「あ、みかんちゃん」
「……っ。こんにちは」
桜の舞う季節、わたしたちははじめて直接言葉を交わした。
合ってるよね? と彼が見せてくれたのは間違いなくわたしのインスタグラムのアカウントだった。
SNS上で知り合って、メッセージのやり取りで仲良くなったから実際にあうことにした。
正直顔も知らない人とあうことに不安もあったけど、彼がくれた言葉たちはどれも温かくてどうしても悪い人だとは思えなかった。
「もう知ってると思うけど樹です」
「はじめまして、ゆずです」
わたしの名前を聞いた瞬間、彼は納得したような顔をして優しく微笑む。
「なるほど。ゆずだからみかんなんだね」
「あ、そうそう!」
ゆずは柑橘類で、その代表であるみかんをインターネットの名前で使うことにした。
樹は名前をそのままアカウント名にしていたから元々知っていた。
「じゃあいこうか」
彼の言葉に頷き、わたしたちはカフェへ足を運んだ。
そこで、わたしたちは何時間も他愛のない話を続けた。
ほとんどわたしが話して、彼は時々質問を挟みながら真剣に聴いてくれていた。
「ゆずって想像通りの子だね、明るくて元気!」
「ほんとに? うれしい!」
直接話したのははじめてなのにすごく居心地がよかった。
話せば話すほど会話が盛り上がった。
この日を境にわたしたちは毎週このカフェであって話すことにした。
「え、今日は水族館連れてってくれるの?
カフェじゃなくていいの?」
いきなりチケットを渡されて、うろたえたのが表に出ていたみたいだ。
彼は少し焦りを感じていた。
「あれ、もしかして嫌い?」
「ううん。そんなんじゃないよ」
しっかり否定してから彼の隣を並んで歩く。
ちがう。嫌いとかじゃない。
ただ、水族館なんて、まるでデートみたいじゃないか。
そう思ったらいつもより意識しまって、歩くペースが少しはやくなってしまっていた。
「この魚、めっちゃかわいい!」
「あぁ、これはね……」
樹はどうやら魚の名前に詳しいらしく、わたしがはしゃぐ度にこの魚はどんな種類だとかどういうところに棲んでいるとか色々細かく教えてくれた。
好きなものを目にした彼の顔はいつもより眩しく見えて、キラキラしていた。
そんな横顔をみていたら、つい思ったことを口にしちゃった。
「こういうところは恋人ときたほうがいいんじゃない?」
わたしにとって単純な疑問だった。
でも、彼は見たこともないくらい哀しい顔をして視線を落とす。
「……俺はもうだれのことも好きにならない。
もう恋なんてしないってあのとき決めたから」
「……うん。ごめんね、変なこときいて」
視線が合わない彼が泣いてるように映った。
これ以上踏みこんでしまったら、わたしは絶対辛い想いをする。
わかっていたけど抱きしめようとする手を止めることができなかった。
あのときとはいつだろう。
前にインスタグラムのライブ機能を使ってフォロワーさんに話していた好きな人を亡くしたことと関係あるのだろう、きっと。
『俺は、伝えたいことを伝えられなかった。
だからみなさんは伝えたい人には自分の想いを絶対伝えてください。
手遅れになる前に』
彼の言葉が頭をよぎった。
「ねぇみて! 髪切ったんだ!」
次にあうときは、イメチェンしたわたしをみせたいと思ってずっと伸ばしてた髪を半分くらいまで切った。
いわゆる、ミディアムというやつだ。
「どう?」
似合うよって嘘でもいいから言ってほしかった。
その場だけの言葉でいいから褒められたかった。
そのためにいちばんに見せにきたっていうのに。
「え、どうしたの?」
いまにも泣き出しそうな顔をしていた。
彼の双眸はわたしじゃなくて、まるでわたしを通して他のだれかをみているようだった。
ハッとした彼がなんでもない、と軽く頭をふる。
嫌でも察してしまった。
前言ってた好きだった人の髪の長さがこんくらいだったのかもしれない。
重ねてみえたのかもしれない。
「えっと……わたしバカだからさ、いま見たこととかは寝ればすぐ忘れる。
だから泣いていいよ。強がらなくていいよ」
