小竹淳平は、地味で平凡なクラスメイトだった。その日までは。


「似合うね、前髪」

 一つ前の席。先生に配られたプリントを後ろに回すために振り返った彼は、私の髪を見てそう言った。
 それから何事もなかったかのようにまた黒板の方に向き直ってしまう。
 驚いて固まっていた私の肩を、後ろの席の女子がぽんと叩く。慌ててプリントを回したけれど、ほっぺたは赤くなかっただろうか。
 誰にも見られないように下を向いて、こっそり頰を押さえる。

 昨日、前髪を五ミリ切った。定規ではかりながら、ぴったり五ミリだけ。
 なぜそんな面倒なことをしたのかと訊かれれば、好きなアイドルの真似をしたかったからだ。
 でも五ミリなんて実のところ自分でも変化が分からない。
 それなのに、彼は気づいてくれた。友達でも恋人でもない、ただのクラスメイトの男の子。
 その日から、私の中で小竹淳平は、クラスメイトではなく、気になる人に昇格したのだった。


「こ、小竹くんってさぁ、好きな色、何色?」

 いやいや、いくら話すきっかけが欲しいからって……もう少しましなフリがあっただろ。
 自分で突っ込みを入れながら、それでもすでに音になってしまった言葉は取り消せない。
 恥ずかしさのあまり頰が少し熱くなるけれど、きっとバレていないはず。ちょっとだけだし。
 そんなことを自分に言い聞かせながら、小竹くんの答えを待つ。
 きょとん、とした顔で目を瞬かせる小竹くんをじっと見つめて、初めて気がつく。
 ……小竹くんって奥二重なんだなぁ。

「んー。黒かな」
「え、意外。なんかもっと爽やかな色かと思った」
 
 爽やかな色って何色? と訊かれて、考えてしまう。
 つい口から出た言葉だけど、爽やかな色って何色だろう。青だとざっくりしすぎているし、緑……? うーん、違うかな。

「あ! スカイブルーとか!」

 ぱっと思いついた色を言ってみると、小竹くんはぽかんと口を開けた後、くつくつと笑ってみせた。その笑顔がかわいくて、思わず見入ってしまう。
 かわいい、小竹くんってそういう顔で笑うんだ。
 また頰が少し熱くなる。

「好きな色をきかれて、スカイブルーって答えるやつ、なかなかいないでしょ」
「えっ、いるよ、たぶん!」
「じゃあ小宮さんは?」

 ふいに名前を呼ばれて、ドキッとする。
 小竹くんに名前を呼ばれるの、初めてかもしれない。
 やっぱり苗字にさん付けか。もしかしたら名前で呼んでもらえるかも、なんて少し期待してしまった。
 それでも呼んでもらえたことが嬉しくて、緩む口元をバレないように手で隠しながら考える。

「私は……赤かな?」

 小物や洋服を買うとき、つい暖色のものを選んでしまう。その中でも一番好きなのは赤色だ。華やかな色は、気分も明るくなる気がするから。

「ああ、小宮さんは赤、似合うもんね」

 そう言われて私は首を傾げる。
 普段は学校指定の制服だし、校則が厳しいので髪飾りなどもつけていない。
 私に赤色要素あった? と訊くと、小竹くんはちょっとだけ意地悪な笑みを浮かべて、自分のほっぺたを指した。

「顔、赤いよ」
「…………っ! そ、そんなことないもん!」
「あ、授業始まる」

 くるりとマイペースに自分の机に向かってしまった小竹くんの背中に、ぺし、と一撃入れてみる。
 その背中が震えて、また笑っているのが分かったけれど、悪い気はしなかった。
 その日、私は自覚した。
 小竹淳平くんが、好きだって。


 無常という言葉を考えた人はセンスがあると思う。
 受験を間近に控えた私がいうんだから間違いない。ちなみに国語の成績はすごく悪い。思い切り理系に特化した成績をしているので、現代文ですら危うい。
 辞書をぱらぱらめくりながら、参考書とにらめっこ。そんな時間は永遠のように感じるけれど、そう長くも続かない。だってほら、集中力が。

