが、私の生まれた日の夕焼け空が綺麗だったからとつけてくれた名前だ。もうこの世にはいない母がくれた宝物を、今日友達になったばかりの男の子に呼んでもらって、私の胸はかつてないほどに震えていた。
震えて、嬉しくて、もしかして夢なんじゃないかって思ったぐらいだ。目の前で私をまっすぐに見つめている人気者の男の子は、壇上の私を憐れんだりしない。その事実だけで十分だ。

「分かった。私も、紘って呼ぶ」

「ああ。なんかあったらいつでも俺を呼んでくれよ。夕映の悲しい気持ちをすべてわかってあげられるわけじゃないかもしれないけど……その、話し相手ぐらいにはなれるから」

ああ、こんなにも今日の空は澄んでいたんだな。
気づかなかった。母を失って自分の足で立っているだけでも精一杯で、新しく始まった高校生活にうんざりしていた今朝、夕方の私がこんなにも心すくわれた気分になっているなんて。
それもこれも全部、渡井紘のおかげだった。




私と紘は、高校生活を共にしていくうちに自然と互いに打ち解けるようになった。高校1年生の秋、紘の方から告白をされて、私たちは正式にお付き合いをすることに。周りの女の子たちからは、人気者の紘と内気な私が恋人になったことで、多少攻撃的な視線を向けられたが、紘が私を庇ってくれた。
そのうち誰も私たちのことを変な目で見ないようになり、私たちはお互いのことしか見えなくなっていた。

「夕映ってさ、映画が好きなんだよな」

12月になり、本格的な冬がやってくると、私たちはいつも身を寄せ合うようにして学校から帰宅していた。紘はあれだけ部活動見学に行ったのに、結局部活には入らなかった。聞くところによると、最初から部活に入る気はなかったそうだ。ただ私を誘い出すきっかけにするために、一緒に部活見学に行こうと言ったのだと、後から知らされた。私ももちろん帰宅部だから、放課後には二人で帰宅部の活動をするのが日課になっている。

「え、うん、まあ。といってもそんなに詳しいわけじゃないよ。何が好きかって言われたら、例えば読書とか音楽とかに比べたら映画が好きだってだけで」

「そっか。クリスマスにさ、映画見に行かない? 俺、気になってる映画があるんだ」

「うん、いいよ。楽しみ」

紘がクリスマスに私を誘ってくれたのが嬉しくて、映画だってなんだって良いと思った。紘と並んで歩く帰り道は冬の日だって寒くない。かじかんだ手のひらを、紘の手にそっと重ねる。紘はいつでも私の手をぎゅっと握り返してくれた。
まるで、私と絶対に離れないと言ってくれているようだった。


来るクリスマスの日、私は紘と待ち合わせをして繁華街の映画館にやってきた。街はイルミネーションの光と華やいだ恋人たちの声に包まれて、否が応でも気分は最高潮に達していた。
これから見ようと思っている映画は、青春ラブストーリーだ。紘がラブストーリーに興味があるとは思ってもみなくて私は驚いた。ポップコーンとジュースを買って二人で映画の席に着くと、本当にデートをしているんだな、と実感させられる。今までは公園で話すとか学校から一緒に帰るとか、高校生らしい遊びしかしてこなかった。今日が初めてのデート記念日かもしれない。

やがて映画が始まると、私も紘もお互いのことなんて忘れたように食い入るように画面を見つめていた。映画は、余命いくばくの男の子と、死ぬことができない身体に生まれてしまった女の子の、切ないラブストーリーだった。ファンタジックな設定が入っていたが、母のことを思い出して感情移入してしまい、私は終始ハンカチを握りしめていた。映画が終わった後、涙でぐしゃぐしゃの私の顔を見て紘が、ぷっと吹き出した。それから、わしゃわしゃと頭を撫でてくれて、「夕映は感受性が豊かだな」と優しい顔で言った。私はこっくりと頷いて、今隣に紘がいてくれることの喜びを全身で噛み締めていた。

「さっきの映画じゃないけどさ、俺、たぶん死ぬまで一生夕映のこと好きだと思うわ」

映画の後、カフェで二人で夜ご飯を食べている際に、紘が真顔で私にそう告げる。一生、という言葉が意味するところを考えた私は全身が熱くなるのを感じた。付き合いたての高校生カップルが甘いことを言っているだけかもしれない。でも、紘の言葉は誰の言葉よりも私の胸を熱くし、心を溶かしていく。私はもう一人じゃないと言ってくれているようで、心の底から嬉しかった。紘は、大好きだった母を失い、家族を失った私が、たった一つだけ見つけた光だ。