両手を広げると、ゆっくり距離が近づき肩にトンと頭が乗っかった。
さするように背中を撫でた。
「ごめん」
「んーん」
彼はわたしの腕の中でしばらく泣き続けた。
似合ってるよ、と小さく呟いたのが聞こえたのはわたしの気のせいだったのかもしれない。
あぁ、どうしよう。
わたし、樹のこと好きだ。恋をしない彼を好きになったって辛いってわかってるのに。
彼の弱さを見るたび、わたしが寄り添ってあげたいって思うようになっていた。
「あのさ、俺、ずっと言えなかったんだけど……忘れられない人がいる。
もう一年も経つのに、もうどこにもいないってわかってるのに忘れられない」
「うん」
彼が泣き止んだあと、いつものカフェに行って、コーヒーを混ぜながらぽつりと話し出す。
インスタライブにはこっそり潜っていたから、何となくはわかるが、はじめて彼のほうから自分のことを話してくれてわたしはうれしかった。
少しの嫉妬はあるけれど。
「ゆずには迷惑ばかりかけてる気がする。
でも、ごめんけどゆずをみてると余計に想い出す」
わたしとその子になにか共通点でもあるのかな。
迷惑を感じたこともないし、好きな人を亡くして立ち直れるなんて思ってない。
忘れられるはずがない。
だから、べつに樹の感情はおかしくない。
「無理に忘れる必要なんかないよ」
「え、」
「むしろ忘れないであげてほしい。
それにね、すごいことだと思う。
そんだけひとりの人のことを大切に想えるの」
にっこりと笑うと彼はその言葉に目を開いていた。
そして、いきなり下を向く。
「なんできみはいつも……」
うまく聞き取れなくて、もう一度訊くと「なんでもないよ」とわたしの瞳をみながらつくり笑いをした。
今日はなぜか小さな花束を手に、樹は待ち合わせ場所にやってきた。
「そのお花どうしたの?」
わたしの問いかけにはスルーで黄色で鮮やかなひまわりの花束が目の前に差し出された。
頭の中がはてなで埋め尽くされる。
「彼女になってほしい」
「へ?」
いきなりの告白に思わず素っ頓狂な声が出た。
「俺、気づいたらゆずの存在にたくさん救われてる」
「え、でも……なんで、それにわたしでいいの?」
うれしいという想いよりも困惑が大きかった。
もう恋愛をしないって言っていたのに。
前、話したことでふりきれたってこと?
「無理に忘れなくていいって言われて心が軽くなったんだ。
いまはゆずにそばにいてほしいって思った」
まっすぐ見つめる彼の目には迷いはなかった。
すべてに納得したわけじゃないし、好きって言われてないのに付き合うのはどうなのかなって思う。
でも、そんなことよりわたしは樹が好きだから。
わたしは差し出された花束を受け取った。
「ありがとう。うれしいです」
お互いはにかむように笑った。
「オムライスめっちゃおいしそー」
今日は隣町まで遠出して、お互い好きなオムライス専門店へランチをしにきた。
目の前にはオムライスとスプーン。
変わっていると思うが、わたしはオムライスやカレー等のご飯系はいつも箸で食べていた。
金属同士の擦れる音がどうしても苦手なのだ。
でも、スプーンで食べられないわけじゃない。
仕方ないとスプーンを手に取ろうとすると、樹が気がついたように声をかけてくれる。
「あ、ゆずは箸ほしいよな?」
すみませーんと言って店員さんにわざわざ箸を頼んでくれた。
少ししたら目の前に箸が届く。
「わたし、樹のことだいすき」
こうやって些細なことにも気づいてくれる、そういう優しさも全部好き。
一緒にいるだけで幸せだ。
急に言われたから照れ隠しなのかそっぽを向く。
「なにきゅうに」
「いや、べつに!」
「俺も……だいすきだよ」
何回言われても樹からの好きには慣れないな。
にやけるのを必死で抑えながらオムライスを口に運ぶ。
樹は彼氏になってからちゃんと好きだって言葉でも態度でも伝えてくれている。
わたしのことをいちばんに考えてくれてるのが痛いほどわかる。
でも、時々思ってしまう。
樹はきっといまでも前言ってた子のことを好きだと思う。
結局わたしは彼の中で2番目なことには変わらない。