「あれ、小宮さんが居残りしてるの珍しいね」

 ふいに聞こえた小竹くんの声に、びく、と身体が震えたのは、もう反射だから仕方ない。でも同時に赤くなる頰はどうにかしたいと思ってしまう。
 今までは、学校で勉強なんてしなかった。塾に通っているわけでもないけれど、受験勉強はやっぱり家が一番落ち着くから。
 だけど、数日前から私は教室に残って、自習をして帰るようにしていた。理由はとっても簡単。
 好きなひとが、いつも図書室で勉強している。教室からだとその姿が見えるから。
 勉強に疲れたときはちらっと図書室を盗み見て、元気をチャージしていたのだ。
 その好きなひとが突然教室に現れたら、誰だってびっくりするだろう。

「えっ、なんで小竹くんがここに」
「俺は数学の解答書を忘れたのに気がついて。さすがにこれがないと解き方分かんないからさ」

 私が教えようか? と言えたらどんなによかったか。
 数学は得意だ。小竹くんがどんな問題につまずいているのかはわからないけど、たぶん、教科書の範囲内なら大体解けるはず。
 でもそんな勇気があるはずもなくて、そっか、と曖昧に笑うことしか出来なかった。
 もうすぐ受験が始まる。そうすると、学校は自由登校になり、小竹くんとも会えなくなる。
 ううん、もっと辛いのは…………。

「小宮さん?」
「えっ、あっ、ごめん、ぼーっとしてたみたい」

 受験のその後、卒業のことを考えて、しんみりとしてしまった。
 小竹くんは少し不思議そうな表情を浮かべ、それから私の方に歩み寄ると、そっと顔を覗き込む。

「風邪? 熱でもある?」
「な、な、ない! ないよ! 大丈夫!」
「真っ赤だけど」
「ほら私、赤が似合うらしいから!」

 自分でも何を言っているのか分からないけど、とにかく慌てて小竹くんの肩を押して離れるようにと促す。
 好きだけど。ううん、好きだから。近すぎると、心臓に悪い。
 赤くなった頰を押さえてふうと息を吐くと、小竹くんは小さく笑う。

「まあ、もうすぐ本番だし、気を張るのも分かるけど。小宮さんはすぐ無茶するから、気をつけた方がいいよ」

 ひらひらと手を振って教室を出て行った彼の背中を見送って、私は首を傾げる。
 無茶したことなんてあったかな。
 考えてみても、分からずじまいだった。


 受験が始まると、あっという間に日常は変化した。学校に行く間も無く勉強、合間に食事と睡眠。私立大学の受験も、共通テストも、あっという間に過ぎ去った。
 数学と物理、化学は手応えあり。問題は現代文だ。古文や漢文は必死に勉強したかいがあって、自己採点ではまあまあな点数が取れたけれど、現代文がよろしくない。
 私の第一志望校は国立大学なので、欲を言えばもう少し現代文でも点数が欲しかった。
 後から何を思っても仕方がないので、前期試験に向けてまたひたすら勉強漬けの日々だ。
 正直なところ、勉強のし過ぎで心が落ち込みきっていた。どんなに勉強しても受からないんじゃないか。この時間は無駄になるかもしれない。私なんて、どこの大学にも行けないのかも。
 そんな不安に駆られていた私は、せめてもの息抜きに家の近くのカフェでお茶をすることにした。あたたかいジンジャーレモンティーは心にまで染み渡って、少しだけ泣きそうになる。
 そんなときだった。窓の外に、見覚えのある後ろ姿を見つけたのは。
 それはもう反射に近い行動だった。飲みかけの紅茶を一気に飲み干し、バッグを持って店から飛び出る。そしてその少し猫背な背中を呼び止める。

「小竹くんっ!」

 振り向いた彼は、イヤホンをしていた。音楽か何かを聴いていたのだろうか。イヤホンをしていても聞こえるほどの声量だったと思うと恥ずかしいが、今は何より彼に会えたことが嬉しくて、私は小竹くんに駆け寄った。

「いま、カフェで息抜きしてたら小竹くんが見えて……」
「そうなの? 偶然だね」

 小さく笑う小竹くんも、少し疲れているように見えた。詳しくは知らないけれど、小竹くんは確か成績が良くて、かなり偏差値の高い国立大学を狙っているのだとか。
 きっと私よりもずっと大変なんだろうな、と考えたら、ちょっと勉強漬けになったくらいで病んでいた自分が恥ずかしくなる。
 それから、どうにかして小竹くんに元気を分けてあげられないか、と周りを見回して、ふと目についたのはガチャガチャ。

