「どうしてっ……、どうして!」
 ――忘れていたのか。
 苦しくも、大切で愛おしい記憶を。
 森の屋敷を見た瞬間、全ての記憶が戻ってきた。
 博士と過ごした日々、大好きな庭のバラ園とティータイム。つぎつぎと溢れる欲望、それに身を任せて博士の後を追って目にした真実。自分がヒューマノイドだと知った日は、最愛の人からの愛が自分のものではなかったと絶望した日でもあった。
 屋敷を出ていったあの日の気持ちも、ランチボックスに入っていたサンドウィッチとジャムクッキーの味も、添えられた手紙の角ばった文字も全て思い出した。
 隙間風の正体は、忘れてしまった最愛の人だった。
 そして今、ロザリーは未だかつてない興奮を覚えていた。
 ――博士に、会える。
 博士に会い、変わった自分を見てほしい。今度は、恋人の代わりではない新しい自分を。

 しかし、ロザリーの興奮は、屋敷を目の前にした瞬間、絶望に変わる。
 屋敷には人の気配はなく、蔦が蔓延りレンガは黒ずんで、記憶の中の美しい面影は一つも残っていなかった。その外観から、誰も住んでいないことは一目瞭然だ。
「そんな……、嘘よ……」
 ロザリーは頭の中で記憶を辿る。一体自分はこの屋敷を出てからいくつ冬を超えたのだろうか、と。しかし、すでに数えきれなくなっていた。各地を点々とするあまり、自分が年を取らないヒューマノイドであることも、人間が年を取ることもすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていたのだ。
 屋敷の扉は硬く閉ざされていた。ドアノブはピクリともしない。玄関ドアの窓から中を覗いたロザリーは、息を呑んだ。
「私……?」
 ロザリーが住んでいた時にはなかった、彼女の肖像画が玄関ホールの壁にかけられていた。その下のプレートには、『愛するロザリー』と刻まれていた。
 さっき街の人がロザリーを見て驚いたのは、これのせいだったんだと焦る頭で理解する。
「博士! いるんでしょ⁉ 私よ、ロザリーよ!」
 無駄だとわかっていながら叫んでドアを叩く。すると、カチャリと鍵が回ったような金属音が聞こえ、ロザリーはドアノブに手を掛けた。どういうことだろう、さっきはびくともしなかったそれが今度は簡単に回った。


 静まり返る屋敷の中、ロザリーが真っ先に向かったのは博士の部屋。室内を見渡したロザリーは、ふとデスクの引き出しが少し空いていることに気づき手をかける。するとそこには一冊の本があった。表紙には「diary」と箔押しがされていた。ロザリーは、ほんの少しの後ろめたさを感じながらも、それを開いた。


52年9月6日・晴天
最愛の人を見送った。
約束も守れなかった。
こんな情けない僕を、どうか許してほしい。

 1ページ目に記されたその日付は、ロザリーが屋敷を出ていった日。その日から毎日ではないものの、時々角ばった文字が綴られていた。1ページずつ、ロザリーは丁寧に読み進めていく。

52年11月30日・曇り
ロザリーは元気にしているだろうか。
食べることさえやめなければ、シャットダウンすることはないからきっと大丈夫だろう。
きみが愛したジャムクッキーだけは欠かさず作っている。
きみがいつ帰ってきてもいいように。

53年12月25日・雪
メリークリスマス、ロザリー。
サンタクロースはやってきかい。
暖かい冬を過ごせているといいのだが。

56年9月6日・雨
思い出すのは、亡くなったかつての恋人ではないきみのことばかり。
変わり始めたきみが、愛しくて仕方なかった。
亡くした恋人への背徳感から、きみを否定するような言葉をぶつけてしまった。
きみに会いたい。きみは今、どこでなにを見ている?

「恋人じゃない、変わり始めた私……?」
 綴られている言葉は、全てがロザリーに関してのものだった。
「博士は、ちゃんと()を見てくれていたの……?」
 始めは、亡くなった恋人への言葉だと思いながら読み進めていたが、そうではないことが言葉の端々から伝わってきて、後悔が押し寄せた。
 そして、時が進むにつれて、博士の言葉も後悔に変わっていった。

67年2月17日・快晴
そろそろ、僕のことを忘れた頃だろうか。
ロザリーがここを出ていくと決めた日の夜、僕の記憶だけが徐々に消えるようシステムを書き換えた。きみの足枷にだけはなりたくなかったから……。
だけど僕は、そのことをずっと後悔している。

 ロザリーが博士を忘れてしまったのは、博士のせいだった。
「そんな……ひどい、あんまりだわ……っ」
 嘆いても、時間はもう巻き戻らない。

70年10月12日・曇り
こんなにも、きみの居ない世界は、酷く色あせて退屈でいて、そして苦痛でしかない。
ロザリー、愛している。会いたい。

「わた、しも、よ博士……愛してるわ……、私も、会いたい……っ」
 もう何十回、何百回と日記の中で目にした博士の愛に応えたロザリーのつぶやきは、陽の光に溶けていく。気づくのも、思い出すのも、帰ってくるのも、言葉にするのも、すべてが遅すぎた。
 ぽた、ぽた、と日記に水たまりができた。雨が降ってきた、とロザリーは思ったが、違う。視界もぼやけるその初めての感覚に、指を目に当てれば指先が冷たく濡れた。
「どうして……」
 ヒューマノイドの自分が涙など流すはずがないのに、一体どういうことだろう。ページをめくる内に、ロザリーは涙の真相を知る。

72年9月6日・曇り
僕もすっかり年老いてしまった。
きみは涙を流せただろうか。
ずっと涙が出ないと不思議がっていたね。
出ていくと言ったあの日の夜、きみに内緒でプログラムを追加したんだ。
きみの心がとてつもない悲しみか喜びを感じた時、それは流れるよ。
その時、きみは何を思って涙するのだろうか。
願わくばうれし泣きであることを祈る。

「うっ……ううぅ……」
 ――博士、あなたのことを思って、悲しくて泣いているわ。
 嗚咽で、言葉にはならない。
 胸が、張り裂けそうだった。

85年3月25日・雪
ロザリーを作ったことを後悔はしていない。
だけど、死期を目の前にした今、きみの元気な姿を最後にこの目で一目見れないことだけが心残りだ……。
きみを愛している。きみは、僕の最高傑作にして最愛の人だ。
どうか……、どうか、きみが幸せでいることを心から祈っている――

 その日を最後に、日記は途絶えた。

「うそつき……っ……博士が私を幸せにするって約束したのに……」

『僕は、きみをいつだって幸せにすると約束しよう』
 昨日のことのように思い出せる、ティータイムの約束。
 涙が止まらなかった。胸が痛い。心が壊れそうだ。そう思った時、

「やぁ、お帰りロザリー、紅茶を入れたから休憩しないか」

 悲しみに暮れるその空間を切り裂くかのように、その声は響いた。
 取り戻した記憶の中と同じ博士の声。振り向けば、部屋の入口に彼が立っていた。

 ――あの時(・・・)と変わらぬ姿で。
「僕を呼ぶきみの声で目が覚めたよ。きみを驚かせようとあれこれ用意していたら遅くなってしまった」
 何ごともなかったかのように話す博士に呆気にとられるロザリー。驚きのあまり涙はぴたりと止まった。そして、その顔は次第に綻び始める。
「も、もちろん……ジャムクッキーは、あるわよね……?」
「あぁ、もちろんだとも。この僕が、きみとの約束を破るわけがないだろう?」
 ロザリーは、あの時と同じ、バラよりも美しく可愛らしい笑みを浮かべて博士の胸に飛び込んだ。