敵わないってこともわかっていた。
わたしは一生あの子を越えられない。
勝ち負けじゃないのは理解してるけど、亡くなった人には生きてる人がどうがんばっても勝てるわけがない。
亡くなった人ってどうしても美化されてしまうから。
想い出には勝てないよ。
「いちばんはいまでもあの子なんでしょ?」
聞くべきじゃなかったのに。
勝手に期待した。
わたしがほしい言葉を引き出そうとした。
投げ捨てるように吐いた言葉に、彼は少し黙って肯定も否定もしなかった。
「じゃあ俺と彼女のこと全部話すから聴いてよ」
「……うん」
ゆっくり過去を話し始めた。
最初はなんとも思ってなかった。
ただ相手の好意に甘えていただけだった。
悪く言ってしまえば遊びの関係に近かった。
週末はA駅で待ち合わせ。
夜は毎日数分だけ通話。
連絡は毎日取り合った。
彼女の家が厳しかったため、たくさん連絡ができたわけじゃなかったけど、彼女はできる時間をすべて俺に捧げてくれていた。
恋愛感情として好きなのかはよくわからなかったけど、椎奈の隣は心地よくてすごく落ち着いた。
常にポジティブ思考で、話していてとてもたのしかった。
椎奈の笑顔をただずっと見ていたかった。
「樹くん。樹くんだけには迷惑かけたくないな」
最期に椎奈とあった日。
最初からどこか上の空でおかしいと思ってたけど、それが確信に変わったのは別れるときに発した言葉だった。
「大丈夫。迷惑とか思ったことないよ」
いま思えば、あの言葉は彼女なりのSOSだったのかもしれない。
ポジティブ思考だと思っていたのは勘違いで、ネガティブなことを言わないようにしていたのかな。
ほんとはたくさん辛い想いして溜めこんでいたのかもしれない。
「またあえる?」
「またあえるよ! あたりまえじゃん!」
そう答えると彼女が泣き出した。
いままで一度も涙を見せたことなんてなかったからすごく困惑した。
きっともういろいろと限界だったんだよな。
「うん……またね」
椎奈の手がゆっくりと離れていき、背中を見送ったあと、俺も家へと向かった。
その日の夜だった。
警察から椎奈が亡くなった、と連絡がきたのは。
最期にあっていたのが俺だったから、色々話を聞かされた。
おそらく自殺、だと。
頭が真っ白になった。
涙が勝手に零れていた。
いままで感じたことない絶望だった。
行き場のない想いをどこにぶつければいいのかわからずに部屋の中をめちゃくちゃにした。
そして、いまさら。
いまさら気がついたんだ。
いちばん大事なことに。
俺、椎奈のこと好きだったんだ。
ほんとに大好きだった。
いや、いまでもどうしようもないくらい好きなんだ。
もうあえないのに。
あって話すこともできないのに。
彼女の声が、笑顔が、脳裏をうめきって仕方がない。
好きってたった2文字すら伝えられなかった。
家族のこと、家の場所とかはよく知らなかったからお葬式にもいけなかった。
ちゃんと最期のお別れができなかった。
そのとき、誓った。
もう恋愛はしない。
椎奈以上にだれかのことを好きになることはこの先ないって思った。
たった2ヶ月だったけどすごく濃い時間を共にした。
その濃さと想いはだれにも越えることはできない。
「これが……俺の後悔」
自然とお互いの瞳から涙が零れ落ちていた。
涙で視界は揺れまくっていて相手の顔さえ上手く見えない。
こんなに深く辛い過去だったなんて思わなくて、なんて声をかければいいかわからない。
喉になんかがつっかえたみたいに言葉が出てこない。
「こんなこと言ったら嫌だと思うけどしーなとゆずの性格とか見た目がすごく似てて、だからこそゆずがなにか抱えてないか心配だった」
「え……」
「愚痴でもなんでも聴くからどうかひとりで全部抱えこまないでほしい。
もしなんかあるなら俺が必ず聴くから」
「……わ、たしは大丈夫だよ?」
「それは大丈夫じゃないときに使う。
それくらいはわかるよ。
まだ4ヶ月とかしか一緒にいないけどちゃんとゆずの考えすぎな性格とかもわかってるつもりだから」
じゃあ、わがまま言ってもいいのかな?