「小竹くん! これ、やってみようよ!」
「え? 別にいらないけど」
「猫のキーホルダーだよ!? 招き猫っていうし、ご利益あるかも!」

 いわゆるブサカワというやつだろうか。ちょっと不細工だけど、愛嬌のある表情の猫のキーホルダー。六種類あって、一つはシークレットらしい。
 二百円を機械に投入して、私は一番かわいい三毛猫の絵を指す。

「これ! この三毛猫ちゃん出すから見てて!」

 ガチャリ。大きな音ともに落ちてきたカプセルの中には、白猫がほっぺを赤く染めて照れているなんとも微妙なキーホルダーが入っていた。
 三毛猫がよかった、と肩を落とす私の後ろで、かすかに笑い声が聞こえる。驚いて振り向くと、小竹くんが必死に笑いを堪えている。

「ふ、ふふ、ごめ、笑っちゃいけないとは思ったんだけど……」
「えっ笑うところあった!?」
「出すからって言って出るものじゃないでしょ、これは」

 あー、おかしい。
 そう言って目尻に浮かんだ涙を小竹くんが拭う。涙が出るほど笑ってくれたのならば、それはそれでいい気がする。
 だって元はといえば、小竹くんに元気を出してほしかっただけなのだから。

「俺も久しぶりにやってみようかな」

 そう言って小竹くんはしゃがみこむ。普段は見られないつむじをまじまじと眺めていると、ガチャリ、という音を聞こえてくる。

「あ、これじゃない? 小宮さんが欲しかったやつ」
「あー! 三毛猫ちゃん!」

 ぽっこりお腹の三毛猫が満腹を訴える顔をしているそれは、とてもかわいい。
 いいなぁ、と思わず口からこぼれた言葉に反応して、小竹くんが私の手からキーホルダーを取り上げる。
 そして自分の出した三毛猫のそれを私の手のひらに置いて、交換、と笑ってみせた。

「えっ、えっ、でも絶対こっちの子の方がかわいいよ!? なんかその子不細工だよ!?」
「そう? 俺はこっちでいいよ。なんか小宮さんに似てるし」
「ついさっき私がその子のこと不細工って言ったのに、私に似てるとか言う!?」

 失礼しちゃう! と頰を膨らませながらも、もらった三毛猫はありがたくカバンにつけさせてもらった。
 くつくつ笑っていた小竹くんも、白猫を指でくるくるといじっている。どうやら捨てる気はないらしい。よかったね、白猫ちゃん。

「小宮さんは不細工ではないと思うけど」
「言い回し! なんか傷つく!」

 それだと、不細工ではないけどかわいくもないよね、と言われているみたいだ。実際かわいくはないけれど。
 好きなひとにそんなことを言われたらまた気分が落ち込んでしまう。少しだけしょんぼりとしていると、ふいに髪をぐしゃりと撫でられて、私は驚いて顔を上げる。

「嘘。小宮さんはかわいいと思うよ」

 え、と言葉がこぼれ落ちる。
 私が何かを言う前に、小竹くんはじゃあね、と手を振って駅の方へ歩いていってしまった。
 小竹くんはずるい。
 また今日も、小竹くんを好きになった。


 前期試験が終わった後、気が抜けてしまったのか、私は熱で寝込むことになった。卒業までもう日がないというのに、貴重な登校日を逃したことになる。
 卒業式の予行練習日も欠席してしまい、担任から電話があった。淡々と告げられたそれは、卒業式の日の一日の流れだった。もし休むようなら卒業証書は郵送することもできるけど、と言われたので、明日は絶対行きます! と食い気味に答えた。
 ようやく熱も下がり、明日の卒業式には無事に間に合いそうだ。
 明日で小竹くんのことは見納めだ。
 きっと私は告白できない。そんな勇気もなければ、自信もない。だから、明日で会うのは最後。
 せっかく芽吹いたこの恋は、花を咲かせる前に枯れてしまう。
 でもきっと私の中で大切な思い出として残るから、それでいいんだと思う。
 小竹くんに交換してもらった三毛猫のキーホルダーを指で撫でながら、そんなことを思った。


 卒業式当日。
 全快した私は、三年間お世話になった制服と履き慣れたローファーにしみじみとしながら、学校へ向かった。
 三年もの間通い続けたこの道も、もう学校へ向かう道としては使わなくなるんだなぁと思うと感慨深い。
 ゆっくり歩いているうちに、校門が視界に入る。そして、その前に立つ学ラン姿の男の子は、紛れもなく小竹くんだった。

