だけど、ある日私は、ドナーになった。手術も、全身麻酔も、初めてだった。歩けないわけでも、重たい病気を患っているわけでもないのに、寝かされたまま頭から入った手術室のなかは、新緑に囲まれているようだった。
入ってすぐに頭部全体を金具で固定され、鋭く細い痛みが走る。麻酔を打たれたのだと気がついた。どのくらいか、徐々に意識は遠退いて、次に目覚めた頃には金具も外されていて、その日のうちに副作用や、それを防ぐための手術について話を聴いた。
私の歌声は、金額という定量化と数十分の手術を経て、マッチング相手の元へ旅立った。
「ハァ——……」
校内なのに、じんわりと微かな白い息が空気を舞う。踊り場から上を見上げると、半年ほど前にこじ開けた真鍮の錠がぶらりと下がっていた。
一度こじ開けてしまった錠は、もうペンチいらずだ。きっと、生徒を敬遠するためのお飾りだったのだろう。数ヵ月前、私が壊してしまった後も修繕されることはなく、一緒に掛かっている鎖を使ったカムフラージュも前回から動きはない。
ギィィッ——。
なんなら、錠を外すときよりも、この錆びた扉が開く音の方が不穏だ。校内の誰かに知れてしまったら、立ち入り禁止が強化されて、錠も新しいものに変えられてしまうだろう。
「さむー……」
ゴム系の薄い灰色の床が、上履きにペタリと張り付く。メッシュフェンスの向こうには、音楽室や美術室のあるC棟と、青空とのツートーンが佇んでいる。色がパキリと変わるその境界線を、私は指でなぞった。
——あのさ、うちら臨未が言うまでずっと黙ってようと思ってたんだけど、
まだこの場所の常連になる前、仲の良かったグループ内で言われたことを思い出す。
——なんで話してくれないの?待ってたんだよ、臨未が話してくれるの。
ずっと黙ってようなんて、嘘じゃないか。
人差し指で空っ風を切るように、ゆっくり、なぞっていく。
——待ってたって……なにを?
——先生から聴いてたんだよ、みんな。臨未がドナーになったって。
だから、なんだというのか。
——友達だと思ってたのに、なんで打ち明けてくんないの?……うちらはっ、……心配で、
なんで、そっちが涙を流すの。ねえ、それって“弱者を想う健気な自分”を魅せる、パフォーマンスなんじゃない?
教室のなかで涙を溢す女子に、周りはざわついていた。私を攻めるわけでもなく、ただ彼女に同情することで、群がった彼女たちもそのパフォーマンスに加わった。
大好きだった歌が思うように歌えなくなってしまったことも、ドナーとして歌声を売ってしまったことも、手術が呆気なく終わったことも、全部、言わなければいけなかったのだろうか。打ち明けることが信頼の証になると、彼女たちは信じているのだろうか。
——もういい……臨未がうちらのこと、どう思ってるのか、よく分かったから。
その日は終業式で、次の日からは夏休みという晴れやかな昼下がりだったはずなのに、教室は葬式のように静かだった。嫌な汗が、こめかみに滲んだ。
それでも、特に仲の良かった美世と莉亜夢は、今でも変わらない様子で接してくれている。けれど、そう見えるだけで、心の内側はきっと前と同じではない。
——いいんだよ。無理に話さなくったって。ね、美世。
——うん!いいのいいの。
それもきっと、嘘ではない。だけど、出来ることなら話してほしい。話してくれたら、ちゃんと信頼できるのに。と叫ぶ彼女たちの表情が浮かぶと、私は緞帳を下ろした。
吉川と付き合っていたことも、それがダメになったことさえも——打ち明けていないこと自体に何も感じていなかったのに、炙り出されるようにゆっくりと、露になっていく罪悪感に吐き気がした。
メッシュフェンスに手を掛ける。ここを乗り越えるのは、案外簡単だったな。と、たった半年前のことを大昔のように懐かしむ。
「朝倉、真冬……」
ここで名乗られたときは、涼しげでいいなぁとすら思ったのに、今は刻むだけで寒さが際立つような気がしてくる。
——石川、臨未さん、だよね?