ううん。
わたしだけをみて、そんなこと言えるわけない。
わたしのことみて椎奈ちゃんのことを想い出さないで、
わたしだけを好きって言って、
椎奈ちゃんのことは忘れてよ。
なんて口が裂けても言えない。
いまでもきっと彼の目には椎奈ちゃんしか映ってないのだろうから。
「あ、しーなと似ているからゆずのこと好きになったわけじゃないからな」
「ほんとに?」
疑うように訊いた。
でも、仕方ない。
たまたま見た目とか性格がおんなじだっただけであって、こういう子が樹のタイプってだけだよね。
「うん。俺、ゆずがいたから変われた気がする」
「そっか」
ゆずがいたから。
たとえ、それが偽りの言葉だとしても胸がいっぱいになるくらいうれしかった。
「たのしかったんだ。幸せだったんだ」
「……うん」
樹の記憶にはどんな想い出が刻まれているのだろう。
「しーな……。しーな……」
何度も何度も彼女の名前を呼んでいた。
まるで彼女がそこにいるかのように。
やっぱり彼はずっと彼女のことが好きなんだ。
わたしじゃ代わりにはなれないんだ。
樹はずっとわたしを椎奈ちゃんに重ねていたのかな。
似ているわたしがとなりにいて、余計に苦しくならないのかな。
『願いが叶うってことは過去にも未来にもいけるの?
嘘でも夢があるね!』
ある日、バスの中で偶然、目の前の女子高校生がたのしそうに話してるのが聞こえた。
「あの、すみません。
その話詳しく聴かせてもらえませんか?」
見ず知らずの人に声をかけて知ったこと。
桜の木には桜の妖精さんが宿っていて、願いごとを言うとそれを叶えてくれるのだと。
あくまで噂なので実際はわからないということ。
あと、桜の妖精さんは男の子だということ。
あれ、最後の情報はいらないな。
「あの……時間を巻き戻してください」
だめ元で近くにある大きな桜の木の前にやってきた。
もう秋なので、桜の花は咲いていないから余計にだめかもしれない。
「……弱いね、志が。
ほんとは迷ってるんじゃない?」
「っ!」
一気に眩しい光が広がって目が眩んだ。
そのあと、ほんとに桜の妖精のようなものが出てきたのに対して声も出ないくらい驚いて尻もちをついた。
たしかに見た目は小さくて目がくりくりでお人形さんみたいにかわいいのかもしれないけど宙を舞う奇妙な存在だった。
これが現実だなんて信じられない。
「だれかのために自分の幸せを犠牲にする必要はないよ。
きみは我慢しすぎだ」
「……」
「もう1回決心ついたらおいでよ」
見抜かれたことに対しても吃驚する。
ずっと迷っていた。
だって、過去を変えたらその未来では、樹のとなりにわたしはいないだろう。
でも、彼が望むのは椎奈ちゃんが生きてる世界で。
だけど、わたしは樹と一緒にいたくて。
彼女がいない世界だからこそ恋人になれただけで、彼女がいたらきっと眼中にもなかっただろう。
もう何回目かわからないデートではじめて本音を少しだけ溢した。
あれから桜の木にはいけてなかった。
「わたしね、もうどうすればいいかわからなくて」
なにが正解なのかわからない。
いくら考えても答えが見つからなかった。
「なにを考えてるかはわからないけど、ゆずがしたいことをすればいいんだよ?」
「わ、たしのしたいこと」
頭を撫でながら、いつものように優しく微笑みかけてくれた。
やっぱり樹のとなりは心地いい。
この場所がわたしの幸せだって言える。
じゃあ樹にとっては?