「おはよう、小竹くん」

 朝一番に小竹くんに会えるなんて、高校生活最終日にしてツイてるなぁ、私。
 思わず笑みがこぼれてしまったけれど、気にすることなく元気よく挨拶する。すると小竹くんは、おはようとやわらかい笑顔を返して、私と一緒に校門を通り玄関に向かって歩き出す。

「あれ? 小竹くん、さっき校門前に立ってたよね? 誰かを待ってたんじゃないの?」
「うん。小宮さんを待ってたんだよ」

 予想外の言葉に目を丸くする。
 私? 私を待っていたの? 小竹くんが? なんで?
 困惑する私に気づいているのかいないのか、小竹くんは言葉を続ける。

「もし今日も小宮さんが来なそうだったら、走って家まで迎えに行こうかと思ってた」
「え、な、なんで?」
「だって卒業式だし」

 別にズル休みをしていたわけじゃないんだけど、と苦笑いをこぼすと、知ってるよ、と小竹くんも笑う。
 受験で無理しすぎて熱を出したんでしょ、と続いた言葉に、私はいつかの小竹くんの言葉を思い出す。
 小宮さんはすぐ無茶するから、気をつけた方がいいよ。
 そういえばあれってどういう意味だったのだろう。今なら訊けるかもしれない、と口を開きかけると、ちょうど小竹くんが喋り出した。今日の小竹くんは、やけに饒舌だ。

「一年のとき、文化祭実行委員で準備を頑張りすぎて、確か当日に熱で休んでたよね?」
「えっよく知ってるね」
「あのときから、小宮さんは頑張り屋さんなんだなって思ってたよ」

 小竹くんの横顔が、やけに優しい表情をしていてドキッとする。ちゃり、と音を立てたキーホルダーの三毛猫を指でそっと撫でて、私は心を落ち着ける。
 小竹くん、いつもと少し雰囲気が違う。
 いつもよりよく喋るし、それになんだか、いつも以上にかっこいい。どうしてそう思うのかは分からないけれど、そんなことを思う。

「小竹くんとは、三年間同じクラスだったけど、仲良くなれたのは三年の後半になってからだったね」

 もっと早く、小竹くんの魅力に気づいていたらよかった。
 そしたらこんな風に話す時間が、もっとあったかもしれない。
 卒業というタイムリミットを意識することなく、積極的になれたかもしれないのに。

「小宮さんはいつも人に囲まれてたから」

 どこか寂しげに笑う小竹くんが、玄関で上履きに履き替える。クラスの大半の男子とは違い、踵を踏み潰していないそれは、小竹くんの真面目さを表しているみたいで愛おしくなる。
 私も靴を履き替え、小竹くんと一緒に教室に向かった。でもなんとなく、二人の間にはさっきまでなかった距離ができている。
 たぶん、教室が近づいてきたからだ。私と一緒にいるところを見られて、変にからかわれるのを危惧したんだと思う。小竹くんはクラスでもおとなしいタイプだから。
 分かっているのに、少し寂しい。
 私はからかわれてもいいのに。付き合ってるの? と冷やかされたって、むしろそれをきっかけに小竹くんが一瞬、ほんの一瞬でも私を意識してくれたらいいのに、と思っている。
 でも、きっと私も前はそうだった。恋をする前の私なら、偶然一緒に教室に向かうことになった男子とは、わざとちょっと距離を開けたはずだ。
 つまり、そういうことなんだろう。

「あれっ! 美玲じゃん! よかったね、卒業式は来られたんだ!」

 教室に入るなり、小竹くんは何も言わずにすっと自分の席に移動してしまった。
 私は友達から熱烈な歓迎を受け、その後みんなで写真を何枚も撮った。
 卒業してからも集まろうね、と言いながらも、みんなどこかで分かっているのだ。
 高校生である今は、二度と戻ってこないことを。次に同じメンバーで集まったときは、違う友達がいて、恋人ができていたりして、何かが変わってしまうということも。