「私も、一生紘のことが好き。たとえおばあちゃんになっても、しわしわの手で紘と手を繋いでいるよ」

「じゃあ俺も、しわくちゃの手で握り返すから」

二人して、しわしわだとかしわくちゃだとか言いながら笑い合う。聖なる夜は一秒、また一秒と過ぎていく。あの日、母がいなくなって泣いていた日、半年後の自分が、愛しい人の前で笑えるようになるなんて思ってもみなかった。




私と紘は、高校1年生のクリスマスの日の約束通り、高校を卒業しても、社会人になっても、ずっと好き同士でいた。20代後半に結婚をし、私は渡井夕映になった。紘からプロポーズされた時は嬉しくて、こんな幸福が自分の人生に訪れるなんて夢のようだと思った。きっと天国から、お母さんが私にプレゼントをくれたのだと思う。
紘との間に、残念ながら子供はできなかったけれど、私は子供よりも紘と二人でいられる時間の方が大切だった。紘と一緒に歳を取れるなら、これ以上嬉しいことはないと思っていた——。

**

ピピ、ピピ。
規則的に鳴る電子音は、いつも私の頭の中で鳴り響いていた。幻聴でも聞こえるくらい、何度も聞いていた音だ。私をこの場に縛りつける、呪文のようにも聞こえるそれは、今日、鳴り止むことになる。
長かった、と過去を思い返しながら大きく息を吐く。
しわのない、自分の両手のひらを見つめ、この手を握ってくれた男の子のことを思う。母親を亡くして、怖くて震えていた私を、光の世界へと連れ出してくれた彼のことを。彼のことを思い出すと今でも胸が切なく締め付けられた。
窓の外を見ると、いつかの春と同じ、澄んだ青色の空が神様みたいに私を見守ってくれていた。

**

自分の身体が、普通とは違うのではないかと気づいたのは、30歳になった頃だ。

「夕映はずっと若々しくていいな。俺なんか最近体力が落ちてきてさあ。夜中まで残業とか絶対ムリだわ!」

肩を回しながら夜遅くに仕事から帰宅した紘が、大きなため息をつく。でも次の瞬間には、私の作った大好物のハンバーグを前に、目を輝かせるのだから高校生の頃からちっとも変わっていないように見える。

「そうかな? あんまり考えたことないけど、普通じゃない?」

「いやいや、普通じゃないって。目尻にしわとか一つもないし。俺なんかほら、しわもくまもこんなにあるぞ」

笑い話のように私に顔を近づける紘を見て、私はおかしくて吹き出した。でも確かに、私は高校生の頃から身体の老いを感じていない。学生時代の友達からも、どこのサロンに通っているだとか、どのスキンケア用品を使っているだとか、アンチエイジングの話についていけない私を見て、「夕映は肌も綺麗でハリがあっていいわよねえ。悩みなさそう」と言われたのはつい最近のことだ。

そればかりではない。
体力も、気力も、10年前から少しも変わっていないことに気づいた。
私ってこんなに体力がある方だったっけ——と気のせいのように思っていたことも、40歳、50歳を過ぎればさすがにその異常さが分かる。私の身体は、歳を取らない。病院に行っても、医者たちは皆頭を悩ませた。原因不明ですね。現代医学で解明されていない私の身体の症状に、興味津々の医者や研究者たちが次々と声をかけてきた。私は、そんなバカな、と自分の運命を笑った。

「なあ、昔一緒にクリスマスに映画を見に行っただろ」

窓の外でシンシンと雪の降る、幻想的な夜だった。
還暦を迎えた紘は、昔を懐かしむように目を細めてそう言ってきた。ここ数年で、紘は一気に老けたように思う。顔にできたいくつかのシミや白く染まる髪が、私たちが共に過ごしてきた時間を思わせて愛しかった。と同時に、どうして自分はこんな子供の姿のままなんだろうと、胸が疼いた。

「ええ、見に行ったわね。懐かしいなあ」

紘が言う映画とは、高校1年生のクリスマスのデートで見た映画のことだ。細かな内容は忘れてしまったけれど、二人で見た初めての映画だったから、映画を見た思い出はずっと心に残っている。

「あの時さ、俺思ったんだ。もし自分が誰かのために命を使えるなら、それほど嬉しいことはないって」

紘はどうして、いつもそんなふうに他人のために生きられるんだろう。
私は自分の悲しいこととか辛いことからどうやって逃れたらいいのかって必死に考えていたのに。
私は……怖い。自分の命がなくなってしまうことが。逆に、終わりがないと思ってしまうことが。歳を取らない私の身体は、もし紘がこの世からいなくなってしまっても、孫ぐらいの世代の子たちが歳をとっても、一生このままなのかもしれない。最後に訪れる圧倒的な孤独を思うと、私は紘に縋り付かずにはいられなかった。