「……ねぇ、もし。もしもだよ。
過去に戻れたらやり直したいと思う?」
「それは……そうだな。そりゃ救けたかったよ。
俺は、しーなのことずっと後悔でしかなかった。
でも、やっと前を向けるようになった。
今度こそ俺は大切で大好きな人の手は離さない」
いままででいちばん力強い声ではっきりと主張した。
ぎゅっと握る手に力がこもった。
もし過去に戻れたら今度こそは椎奈ちゃんの手を離さない、ってことか。
いちばん大好きな人だもんね、当然か。
やっと覚悟を決めた。
わたしのしたいこと、それは彼のしたかったことを叶えることだ。
「樹、わたしは幸せだったよ。
あなたと付き合ったこの2ヶ月間。
めちゃくちゃ濃い時間を過ごせた。ありがとう。
なんもなかったわたしに恋を教えてくれてありがとう」
これが最後になるだろうから。
彼の目を見て泣きそうになるのをグッとこらえて精一杯笑ってみせた。
「え、どうした? ゆず?」
椎奈ちゃんのこともあったから余計に心配しているのだろう。
彼は頑なにわたしの手を離そうとはしなかった。
「なぁ、ゆずはいなくならないよな?」
「大丈夫だよ。わたしは自分で絶対死んだりしないよ。
ちゃんと生きるよ。信じて」
あなたのとなりじゃないところで生きるから。
「……信じるからな」
うん、と彼を心配させないように微笑み返した。
「ねぇ、ちょっと目瞑って?」
「うん?」
これでほんとに最後だから。
心からだいすきと想えた人だったから。
彼の頬に自分からキスを落とした。
照れくさくて唇には到底できなかった。
「はじめてだな。ゆずからのキス」
はずかしくて目を合わせられずにいると、彼がわたしの手を取ってゆっくり唇を重ねた。
心臓が止まるかと思ったくらいびっくりした。
「ありがとう! めっちゃうれしい!」
その満面な笑顔に、最後にキスまでくれたことにもう充分すぎると心の底から想った。
彼女が亡くなる日にちも場所もわかってる。
しかも、直前まで樹とあっていた。
なら、簡単だ。
その日に戻って彼女を止めればいい。
ただ、それだけだ。
そうすれば、樹の後悔は消えて、椎奈ちゃんと幸せになれる。
わたしが身を引けばいいだけ。
わたしの足は自然とあの桜の木は向かっていった。
「そしたらきみと彼は他人で、きっと恋人にはなれないよ?」
桜の妖精さんにいたいところをつかれて思わず苦笑する。
「……わかってます」
彼女がいない世界だったからこそ出逢えて恋に落ちることができた。
だから彼女がいる世界では、きっと出逢えても恋には発展しない。
だって、わたしたちは運命の人でもなんでもないんだから。
「わたしがふさわしいわけないから。
彼に必要なのは椎奈ちゃんだったんです」
悔しいけど、あなたにとってのいちばんはわたしじゃなかった。
わたしじゃだめだった。
彼の心の中に生きている彼女ごと愛することができたらよかったのに。
「20XX年。8月13日。戻ってる。
椎奈ちゃんと別れたのが16時頃、A駅近くの交差点」
スマホのカレンダーを確認しながら、記憶を頼りに呟いた。
交差点まで早歩きで向かうと、樹と椎奈ちゃんが目についた。
ちょうど手をふって別れるところみたいだった。
あの人が樹がだいすきな椎奈ちゃん。
わたしがどうがんばっても勝てなかった人。
たしかに身長や髪の長さはわたしとほぼおんなじだ。
雰囲気だって似ている。
そんなことを考えてると別々に歩き出していた。
だめだよ。あのまま手を離しちゃ!
後悔するよ、一生。
「追いかけて!」
気づいたら彼の目の前まで飛び出して叫んでいた。
そんなわたしを怪訝そうな顔でみてくる。
「は? だれ?」
「椎奈ちゃんをいますぐ追いかけて!