 卒業式は、予定通りに進められた。予行練習には出ていなかったけれど、周りのみんなに合わせていればなんとなく流れは理解できたし、特に困ることもなかった。
 卒業生用の椅子がずらりと並ぶなか、クラスごとに出席番号順に着席した。隣は、小竹くんだった。
 いつも私の前の席に座っている小竹くんが、今日だけ。この時間だけは、隣にいる。その事実が嬉しくて、予行練習の日に熱を出してしまったことを盛大に後悔したくらいだ。
 校長先生からのありがたいお言葉、卒業生と在校生代表の挨拶、吹奏楽部の演奏や合唱部からの歌の贈りもの。
 あたりからぐす、と泣き声が聞こえ始めて、連鎖するように女子が泣き出した。涙もろい男子も何人か泣いていたりして、私も目頭が熱くなったけれど、なんとか堪えた。
 隣にいる小竹くんは、泣いていなかった。いつものまっすぐな瞳で、前だけを見つめていた。
 その横顔が、どうしようもなく、好きだと思った。


 卒業式が終わって、高校生活最後のホームルームも終わった。卒業証書と成績表も手元にやってきて、いよいよ後は帰るだけ。
 でも誰も帰ろうとはしなかった。意外なことに、小竹くんもすぐには立ち上がらなかった。
 みんなで泣きながら写真を撮って、寄せ書きをして、クラス会の話をして。
 そんなクラスの輪にいても、私は小竹くんが気になって仕方なかった。
 いつ帰ってしまうだろう。今は友達と話しているみたいだけど、終わったらすぐに帰ってしまうかもしれない。
 告白はできない。でも、せめて最後にもう一度だけ話がしたい。あのやわらかな笑顔をもう一度だけ。
 そんなことを考えているときだった。クラスメイトの中でも仲の良かった和田くんが、「美玲に話があるんだけど!」と教室中に響く声をあげたのだ。
 それが告白だと分からないほど、鈍くはない。というか、周りも「やっと告白するんだ?」と冷やかしているし、気づかないわけもない。
 気持ちは嬉しい。でも、小竹くんのいる空間ではやめて欲しかった。どうしよう、と戸惑っていると、ガタン、という大きな音と共に小竹くんが立ち上がる。
 そして私の方に早足で歩み寄り、「ごめん、俺が先に約束してたから」と私の手を引く。私の手首を掴んだまま歩き出した小竹くんに、クラスメイトが騒がないわけがない。

「えっあいつ美玲のこと好きだったの?」
「どう見ても和田の方がお似合いじゃん」

 そんな心無い言葉が、背中に刺さる。
 小竹くんを傷つけてしまう、私のせいで。
 なんて言葉をかければいいか迷いながら、手を引かれるままに廊下に出て、そのまま誰もいない空き教室に連れていかれる。
 ようやく手が離れたときには、触れられたことによるドキドキと、自分のせいで小竹くんが悪く言われてしまったことによる罪悪感でいっぱいになっていた。

「あ、あの……小竹くん」

 ごめん! という二つの声が重なる。
 それが私と小竹くんのものだと理解するのに数秒かかってしまった。

「えっ、なんで小宮さんが謝るの?」
「……だって、さっき私のせいで、小竹くん、嫌なこと言われちゃったでしょ」
「別に気にしてないよ」

 実際俺なんかより和田くんの方が小宮さんとは釣り合うと思うし。
 そんな何気ない言葉が、胸にぐさりと突き刺さる。
 和田くんはいつもクラスの中心にいるような、賑やかでムードメーカーの男の子だ。彼の周りは笑顔が絶えない、素敵なひとだと思う。
 でも、私が好きなのは小竹くんだ。
 静かで、まじめで、勉強が得意で、たまにちょっと意地悪で、ときおり見せる笑顔が優しい、小竹くん。

「…………小竹くんはどうしてさっき謝ったの?」

 好きって気持ちは何も言えなくて。代わりに吐き出したのは、全く別の言葉だった。
 小竹くんは無理矢理連れ出しちゃったから、と答えたけれど、私は嬉しかったんだよ、と言いたかった。
 
「じゃあなんで連れ出してくれたの?」
「…………なんでだろう」

 小竹くんは少し首を傾げて、黙り込む。
 もしかして頭で考えるより先に体が動いていたのだろうか。
 いつもしっかり自分の考えを持っている小竹くんには珍しいことに思える。
 答えを待っていると、小竹くんはようやく「ああ、そっか」と声を上げた。

「和田くんがたぶん告白すると思ったから、その返事を聞きたくなかったのかもしれない」
「え? どういうこと?」
「小宮さんが、和田くんと付き合うことになるのが嫌だったんだ」