去年の九月だ。フェンスの向こう側に立った私に、彼は息を荒げて言った。
——死にたいの?
配慮の無い真っ直ぐな言葉を、思わず振り向いた。
風に靡く黒い髪。首の後ろにも、襟足が生えているのが分かる。薄すぎず、彫りも深すぎないその甘い顔立ちは、平均よりも小さく見える身長を簡単にカバーしてしまいそうだ。出目で、童顔で、子犬みたい——それが、彼の外見に抱いた感想だった。
——落ちたら、痛いと思う。
でもよく見ると、上履きの色が青い。学年ごとに区別されていて、今年の青は三年生だったはずだ。
——確かに、痛いかも。
一学年上の上級生だと気づいたのに、敬語は唇を割らなかった。彼は怒らなかった。それでも、どこか切迫したような空気を纏って、私にジリジリ近づいた。何も知らないくせに、何かを背負ったような重く険しい表情で、私を捉えていた。
——メッシュフェンスの向こうには、少し迫り上がった壁があって。屋上を囲う水色の、アレ。アレが結構分厚くて、飛び越えるのが大変なの。
とある約束を交わし、内側に戻った後、私は真冬にそう言った。所々に汗を滲ませた彼は、それをハンカチで丁寧に拭いながら苦笑した。ハンカチを常用する男子は珍しいので、少しだけ目を丸くした。
私は名乗らなかったけど、彼は名乗った。
——涼しそうな名前ですね。朝に冬って。
ようやく敬語を使うと、彼はアハハ、と眉を八の字にして笑う。
——臨未ちゃんは、生きなきゃいけないって思ったことある?
——さぁ……どうだろう。
だけど、すぐに違和感を覚えてやめた。真冬の方も簡単に下の名前で呼んでいたし、やめても彼は、やっぱり怒らなかった。
——僕は、生きなきゃいけないって思う人ほど、死に近づいてしまうんだと思う。もちろん、そういう人ばかりじゃないことも、そんな一言で片づけられるほど簡単じゃないってことも、分かってはいるけど。
桜色の、薄い唇がゆっくり紡いだ。慎重に言葉を選ぶように、繋がれた。死を間際にした人間が傍にいるから、というより、何かと私を重ねていたから、という方が近い気がする。
彼が重ねるのと同じように、私も両親を浮かべていた。経営が厳しくなった家業を畳み、畳むだけでは儘ならなかった世の中で、死を選んだ二人——その子どもたちは、愛情を受け取っていたからこそ、彼らの全てを知ることが出来なかった。苦痛を隠され、その挙げ句に待っていた唐突の死、だった。
それでも二人は、私たちのために『生きなければいけない』と、きっと、思ったはずなんだ。
——私も、そんな気がする。
そう呟いたとき、仰いだ空には、掴めそうなくらい近くに雲があった。
朝倉真冬が事故に遭ったのは、それから約二ヶ月後。私は救急車に吸い込まれていく彼を、ただ見ているだけだった。
重傷だけど、命には別状はない。長期入院にはなるけれど、戻ってくる——と。年明けの校内で聴いて、私は胸を撫で下ろした。それなのに——、
「なんで、あそこにいたんだろ」
昨日、県立病院を彷徨っていた真冬の姿を思い出しながら、校内に戻る。冷気を纏ったまま、私は踊り場の塀に背を凭れた。
たしか、三年は今月中、自由登校のはずだ。思い伏せながら、ポケットに入れていたカイロを揉むと、霜焼け間近の指が痒くなってくる。
『今日は、夕飯いらないです』
スマホをタップする指は、すでに赤い。
礼実ちゃんへのメッセージを送信した後、私は昇降口へ向かおうと一段下りる。すると視界が霞み、鋭い杭を打たれるような頭痛に、一瞬襲われた。
「あーっ……もう、こんなときに」
最近、頻発している鋭い痛みだ。私は眉根の辺りをぎゅうっと押さえ、落ちていくように階段を下った。