「紘は、すごいね。私は怖くて怖くて身体が裂けそうだよ……っ」

紘の温もりを感じたくて、私は精一杯身体を震わせて泣いた。紘は予想通り、「大丈夫だ」と私を抱きしめた。大丈夫。大丈夫だ。私は不死身じゃない。ただ身体が衰えないだけで、寿命はいつかくるのだ。紘と同じくらいの時に。紘と同じ時間の流れの中で。
私は命を燃やすんだ。

「俺たちはずっと繋がってるから。だから夕映を置いていったりしない」

紘の優しい言葉が、いつだって私の胸を貫く。私は震える身体が、いつしか落ち着いていくのが分かった。紘の温かい手が、私の背中を包んでくれていたから。私たちは、行き先の分からない運命の列車の屋根に乗って、振り落とされないように必死で二人、繋がっていた。

***

「それでは今から、渡井紘さんの臓器摘出手術を行います」

医者が私の目を見据えて、はっきりとそう告げた。私は唇を噛み締めてしっかりと頷く。ここで迷ってしまえば、医者だってきっとやりにくいだろう。最後まで、私はまっすぐにこの老爺を——渡井紘を、見つめていた。

紘が交通事故に遭い脳死状態になったのは、今から5年前のことだ。ちょうど紘が、「もし自分が誰かのために命を使えるなら」と私に伝えてきた日の翌日のことだった。
紘は勤めていた会社で、最後の出勤を終えた帰りだった。横断歩道を渡っている最中に、道でつまずいてしまったらしい。ちょうど青信号が赤に変わる瞬間の出来事で、体勢を崩した紘の姿が、乗用車の運転席から見えなくなったしまったのは、仕方のないことかもしれない。
車と衝突した紘の身体は一回転し、地面に落下した。打ちどころが悪く、何日も意識が戻らない中、医者から「脳死です」と告げられた。
目の前が真っ暗になって、私の世界から再び光が失われた。茫然自失状態でお見舞いに通い続ける日々。私はこの人の妻なのに、周りから見れば孫にしか見えないのだろう。かわいそうに、と噂する声がいくつも耳に響いた。そのどれもが、私の胸を通過し、過ぎゆく季節と共に過去へと押し流されていく。


あれから5年。
一日も欠かすことのなかったお見舞いを、私はついにやめることにした。きかっけは一週間前の夜に降った雪だ。暦の上ではもう春なのに、ちらちらと降る雪を見て、思い出したことがあった。


もし自分が誰かのために命を使えるなら、それほど嬉しいことはない


あの言葉は、私のために一生の命を使うという意味なのだと思っていた。もちろん、そういう意味もあるのだろうけれど、チューブに繋がれてかろうじて命を繋ぎ止めている紘を見ていると、違う意味にも思えてきたのだ。

私は、昔自分の母が心臓移植を受けられずに亡くなったことを紘に話したことを思い出す。紘はきっと、誰かのために命を使いたいと思っている。臓器移植について、これまで考えなかったわけではない。でも私の心がそれを拒否していたのだ。紘を失えば、私はまた一人になるのだと。いつまで続くか分からない自分の命と、向き合わなければならなくなると。

私は、夢中になって紘の部屋の中を漁った。
机の引き出しの奥、クローゼットの中、ベッドの下を漁り尽くした。
そして、ようやく見つけた「臓器提供意思表示カード」を見ると、すべての臓器を提供する意思表示がされていた。

「やっぱり、紘はすごい」

私が愛した男の子は、他人のために命を使える人だ。
私の目に狂いはなかったんだ。

私は、臓器提供意思表示カードを持って、医者に紘の臓器移植をするという決断を示した。契約書類にサインを施すと、手術はすぐに執り行われることになり、今日、私は紘を手術室へと見送った。
紘のしわがれたまだ温かい手を、最後にそっと握る。

「え?」

気のせいだと思う。だけど、紘の手が私の手をぎゅっと握り返してくれたような気がした。
堪えていた涙が一気に溢れ出して、私は自分の目を擦る。泣いていたらきっと紘に心配をかける。私はもう子供じゃない。前も後ろも見えなくて泣いていた高校生の私じゃない。
大丈夫。私は一人でも、この先を生きていくから。

電子音はもう聞こえない。
紘の命の終わりに、誰かの命の再生に、私は一人、祈りを捧げる。


【終わり】