ちゃんと話して! 家まで送ってあげて!」
「なんで」
「泣いてたのは椎奈ちゃんなりのSOSだったんだよ。
話をしっかり聴いて救けてあげてよ」
「なんでそんなこと知って……」
「えっとそれは……とにかく追いかけて。
あの子を喪うことになるよ」
「……わかった」
彼の走る背中を見送ったあと、頬を伝うものがあった。
「……さよなら、わたしの大好きだったひと」
さよなら、わたしの初恋。
もうあなたの未来にわたしはいないんだね。
これでいい、いいんだ。
好きな人には幸せになってほしいから。
これがわたしにできる最期のプレゼントだよ。
気がづくと自分のベッドの上にいた。
慌ててカレンダーで日にちを確認し、戻ってきたことがわかる。
未来は変わったのだろうか。
LINE、Instagram。
一通り探したけど樹の名前はなかった。
彼は椎奈ちゃんが亡くなってからインスタをはじめたと言っていた。
これは未来が変わったってことじゃないか。
桜の妖精さんのところまで走って、声をかけた。
「あの! 未来は変わりましたか?」
「……うん」
ほら、としゃぼん玉のような丸に、樹と椎奈ちゃんが笑顔で手をつないで歩いている映像を見せてくれた。
あぁ、よかった。
ほんとによかった。
わたしの大好きな人が大好きな人のとなりで笑っている。
うれし泣きなのか悲し泣きなのかはわからないけど、ただ涙が止まらなかった。
「……ゆずちゃんはこれでよかったの?
これじゃああまりにも報われなさ……」
「いいに決まってるじゃないですか」
その先を聞きたくなくて慌てて答える。
「桜の妖精さん。ほんとにありがとうございました」
深くお礼を言ってその場を離れた。
最後の最後までわたしのことを心配してくれた優しい子だった。
いいに決まってる。
わたしが自分ひとりで勝手に彼との結末を決めたことなんだから、報われてないとかそんなこと思う資格ない。
なにより、わたしが樹の心に生きている椎奈ちゃんごと受け入れられなかった。
例え、いまは自分に言い聞かせてるだけの言葉であっても、いつかはちゃんと想い出にできる。
樹と付き合ったときの記憶はわたしだけがずっと大切にもっていればいい。
その想い出だけでもう生きていける。
これがゆずちゃんの望んだハッピーエンドか。
ゆずちゃんは気づけなかったと思うけど、彼はほんとに愛してたよ、きみのこと。
おんなじくらいの愛。
いや、もしかしたら椎奈ちゃん以上の愛がそこにあったのかもしれない。
愛してなかったら、あんなこと言わない。
『俺は、しーなを救けられなくて後悔でしかなかった。
でも、やっと前を向けるようになった。
今度こそ俺は大切で大好きな人の手は離さない』
ゆずちゃんは彼女のことだと思ったんだろうけど、その大好きな人の手はきみのことだったんだよ。
だから、きみの手を強く握っていたんだよ。
あのままいけば、彼のとなりにずっといたのはきみだったのに。
そしてこれは彼が書き留めていたゆずちゃん宛ての手紙。
もうすぐ訪れるきみのお誕生日に渡すはずだったのだろう。
『お誕生日おめでとう。
生まれてきてくれてありがとう。
彼女を亡くしてから絶望だった俺にきみはずっとバカみたいに笑顔でまっすぐで優しくて眩しかった。
太陽みたいだった。
俺にとっての希望の光。
いつも助けてくれてありがとう。
俺、ゆずのことだいすきだよ。
ほんとにほんとにだいすきだよ。
もうちゃんと前を向いてる。
ゆずとずっといる未来を想像できてる。
これからもずっととなりにいてほしい。愛してる』
この世界ができたことにより、この想いはもう消えちゃったんだなぁ。
ゆずちゃん、きみは優しすぎたんだよ。
彼のこと想いすぎた。
そんなゆずちゃんだからこそ彼はもう一度だれかを好きになれたんだと思うけど。
時は流れ、ゆずちゃんも運命の人とめぐり逢えたみたいだった。
手を重ね合いながら幸せそうに笑うふたりの姿をたくさんみかけた。
運命の人っていうのは恋愛に限った話ではない。
人は出逢うべき人には必ず出逢える。
「あ、きみは!」
「え……?」
ほらね、出逢えた。
「あのとき、しーなのこと追いかけてって言ってくれた子だよね?
よかったら名前教えてよ」
ゆずちゃんは驚いていたけどうれしそうだった。
彼とまたつながりができた、と言いたそうに。
別々の未来を歩んだとしても、
やっぱりふたりは運命の人なんだよ。



