石川臨未を見つけたのは、高校二年の冬。その日も、駿河湾に面した港から、ポーッ、と出航の合図が聴こえていた。

 夏には意気揚々と聴こえる合図が、寒空の下では嘆きにも似てとれる。
 C棟二階の美術室で、『光』を共通テーマとした課題の案を考えながら、僕も薄い雲を眺めて嘆く。こんな名前で、しっかり冬生まれなのに、昔から冬の雲は苦手だった。ハケではいたように薄いのに、なんだか重い。

「朝倉くん、今回も水彩にするの?」

 隣にスツールを運び、その前にイーゼルを固定しながら浅井(あさい) 市華(いちか)は言う。
 二年間同じクラスで、出席番号は二年とも前後の浅井朝倉(あざいあさくら)。安土桃山時代、古き盟友だった浅井家と朝倉家の歴史をなぞらえて、誰かが僕たちをそう呼んでいた。

「うん、水彩かな。浅井さんは?」
「私は油絵。まあ、こっちもいつも通り」
「もうモチーフ決まったの?」
「まあ、大体は」

 一昨日出された課題なのに、もう決まったというのか。イーゼルを調整する横顔を眺めながら、目を丸くする。
 前から後ろへと綺麗に流れる、結っても長いポニーテールの、額を型どる生え際が相変わらず整っていて、彼女の確固たる意志が見てとれる。

 ——私はムサビに行く。絶対。

 そう言った彼女は部活の後、入るのさえ難しいと言われる予備校に通っている。気が強く、芯があって、とにかく強い——けれど、彼女はどこか気疲れしているようにも見えた。

 ——部活が一番落ち着く。……なんていうか、癒しなんだよね。好きなことに好きな距離感で触れられる感じが。あーでも、これ、甘えかな。

 予備校では、厳しい制作に取り組んでいるのかもしれない。罪悪感を混ぜて微笑む彼女の、見えざる努力に、僕は感嘆した。
 与えられた課題の通り描いて、過去の栄光に縋るだけの自分が、矮小な存在に思えて仕方がない。浅井朝倉、と肩を並べているように囁かれる度、勝手に申し訳ない気持ちになった。

「ごめん、僕ちょっと、外の空気吸ってくるよ」
「え……あ、そう?」

 スケッチブックとキャンバスを見比べながら、市華は目を丸くする。「いってらっしゃい」と言われたので背を向けると、「あ、ちょっと待って」と引き留められた。

「ん?」

 横に流れたポニーテールの、細い毛先を見据える。

「朝倉くんの水彩画、楽しみにしてるから」


 美術室を後にすると、ふっと肩が軽くなる。その瞬間、自分が焦燥感に取り憑かれていたのだと悟る。——徐々に遠ざかる、美術室特有の油の匂いを背に旋律を聴いたのは、そのときだ。音楽には疎かったけど、ギターの音だと判った。
 思わず息を止めたのは、歌声が聴こえたからだ。弦を弾くというより撫でるような優しい旋律に、女性の歌声が乗せられている。

「下……?」

 焦燥感を煽る、あの禍々しい匂いのせいで五感が鈍っているのか、上から聴こえているのか下から聴こえているのか分からない。
 どちらに足を進めようかと迷い、二階の踊り場で立ち往生する。やっぱり下か?と下れば、そのたった一段で当たりだったのだと確信した。
 若々しくも、甘さ控えめの美しい声。段差を踏む足音が雑音にならないよう、精一杯気を遣う。近づく度に、ギターの音が脇役と化していく。歌声は乗せられていたのではなく、優しいギターの伴奏がそれを引き立てていた。

 ——……ここから、だろうか。
 一階は多目的教室だらけで、特別な用途はない。放課後は使われるはずのない、その一室から、旋律は漏れている。
 息を殺しながら近づいた扉に、隙間が空いていたのは偶然で、吸い寄せられるように顔を近づけた。

「————…………」

 息を呑み、思った。
 視覚というのは恐ろしい。もっといえば、得ていた聴覚と合わさると。

 隅まで閉められた黄ばんだカーテン。椅子に座り、弱い遮光性から漏れた白い光を、真正面に受けながら歌う少女。ブレザーは背凭れに掛け、華奢な背中は白いカーディガンに覆われ、その両端からはギターの輪郭がはみ出ている。毛先の揃った艶のあるロングヘアが、寒さから彼女を守っているように見えた。
 歌は聴覚で得たものが全てだという、これまでの常識を覆され、高揚に浸った。そこ(・・)から音が響いているのだと分かると、なんとも言えない幸福感に満たされた。
 力強さも、柔らかさもない。それなのに、彼女が奏でる音楽には、惹き付けられるドラマがあった。美を象る(すべ)が美術の由来であるのなら、彼女の歌声は“音楽”にも“美術”にもなり得るだろうと思えるほどに。

 あの時の自分の姿は、まるで鶴の恩返しのようだったな、と思いながら苦笑する。
 鶴を眺めた夜は、眠れなかった。それまで、筆を握る度に漠然と感じるようになっていた焦燥感を、簡単に塗り替えて訪れる衝動。

「…………描きたい」

 ベッドから跳ねるように起き上がり、スケッチブックを手に取る。目に焼き付けた後ろ姿を、鉛筆が、得体の知れない速さでなぞっていく。手の影を落とすデスクライトが時々煩わしくて、付けたり消したりを繰り返した。
 そうして描きながら、部の課題と告げられた『光』が過る。——彼女は光だろうか。だけど、彼女は照らすというよりも、引き込むといった方が相応しい。それでも浮かんだのは、彼女の歌声に、それを感じ取ったからだろうか。
 結局、明確な答えに辿り着けないまま、衝動を描き終えた。肩の力を抜いて、気にもしていなかった時計を見ると、明け方の五時を回っていた。

「全っ然、ダメだな」

 デスクライトを付けたまま、背中からベッドに体を投げる。衝動に任せて描いた彼女は、実際に見た彼女とは何かが違う。別物だ。
 もう一度、あの歌声を聴きたい。あわよくば、あの歌声のそばで描きたい——。深い眠りにつく寸前、自然に欲望が沸き上がった。