52年9月6日・晴天

最愛の人を見送った。
約束も守れなかった。
情けない僕を、どうか許してほしい。

        ー博士の日記よりー



 とある国に、稀代の天才と呼ばれる博士がいた。しかし、最愛の恋人を病で亡くし、喪失感に耐えかねた博士は森の中へと移り住んだ。そして、博士はその類稀な才能を活かし、恋人と瓜二つのヒューマノイドを造り上げた。ロザリーと名づけられた。亡くなった恋人と同じ名前だった。博士は、恋人の記憶を組み込んだヒューマノイドと二人、森の中の屋敷で静かに暮らしていた。

「やぁ、ロザリー、紅茶を入れたから休憩しないか」
 敷地の一角、美しいバラが咲き誇るガーデンで、庭仕事に没頭するロザリーに博士が声をかけた。ガーデニングは、ロザリーの生前の趣味だった。
「ありがとう、博士。今行くわ。もちろん、約束のジャムクッキーはあるわよね?」
 立ち上がった彼女は振り返る。降り注ぐ陽の光が、ロザリーの美しい顔を照らしている。その様を、博士は愛おしそうに目を細めて見つめた。
「あぁ、もちろんだとも。この僕が、きみとの約束を破るわけがないだろう?」
 紅茶には必ずジャムクッキーを。二人の約束だった。茶目っ気に言った博士を、ロザリーは笑った。咲き誇るバラよりも美しく可愛らしい笑顔だと、博士はいつも思う。

「博士の作るジャムクッキーが一番だわ」
 椅子に座るよりも早く、テーブルの上のジャムクッキーをつまんでロザリーが言う。天気のいい日は、庭先に置かれたガーデンテーブルでティータイムを過ごすのが日課でもあった。
「お菓子作りは化学反応だからね。僕の得意分野さ」
「博士みたいなデキる恋人を持って、私は幸せ者ね」
「きみのためなら僕はケーキ職人にだってなれる気がするよ」
「あら、研究が天職だって言ってたのは誰かしら? 今だって没頭すると私の声も聞こえなくなるくせに」
 博士は森の屋敷に居を移した後も、以前所属していた研究所からの依頼を細々とこなして生活のためのお金を稼いでいた。
「そ、そうだったかな……」
 たじろぐ博士を、優しいまなざしで見つめるロザリー。森の中の屋敷に暮らす彼女にとって、博士は唯一の存在だった。彼女は、それを寂しいと思ったことはない。博士から注がれる愛で満たされていたから。
「冗談よ。博士はどんなに小さな私の言葉も聞き逃したことはないわ。博士のおかげで私はいつも幸せなの」
 ――そう、二人は幸せだった。
 森の中、愛し合う二人が過ごす時間は、静かで穏やかでいて、この上なく幸福だった。
「あらやだ、また泣いているの?」
 紅茶も飲み終え、ジャムクッキーも残りが少なくなってきたころ、ふと見れば博士は涙ぐんでいた。ロザリーは呆れ半分、愛しさ半分の顔を向ける。
「ごめん、きみが幸せなのが嬉しくてつい」
「――どうして、私は涙が流れないのかしらね? 私も博士が幸せで嬉しいのに」
 博士ばっかりずるいわ、とロザリーは口をすぼめる。拗ねた時の彼女の癖だ。
 ロザリーには、亡くなった恋人の記憶が組み込まれていたが、自身がヒューマノイドだということは認識させていない。だから、博士が泣くのを見る度に、彼女は不思議がった。
「前にも言っただろう? きみは闘病で苦しんだ時、涙を流し過ぎたから涙が枯れてしまったんだ」
「その闘病の記憶が曖昧なのだけど」
 恋人の経験した辛く苦しい記憶は、ロザリーには入れなかった。彼女に辛い記憶を思い出してほしくないという博士の願いからだ。
 記憶が曖昧なのは、長い闘病のせいで混乱したのだと言い聞かせていた。
「記憶が錯乱するくらい、辛かったんだ……、思い出す必要はないよ。それに、これから先、きみには涙を流すことなく生きてほしい。僕は、きみをいつだって幸せにすると約束しよう」
「本当ね? 破ったらただじゃおかないんだから」
 果たせなかったかつての約束を思い出し、博士の目からはまた涙が零れた。