 うん、そうかも。と自分の言葉に納得するように、小竹くんが頷いてみせる。
 私の目をまっすぐ見つめる小竹くんのことが分からない。
 だって私と和田くんが付き合うことになったら嫌だって。どうして? それじゃあまるで、……まるで。
 期待してしまいそうになる。勝手に熱くなる頰が、涙の浮かぶ目が、言うことを聞いてくれない。
 こんな反応をしたらだめなのに。小竹くんに変に思われてしまう。
 二人の沈黙が重なる。沈黙を破ったのは、小竹くんの方だった。小さくふきだして、それから笑いすぎて涙目になりながら、口を開いた。

「小宮さんって本当に、表情豊かというか……、分かりやすいよね」

 それって褒め言葉なのだろうか。たぶん、違う気がする。
 でも小竹くんが笑ってくれるならそれでよかった。

「あー…………本当は言わないつもりだったんだ。どうせ無理だろうし、卒業したら自然に忘れられるだろうからって」
「…………? なんの話?」

 私が首を傾げると、小竹くんは目の前でしゃがみこんで頭を抱えた。
 大丈夫? と声をかけるのと同時に、ちゃり、と音がして、小竹くんのズボンのポケットから白猫が顔を出した。
 ほっぺを赤く染めた白猫のキーホルダー。小竹くんが私に似ていると言ってくれたそれと目が合って、胸の奥がきゅんとする。
 使ってくれているんだ。最初はいらないと言っていたのに。
 嬉しい。やっぱり私、小竹くんが好きだ。大好きだ。
 気持ちを噛み締めていると、小竹くんが顔をあげる。その頰が少し赤く染まっていて、初めて見る表情にまた胸がきゅんと鳴く。

「………………おれが」
「うん」
「小宮さんのことを好きって話」
「えっ」

 驚いて目を見開く。
 小竹くんも、私のことが好き。
 その響きだけで胸がいっぱいになって、どうしようもないくらい胸がきゅんとして苦しくなる。
 しゃがみこむ小竹くんと目線を合わせるように、私もスカートを押さえながら腰を下ろす。
 自然と近くなった距離にドキドキして、それでも離れたりはしない。
 まっすぐな瞳に見つめられながら、私はゆっくり口を開く。

「もう卒業だし、私も言わないつもりだったの」

 卒業すれば、関わりがなくなれば、きっと色褪せていく。そう思っていたから。

「私もね、小竹くんが好き。大好き」

 本当は嫌だった。高校を卒業して、小竹くんと関わりがなくなってしまうことが。
 いつか小竹くんにもかわいい彼女ができて。あの優しい笑顔が特定の誰かのものになってしまうと考えたら、寂しくて堪らなかった。
 真っ赤な顔を隠しもせずに、私は笑う。
 やっと言えた。しまいこもうとしていた私の気持ち。聞いてもらえた、小竹くんに。
 小竹くんは「あー……もう」と言いながら小さくため息をつく。それからほんのり赤い頰を緩めて、私の大好きな優しい笑顔を浮かべる。

「…………小宮さんに釣り合う男になれるように、頑張るから」
「それ以上かっこよくなられたら困るよ」
「絶対贔屓目だからね、それ。一般的にはかっこよくないと思うよ、俺は」

 でも小宮さんがかっこいいって言ってくれるなら嬉しい。
 そう言ってはにかむ小竹くんがかわいくて、好きが溢れそうになる。油断したらすぐに言葉になってこぼれてしまいそう。

「ねぇ、卒業しちゃったけど……これからも会えると思っていいのかな?」

 私の言葉に、小竹くんは恥ずかしそうな色を浮かべ、頷いた。

「小宮さんがいいなら。俺の、彼女になってくれる?」
「…………! うん! なる! 私を小竹くんの彼女にしてください!」
「はは、元気でなにより」

 小竹くんの指先が、私の手に触れる。
 ドキン、と大きく胸が鳴ってうるさいけれど、その指先が少し震えていることに気がついた。きっと小竹くんも緊張しているんだ。そう思うと、なぜか少し安心した。


 この日、私たちは高校を卒業した。
 それからもう一つ。友達を卒業して、恋人になった。
 これはもうちょっと先の話だけど、数年後。淳平くん、美玲、と呼び合うようになった私たちが、恋人を卒業して、同じ苗字になることを、私たちはまだ知らない。
 今はまだ、恋人になったばかりの彼のぬくもりを、指先だけで感じながら、幸せに浸るのだ。それだけできっと充分だから。